第3話

文字数 2,700文字

 思い返してみれば高校を卒業してからの何年間か、失ってばかりのような気がしていた。まだぎりぎり残っていたはずの社交性は瞬く間に劣化して使い物にならなくなっていた。ただそれなのに時間だけは過ぎ去っていくから、停滞に縋りつくことしかできない彼はいろいろなものに置いていかれていて。梶井基次郎や志賀直哉がそれを救ってくれるわけもなく、ある程度までは読み進めて、それからその本は開かなくなって。ニーチェやパスカルを読んでは恐れを隠して、いろんなものを鼻で笑うようなことしかできなくて。そんな日々が続いてこれからの人生もそうである気がするから怖い。タバコを吸ったからだろうか、胸の奥から倦怠感を吐き出すように軽くえずいた。
 気持ちが悪い。気分が悪い。
 私に言われても困るわ。このまま帰るの?
 カフェに寄りたい。
 ただ時間を潰すためだけに?
 少しでも時間が意味を持つように。
 色々なものから逃げているのに?
 色々なものから逃げているからだよ。
 貴方の縋りつくそれはあまりに貧弱というよりも、もっとひどい実体のない何かに見えるわ。
 彼は何も言い返さなかった。
 大きなグラスに入ったコーヒーはなぜか五百円を優に超えて、口をつけて思い出すのは甘いものを好んでいた昔の話。そのころから空想することが好きで、でもその対象は美しい何かではなく、他者から認められる自分の姿でしかなかった。
 僕には全部が手段に見える。
 貴方が手に取ったものは全てすぐに腐り落ちていくわ。
 僕に美しいものは書けないのかな。
 貴方に美しいものは描けないわ。
 ノートパソコンに映るのは彼の綴った物語モドキ。
 このお話はいい発想から生まれたものだと思うんだよ。
 いくら取り繕うとも手段は目的にならないわ。
 だけども、他者なら何かをさ。
 他者だからこそよ。
 彼はコーヒーを飲み込んだ。カフェはこの時間ならば人も少なくなっていて、だからこそそこにいる一人一人がまるで人間みたいに思えた。共通の知人の下世話な話を笑顔で広げる男たちと、我関せずで競馬新聞を広げる目の細い老人と、彼と同じようにパソコンとにらめっこする壮年の女性と大学生のような見た目の青年と。話し声は混ざり合って何の意味もなさないのに、なさないからこそ彼は世界とうまく繋がれないままで、それが苦しい反面、呼吸ができるほどには楽だった。
 店内に流れるピアノは黒と白を軽やかに踏み荒らしているように聞こえて今は聞きたくない。何の情報も入ってこなくていい。
 キーボードを最後に叩いてから三十分経ったろうか。彼の脳細胞は壊死してしまったみたいな灰色で彼女は心底軽蔑したような目で彼を眺めていて、眺めていたから。
 ねぇ。何のために貴方は生きているの?
 解ってるよ。そんなこと。
 あら、話がかみ合わないわね。私は何のために貴方は生きているのか聞いてるのよ。
 だから、解ってるんだよ。
 彼は繰り返す。彼女は呆れたように笑う。
 ねぇ。誰かに認められたいだなんて、なんておこがましいのかしら。貴方の容姿は知っての通り見てられないほどで、それなのに何かを継続する才能もなくて、その欲望だって小さく風が吹けば消えてしまいそうなほどで、それなのに貴方にあるのはそんなものだけ。その程度のものだけが貴方を動かしている。そんな貴方に何が生み出せるの?
 貴方のその名誉心や臆病な自尊心は確かに貴方を支配していて貴方を苦しめている。けれどね、貴方の苦しむのはそれらの大きさ故ではなくてね、それ以外何も持っていない空虚さに由来しているのよ。
 だから今も何もできないまま。貴方の名誉心や自尊心は貴方を苦しめこそはするけれども、貴方を突き動かしはしないわ。その程度のもの。その程度のものなのに貴方はそんなもので満たされてしまうほどに空虚で空っぽ。
 本当に見ていられないほど惨めよ。
 彼はただ目を瞑った。
 アイスコーヒーすら温くなってしまった。
 相も変わらず気分は酷い。タバコを吸った。知らない海の匂いがする異国の女性の肌と豊満な胸に目を惹かれて、それから逸らして。それ以降彼は彼女に視線をやることは無かった。
 彼はそのまま夜道を歩いた。薄く吹く風は少し冷たすぎる。彼は家に帰ると布団に入って自慰行為に励んだ。空虚な気持だった。勃起しきらないそれを右手でただ機械的に動かして、ようやく膨らみきったそれは悲鳴を上げているように思えた。
 画面の中の非現実の少女は彼と目を合わせない。だから彼はやがてやってくるであろう予定調和の快感をただ待つことが出来る。熱を帯びていくのをどこか冷静に受け入れる自分がいて、ただでもそこに彼女はいない。熱に浮かされた脳みそに彼女の居場所はない。視覚でとらえる人口の光。それで彼は今日見た女子大生も、その太ももも、異国の女性の胸と二の腕を匿名にして目元だけ隠して丸裸にして。身を捩りたくなるような波の中で、足に籠る力。彼女を失った彼は彼を忘れて、ただ大きな流れの一部となって呼吸と彼その物は同一化していく。空白の後、やがてきた吐精の快感には快も苦も欠けていて、だけれどもその疲労感は彼を包み込んでくれた。優しい月夜の心地、脳みその中へドロッとした液体のように広がる悦び、温もり。
 薄紙一枚で支えられる程度の何かが身体から排除されたこと。その匂いは気が付けばかいていた汗と混ざり合って、それでもそれが汚いものだとはなぜか思えない。何故だか酷くロマンチックな何かのようにさえ思えてくる。彼はもう一度その匂いを嗅いで、顔を顰めて、それで床へ投げ捨てた。
 彼は寝転がって、窓から入ってくるわずかな街の光をぼんやりと眺める。
 今日産み出した文字列は特に面白みもないから全部消した。であるならば今日産み出した何かは全部が無意味で、今日という日は昨日の延長戦のまま、そんな日がずっとずっと続いていて過去が過去になってくれない。ただ停滞が其処にあるという事実と、今日も目が合わせられなかった。それだけの日。
 彼女は彼に言う。電気の消えた部屋。
 さっきぶりね。
 あぁ。さっきぶりだね。
 貴方の自慰行為はなんていうか見ていて気の毒になるわ。
 そうかな。
 でも貴方にとって唯一の私を忘れられる時間だものね。
 そうだね。
 ガラス窓の向こうで聞こえる若者たちの声。車の音と風の音。暗闇の中でもわずかな輪郭が浮かび上がるのは住み慣れた部屋だから。
 ねぇ。一応聞いておくのだけれど、貴方はどうして私を追い出さないの?
 彼はさほど迷うことなく答える。
 それはきっと、君をどうしようもなく愛してるからなんだ。
 そう。それは本当に気持ち悪いわ。
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