第2話

文字数 2,655文字

 本当に貴方は気持ちが悪い人ね。どうしようもない人。
 僕は所詮僕だからさ。
 そういうところが本当に気色悪いわ。解っているふりして貴方は何もわかっていないのよ。自分がどうしようもなく中途半端で、口だけで、生きる価値のない人間だって。
 解っているよ。
 いいえ。貴方は解ってないわ。解っているのならば貴方は自分をきちんと傷つけてあげられるのに、それすらままならないのですから。
 解ってるんだって。これでも僕が頑張った方なんだってことも。
 阿呆らしいわ。
 そうだね。ごめん。
 教室の中は二十人未満。遅れた彼に残されていたのは一番前の特等席のみで、それがまた彼を悩ませた一つの理由だった。
 白髪の教授はゆっくりとしたテンポでデカルトの方法序説を音読する。心身問題について。エリザベトとデカルトの往復書簡。教授が一息ついて教室を一瞥する。質問を求めていた。その隙を逃さまいと女子生徒が手を挙げた。彼女の熱心な瞳と神経質そうな顔の形。その瞳は自信にあふれているようでしかし反面、ピンと上げた手は真っすぐだというのにどこか落ち着かないようだった。
 あら、髪も整えていないし身なりも酷いわね。純アジア人ですみたいな顔して、それでもねじ曲がったプライドだけはその眼に宿しているようね。
 彼女の曲がったつむじは他人を見れば簡単に元の通りに。それは彼もまた同じ。
 そうかい?見た目はそこまでひどいと思わないけれどね。
 ホント?軽い知的障碍者のような見た目よ彼女。それも先天的な。きっと父親にレイプされかけた経験もあるわ。
 君は口が悪いね。
 彼はたしなめるように言ったが、しかしその質問内容があまりにも的外れで、日本語すら理解できていないような有様だったから、彼は思わず目をむいて彼女の顔を凝視した。
 本当に質問とも言えないほど低レベルじゃないか! 君の言ったことも案外そこまで的外れていないのかもしれないよ。
 ホントに何を聞いてたのかってぐらい酷い質問。でも貴方もそんな表情に出すのはやめなさい。不細工があからさまに活き活きし始めるのは周りから見たら不快極まりないわ。性根まで捻じ曲がってる救いようのない人間ってことがばれてしまうわよ?
 そうだね。気を付けるよ。ただでも教授の反応も、周りの反応も残酷だね。まったく頭が悪いっていうのはどうしようもないことだ。
 そうね。しっかりと話を聞いてあれなのだとしたら本当にご愁傷様。貴方以下の人間もいるものなのね。少し悲しい発見よ。
 そうだね。それでその事実は何よりも僕を満たしてくれるんだ。
 彼はその緩んだ表情を隠すために配られていたプリントに目を向けて、しかし貧乏ゆすりは止まらず、感情のまま走らせたペンは何重もの円を描いた。だから彼も彼の中にいる少女も質問をした頭の悪い彼女の瞳が未だ力強くあったことに、教授からの応答に対しても、周りから漏れ出た嘲笑に対しても、まるで何かを睨みつけるように顔を下げなかったことに気が付くことは無かった。

 喫煙所は人が零れそうなほどで、溢れ出した彼は衝立の外で火をつける。壁と壁のはざま、雨や日差しから彼らを守るためには少し頼りない庇。臭いだってひどいものでこんなところで寝泊まりすればきっと三日もたたず肺が真っ黒になる。しかし彼の思う不満は何よりもこの閉塞感で、人が多いことは勿論のコト、空が見えないことも気に食わない。彼は渋谷の空が嫌いではなかった。勿論好きというわけではない。ただ青空を侵す真新しいビルは、ガラスケースの向こうの手の届かない玩具のような質感を持っていて、それが懐かしい潮風の匂いを吹かせる日を想うと、彼はこの街の風景を気持ち悪いと切り捨てられないのであった。
 しかしこんな環境下では彼の爽やかだった気分も、簡単に梅雨の雲のように重く垂れこんで、吸って吐きだすそれだけの動作に身体のエネルギーをやけに消費しているような気がした。そうなると彼女は益々元気になって、自分を満たしたはずの先刻の出来事も彼女の声で塗りつぶされていった。
 二次元の画面に逃げ込もうとしても、くだらない情報も深刻なニュースも彼の目を滑る。おしなべて無価値なもの。
 あら、見覚えのある人なんじゃないかしら。
彼女は愉しそうに笑った。
 あぁ。見覚えのある人だ。
 彼が過去に籍を置いていた軽音楽のサークル。彼にはただ漠然とした憧れがあり、自分も舞台の上で眩いライトの当たる人間になれると疑わなかった。鋭く研がれた爪のような音色のテレキャスターを肩に掛けて、マイクロフォンのハウリングに動じることなく、舞台上で少女の歌を怒鳴るように歌う。そんなささやかな夢があった。しかし一方で彼にとって演奏とはそれだけのもので、絶望も切望も、充足も欠乏も彼には欠けていた。やがて彼は軽音楽のサークルから逃げ出した。
 彼は他人が苦手であって、集団も苦手であって、責任や期待というものを受け入れられる人間ではなかった。ましてや他者からの評価が伝わってくるその感覚に耐えられるはずもなかった。正確にいうのならば他者から芳しくない評価が伝わってくるのが耐えられなかった。
 彼は努力をせずに高く評価をされたかった。彼は何もせずに画面の奥の、イヤホンの奥のヒーローになりたかった。
 ただ単に他者から認められたかっただけであり、それ以上の何かを彼は音楽に捧げられなかったのだ。
 そしてそれこそが純粋に音楽を愛し、表現を愛するように見えた彼らへの憎しみに近い劣等感の源泉であった。
 話しかけないのかしら?
 馬鹿言わないでくれ。認識だってされたくないのに。
 えぇ。だけれども話しかけるべきだと私は思うわ。たいしたことない、図体すら大きくないアイツが珍しく群れることなく一人でいるのよ?
 だけど僕は彼を恨んでいない。
 顔も合わせられないほどの劣等感に苛まれているのに恨むことすらできないんじゃあ、終りね。
 そんなこと言われても、僕は誰とだって顔を合わせることは出来ないよ。
 だからみんな死ねなんて簡単に思うんでしょう。
 彼はため息ひとつついて、目の前の男の顔もまた不自然なほどに大きいことに、その髭面が汚らしいことに気が付いた。タバコの煙は重い。彼が好むホープもウィンストンも、そこに大きな違いは無いのだ。
 投げ捨てた吸い殻が灰皿から零れたから、足で揉み消した。人の波を縫って先へ進まんすると、例の軽音楽サークルの男が自分に向かって片手を軽く挙げて。彼は返せないままで。彼は死にたいほど惨めな気分になった。
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