第1話

文字数 4,591文字

 プロローグ

 彼は早朝の上野駅で思い出した。昔、友人がこの風景に目を輝かせていた事を。
 喫煙所からは大きな道路が見える。まだ色濃く黒の残る空気を、暖色のヘッドライトの群れが切り裂いていく。あの時と変わらずに人も物も休むことなく動き続けていて、友人が感動した時間がそのまま再生されているようにも思えた。けれどここで生まれ育った彼にはその感動は理解できない。
 キラキラ光る車道の奥、駅の入り口に面した歩道にはワンカップの空き瓶がいくつも転がっていて、段ボールの敷布団とくすみきったジャンパーが重なる様はゴミの集積場の様で、統一性のない色の布にくるまった老人は性別が分からない。
 彼はひとつ息を吐き出した。身に纏わりつく冷たい空気に思わず指先を震わすが、手袋はジャンパーのポケットに突っ込んだまま。彼の右手ではウィンストンの十二ミリがゆっくりと燃えていた。
 タバコの匂いが苦手だった。のどに引っ掛かる感触の煙も、頭が膨らんで揺れるような感覚も苦手だった。不快感を搔き消すように頭を振って、気を紛らわせようと見上げた駅舎を飾る「上野駅」の大きな文字は、強い光に照らされて、寂しさとは無縁の顔をしていた。
 成人式の同窓会から逃げ出したあの日だって、始発前に友人と眠気をかみ殺して明日を見ない振りしたあの日だって彼は同じ景色を見ていて、「変わらない」なんて適当なことをいうこともできたけれど、変化に気が付けないほどに色々なものに置いていかれているだけだと、彼だって知っていた。
 そうなると過去だって自分に牙をむいているみたいだから、やってられないとそう思うのだ。
 言うまでもなく未来だってずっと彼の敵だ。そう思えない日があってもそう思う日のほうがきっと冷静なのだ。物語が好きだった。嘘が好きだった。人から嫌われるのが嫌いだった。自分の思い通りに物事が進まないことを、諦めきれない。
 月がオレンジ色をしていた。可愛らしいパフェの装飾に似合うようなその形は綺麗だった。
 就職活動から逃げ出して努力もしない彼のお決まりの言い訳は、レールから外れないと百五十点の人生には届かないなんて薄っぺらな光。それに比べたらこの月はなんと暖かく、何と現実的で夢想的だろうか。
 美しいのに現実的だなんて馬鹿げているけれど、それが可能ならば実践するべきだ。
 彼の性分は不思議な帰結を生み出して、酒が回った彼の脳みそはそれを良しとした。
 月から飛来した美しい少女を心に住まわせよう。
 彼はそれだけを決めて、それだけを決めてしまえば彼の心は嘘みたいに軽くなった。
 彼はタバコの火をもみ消した。肺が重いのもぼんやりとした頭痛も全部コイツが悪いのだ。緩やかな自殺という言葉の響きが彼の心をとらえて離さないのだけれど、彼はいつもの調子で歩き出して、されどいつもの調子でタバコは咥えずに曇り空を眺めた。高すぎない建造物は薄汚れていて、愛おしい。
 彼の家まではおよそ十五分。地下鉄の駅を一つ越えた先。今日は信号機と目を合わせて、止まってしまっている時計を見て、誰が利用するのか見当もつかない個人経営の電気屋さんを超えて、そうやって布団に入った。

第一話

 今日もなんだか不機嫌そうね
 朝がどうしても嫌いでさ。
 そんな人間居たのね。私は朝が好きよ。
 いやさ、僕は朝そのものは好きなんだ。特に朝の空気とか、まばゆい光が空の憂鬱を消し飛ばす感じとか。
 それなのに嫌い?
 正確に言うと朝そのものじゃなくて寝起きに見る朝日がうざったいんだ。
 くだらないしつまらないわ。
 ごめんよ。
 彼と少女の会話はそれで終わった。布団からどうにかこうにか這い出してタバコに火をつけた。目を刺すような光が向かいのガラス窓を焼いて、ついでのように彼の意識にかかった深い霧まで。
 あくびを一つ。青空の下。
 そういえばはじめましての会話だったわね。
 あぁ、どうも。初めまして。
 えぇ。これからもよろしく。
 彼女は笑ったようで。
 今日は大学に行くの?
 そうだね。少し遅れるだろうけれど。
 遅れない事だって、貴方にはできるだろうに。
 嫌なこと言うね。
 バイトには一度として遅れたことないじゃない。それ怠惰っていうのよ。私は知ってるわ。
 そんなこと俺だってさ。
 彼は当然のように開講には間に合わない時間に家を出て、昨日歩いた道を逆再生みたいに歩んだ。
 急ぐ気はないのね。
 別に遅れていったところで何の問題も無いんだよ。
 嘘。だってあなた遅れたら他人の目が気になって教室に入れないじゃない。
 時々ね。
 最寄りの地下鉄の駅の入り口は小さくて、階段は急で外壁が無骨だ。日の光が欲しい。不自然に白い蛍光光のおかげで暗くはないのだけれど。
 気が滅入るよ。
 あら汗かいてるじゃない。みんなあなたを見るわよ。汚いやつが入ってきたって。
 そうなのかな。
 そうよ。こんな季節にそんな、もこもこのハンカチ使ってる人間そういないわ。
 もこもこのハンカチって、可愛い言い回しだ。
 貴方が言うと可愛くないわ。
 残念。
 彼はシャツの中まで丹念に汗を拭いて、乗り換えるのは銀座線。浅草からガタガタとやってくるそれはまだ空いているから、一番前の車両に座った。行先表示板の上野、それから渋谷の文字。残りはおよそ三十分らしい。
 人が少なくて良かったよ。
 気にしすぎじゃないの?
 君も言ったじゃないか。僕が汗っかきだって。
 でも周りの誰も気にしないわよ。きっとね。
 天邪鬼だなぁ君は。
 そんなことないわ。面白いコトは好きよ。貴方がさっきハンカチで身体拭いてたのも、なんだか滑稽で素敵だったわ。
 誰も見てないよ。きっと。
 それはもったいないわ。
 そうかな。
 そうよ。
 流れる音声に時々彼の知らない言語が混じっていた。
 カッコつけに持ってきた三島由紀夫は開かないのね。
 読んでるとしんどくなってきてさ。太宰の方が可愛らしいし好きなんだ。僕は。
 わかったような口きいちゃって。貴方は太宰にはなれないわよ。顔も悪い。
 そうだよね。だから余計にしんどいんだ。
 止まって、動いて、閉じては、開いて。降りて、乗って。吐き出しては、飲み込んで。彼はその決まりきった周期の中目を閉じた。
 渋谷駅は銀座線の終点で、うかうかしているとすぐに折り返してすぐに浅草へと逆戻りしてしまうからなのか、ドアが開くと人々は凄い速度でホームへと押し流されていく。
 まだ出ないの?
 人がいっぱいいるのは苦手なんだ。
 それにしても若い人が多いね。もしかしたら同じ大学の人間もいるかも?
 やめてよ。
 あの細身の金髪は、ピアスも似合っているわね。あっちの茶髪は足が短いし、髪色だけ明るくしましたって感じがアンバランス。あの女を連れているのは悪くないわ。
 そっちの黒髪はどうだい。
 いかにもって感じの酷い見た目。きっと家から出るのは一か月ぶりよ。
 そうかい。
 ちなみに貴方は言わずもがな採点の土俵にも上がれてないわよ。
 解ってるよ。そんなこと。
 あら、解っているのに他人を採点して。惨めになるだけじゃないの。
 僕よりひどい人間を見つけて安心したい。
 わぁ。自傷行為そのものじゃない。
 止めてくれるの?
 私が止めても無駄でしょう? それに惨めな貴方は見ていて楽しいわ。
 それは嬉しいね。どうしても一人だとただ気が重くなる一方だからさ。
 気持ちが悪い人。
 炎天下とも言えない空気の中で彼は歩く。その眼は鋭くされど草食動物のように神経質に、行き交う人々の顔を盗み見ては、また地面へ。誰かが自分と目が合うその前に。自分が他人から認識されないうちに。
 あら、すれ違う学生たちはみんな集団で移動するのね。
 僕には君がいるよ。
 そうね。でも実際私が貴方の隣で歩いたら、貴方は喜ぶ前に重圧で押しつぶされてしまうわ。貴方に綺麗なものは似合わないから。
 解ってる。
 ほら、今向かい側から涼しげなシースルーのトップスの女の人。彼女は貴方には目もくれないのに、貴方は盗み見るように顔と胸、それから足まで。気持ち悪いわ。そんなものよりまず貴方は自分の姿を見るべきよ。
 渋谷の小さな通りには大きなガラス窓が並んでいる。そこに彼はいつもと変わらないままの彼を見た。
 可笑しな体の形! 頭が大きいわ。姿勢も悪い。腰を曲げて、視線は下がっていて、着ぐるみかなにかみたい。
 彼の足取りは重い。帰路に就く学生たちは喧しい。けれども今気になるのは不思議と燦燦と自分を照らす太陽の方で。自分が汗ばむのを感じる。背中が湿ってきている気がして、頭がぼんやりとする。
 あ、でも今目の前にいる女は不細工だわ。猿みたいな顔。隣にいる女はまぁまぁだけれど、顎のラインが汚いし化粧も下手ね。でもあの男二人の間を歩く女は背も高いしスタイルもいいわね。黒髪のポニーテールも似合っているわ。
 彼らの会話聞いたでしょ貴方も。貴方と同じ授業を取っているみたいよ。これから居酒屋にでも行くみたい。あらあら笑顔も素敵。男二人は釣り合っていないように見えるけれど、ずんぐりむっくりって音を立てながら歩くあなたの何億倍もマシね。
 足が止まった。ガラス窓で自分の姿を五回ほど確認したその後だった。ただ空を仰ぐ。嫌に青い。嫌になるほど青い。天気が良いという事実がなぜか彼の身体の中を蝕んでいて、きっと太陽の眩しさが彼の活力を蒸発させてしまって、彼の足が止まった。
 叫びだしたい気分なのね。それは己の醜さからの逃避? うまく生きていける周りへの羨望? 結局どっちも貴方が貴方だからなのでしょうけれどね。
 あぁ。全く持ってその通りだよ。君は正しい。ずっと、ずっとさ。
 いいじゃない。叫んでみれば。
 視界が歪む。夏というわけでも、猛暑日というわけでもないのに頭の中で血液が重い音を立てながら蠢いていくような感触があった。横切っていく学生達の笑い声は嘲笑のよう。呼吸をゆっくりゆっくりと。ただそれだけをした。
 いったい叫んだとして何が変わるっていうんだい? 僕は僕のままで何も変わりやしないよ。いっそ狂人になってしまえばすべてから解放されるなんて君は言うのかい?
 そうじゃないわ。こんな場所で叫ぶ貴方を見てみたいだけよ。でも貴方にはきっとそんな勇気さえないから、後押ししてあげようってことよ。
 後押しって。
 大丈夫よ。私は見ているから。
 見ているって、みんなが見るよ。僕が叫んだら。
 そうね。でも私は貴方のそのどうしようもなく汚い心のうちまで解っている。その上で見ていてあげるの。貴方のことを。
 そうだったね。
 そうよ。
 彼は頭の中で言葉を探す。吐き出すべき感情の名前を探す。けれど彼女はそんな様子を見て、それから目を細めて。
 そんなものいらないでしょうに。
 そうだね。そうだった。
 雨が降ったのは三日ほど前。もうアスファルトは過去を忘れて、それはこの街全てに言えることだった。キラキラと光る太陽は過去を消し去って、ただ今を、今ここで自分でしかない自分が生きているという目を逸らしたくなる凄惨な現実を否応がなく感じさせて。そんなものに照らされている空を仰いでも視界に付きまとう高いビルと、そんな中でも木々が揺れる音、自動車が加速する。信号は赤色なのだろう。強い光の中でわずかに虹彩が得た刺激。彼は静かに深く息を吸った。
「       」
 彼は。
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