三十八~四十七

文字数 31,313文字

三十八
「外から見るよりずいぶん深いんですね」
 木曜の午後一時、青嶺学園の敷地内をスラックスにも合う地味なスニーカーで歩き回りながら、輪島がぼそりと口にする。生徒たちの姿は消えている。恐ろしい事件が相次いでいるからというわけではない。きょうから夏休みに入ったのだ。
「昔は本当に森だったみたいですよ」吹石猛は、半グレ集団のボスと自分がいっしょに並んで歩いていることに気色の悪さを覚えていた。だが政治の道は蛇の道だ。べつに自分が悪に手を染めているわけでないから、へんに気にすることもない。言い聞かせながら平静を装う。「江戸の外れですからね」
「下屋敷というのは別荘なんでしょうけど、それにしたって広すぎやしませんかね。まったくもって、お大名というのはすごいものですね。やっぱり農民から搾り取ったのかな。労せずして稼げるなんて夢ですね」危ない橋をいくつも渡ってここまで登りつめて来た身としては、たしかに往時の権力者のありようが感慨深いのだろう。
「だけど幕府には頭があがらなかったのではないですかね」
「たしかに。幕府には、いまの官邸なんかよりずっと強大な権力があったのでしょう」
「いまの政治家はたいへんですよ。頭の痛い話ばかりです」
 小高い丘に差しかかる小径は頭上を覆う緑で薄暗いほどだった。その木々の合間に輪島は何度も目を凝らす。「でもその頭をうまく使えば、いまだって意外とスムーズに必要なものを集めることができる。おとうさまはそういうのがお得意な感じがしますけどね」輪島は、与党幹事長だった猛の父親の錬金術に興味があるようだった。
「アイデアマンではありますね」それは事実だった。猛は常々、父親の手腕には敬服している。
 この日の視察も吹石勝の計略があってこそ認められたものだった。
 学園は、5Gの通信環境を実現するために学園内に中継設備を整備するとの名目で文科省の私学通信設備補助事業に申しこんでいた。もちろん学園理事でもある勝の発案だが、輪島はそこにつけこんだ。「学校教育コンサルタント ネクスト・ブレイン代表」という出来たての名刺を持参して、代議士秘書の猛とともに理事長の森野静子と面会し、補助金の審査を行う諮問委員会から事前調査の委託を受けているといって信じこませたのだ。
 輪島は古地図を肩からさげたリュックから取りだし、方角を何度もたしかめる。猛はそれをわきからのぞきこむ。「地中に埋まっているとしたら、掘りだすのはひと苦労ですね」
「でも夢があると思いませんか。『黄金のマリア』ですよ。わたしはときどき、自分のしていることがとってもイヤになるんです。そんなときは、なにか、こうとてつもなくピュアなことをしたくなる。そういう衝動ってありませんか、吹石さん。宝探しはぼくにとってのそれなんですよ。子どもじみてると思われたなら、どうかお許しください。目星がついたなら、なんらかの理由をつけて、理事長を説得してみせます。その後はわれわれがやりますから。ご迷惑はおかけいたしません」
 われわれ――。
 この男が連れて来るのはどんな輩だろう。考えるだけでぞっとする。
 輪島は地図に見入る。「いまいるあたりが屋敷の母屋ですね。その裏手に松林が広がっているようですが、たぶん――」スニーカーが汚れるのも気にせずに輪島は小径を外れ、ひざ丈までの草むらに踏み入っていく。「ここですかね」十メートルほど進んだ先の林には、たしかに松の木が何本も生えている。「この松林のなかに石畳があるはずです」
 猛も地図に見入る。松林と記された斜線部分に点線が描かれ、そこに「石畳」と記してある。それをたどっていった先に井戸らしき絵が描かれ、そのさらに奥に十字架のようなものが記してある。「この十字架のところですかね。礼拝堂かなにかがあったのかな」
「マリア像と無関係とはいえないでしょう」
 だが下草が密生し、石畳があるかどうか判然としない。しかも学園が建設されたとき、大がかりな造成が行われている。そのさいに石畳も井戸も、それに礼拝堂も撤去または破壊された可能性は大きい。それでも輪島は腰をかがめ、地図に点々と描かれた石畳の捜索を開始した。
 猛も付き合わないわけにいかなかった。だけど親友二人の死をきのう知らされて以来、猛は悲しみを通り越して混乱の真っただ中に放りこまれていた。そもそもは西本佳奈の件があり、それが七夕の宵のマナーハウスでのパーティーとつながっているのはあきらかだった。そのパーティーは志田が主催し、街野ばかりか猛も参加している。二人を殺害したのは十中八九、同一犯だろう。だとすれば、猛がつぎの標的になっていると考えるのはごく自然だったし、だからこそ、いまは輪島なんかに付き合っている場合でなかった。さっきから誰かに尾けられているような気色の悪さも感じる。真っ昼間だが、人気はない。“御池のジェイソン”にはうってつけだ。
 輪島だって新たなビジネスパートナーになるはずだった街野が殺されたことで、御池からいったんは離れていたほうが得策かとも思えた。ところが半グレのボスは、そんなことではまったく動じない。スーツのズボンがたちまち汚れ、蚊に刺されまくるのもかまわず、まるで少年のように草むらをかき分け、ついに学園の西はずれにあるガラス張りの熱帯植物園にまでやって来てしまった。植物園の裏手は土が剝きだした切り立った崖で、七、八メートルよじ登ったところに広がるコンクリート塀の向こうがマナーハウスだった。
 しんと静まり返り、まるで墓地のような場所だった。
「造成工事のときに撤去されてしまったのかもしれないですね」猛は石畳のことをいいながら、そっと背後に目をやる。やはり妙な視線のようなものを感じるのだ。
「かもしれないですね。でもそれならなんらかの資料が保存されているはずだ」植物園のわきで息を整えながら輪島は暗に要望してきた。「学園史のようなものがあるといいのですが」
「理事長しだいだと思いますけど」猛はなんとかはぐらかそうと言葉を探した。こんな場所、早く退散するにかぎる。
「いや、しかし……待てよ」どういうわけか、輪島はふいに植物園の裏手に回りこむ。
 猛も気になってそちらに向かおうとしたとき、けたたましい呼び出し音でスマホが鳴りだした。いらいらと猛はズボンの尻ポケットに手を突っこむ。
 姉からだった。
「もしもし」植物園から離れたところで電話に出る。「なんだよ、いま、仕事中なんだよ」
「ごめんなさいね。けど、今夜またミリーを預かってくれるかしら。急な出張が入っちゃって。あしたの午後には迎えにいけるから。あの子、あんたに一番なついているのよ」

三十九
 女子高生をふくむ三人が殺害され、杳子の予想を大きく上回って御池の名は一気にトレンドワード入りした。街野豊の存在はそれほどに大きかった。そしてその死が期せずして三つの事件をつなげた。
 スマホだ。
 最初に襲われたとき、街野は寝室にいた。血中アルコール濃度などから前夜の酒がまだかなり体内に残っている状態で、明るくなってからも爆睡していたと思われた。おそらくそこでスタンガンで襲われ、わけもわからぬうちに体の自由を奪われ、もうろうとした意識のなか、スタジオまで引きずられたのだろう。寝室や階段周辺の乱れ方がそれを物語っていた。そのときのどさくさでベッドの下に潜りこんでしまったらしい。新品のスマホには、電話やLINEが十数件着信し、留守電は四件が吹きこまれていた。
 杳子たち捜査本部が注目したのは、一枚の画像だった。
 撮影されたのは七月八日深夜零時四十四分。西本佳奈が失踪した日の夜だ。撮影場所はひと目見て志田守のマナーハウスの広すぎるリビングだとわかった。薄暗い怪しげな照明のなか、何人かの人影が確認された。もちろん志田、そして吹石猛、ほかに六人の男女。画像の明るさを調整したところ、四人の姿がさらにはっきりと浮かびあがった。
 捜査員たちは息をのんだ。
 女性とおぼしき三人のうち、二人はこちらに背を向けている。大きなソファの真ん中に腰かけ、中年男に華奢な肩を抱かれているブルーのタンクトップ姿の一人は完全に顔が映っている。陶然とした目つきで小首をかしげているが、頬にはわずかに緊張が残っているのが見てとれる。化粧はほとんどしていない。すっぴんに近い感じがする。この手のパーティーに出ろといわれたら、杳子なら中途半端なことはしない。完璧なメイクを施すか、行かないかのどちらかだ。でもこの子はちがう。素顔に自信があったのだろう。自分にできないことはない。だって十代、それも高校二年生。人生で一番はじけている時期だ。だがそれは過信だった。
 西本佳奈にとって。
 撮影したのは街野だろう。七夕の朝『すこし遅くなるかもしれない』と母親に話したのは、おそらくここに立ち寄ることになっていたからだ。それについて話を聞けるのは、いまや一人しかいなかった。杳子は古磯とともに吹石猛の家に急行した。事件解決の糸口がようやく見つかりそうだった。杳子は人知れぬ興奮に震えていた。
 午後三時過ぎ、吹石親子の大邸宅のインターホンを押そうとしたとき、杳子は予期せぬ人物と再会した。幻滅と悦びがないまぜとなった不可思議な感触が胸の奥にふわりと浮かび、思わず杳子は頬を赤らめた。
「申しわけない、滝本さん」ベージュのチノパンにこざっぱりとした白シャツ姿のハルさんは、もうそれまでの超然とした態度でなく、真剣な顔つきで告げてくる。「だけどぼくは……目の前で起きている事件、それにこれから起きそうな事件を無視できないんだ。それで病院の看護師の方が付き添ってくれることになった。ぼくが一番信頼している人、ロクさんだ」
「それほどでもないんですが……」ハルさんのうしろに立っていた体の大きな男が照れながら口にする。こないだ御池病院で窃盗事件があったとき、応対してくれた看護師だった。きょうは白衣でない。派手な花柄をプリントしたビッグサイズの開襟シャツは汗まみれだった。「ごぞんじかもしれませんけど、この先、白金高輪駅の裏手にバスクチーズケーキの新しい店ができましてね。そこに買いだしに行ってきたところなんです。一人じゃ持ちきれないから、ハルさんに付き合ってもらって……職員がいっしょなら、とくに問題ないですから。そのへんはね、うちはわりと自由なんです」懸命に言い訳をする。もうそれだけで杳子は、ハルさんがあの病院でどう思われているか見てとることができた。
「捜査のじゃまをするつもりはないんだ。ただ、協力できることがあるなら、そうすべきだと思って」ハルさんは尻ポケットからハンカチを取りだし、それで包むようにして財布から一本のカギをつまみあげた。「さっき、これが財布に入っているのに気が付いたんだ。車のキーじゃないかな」
 門の前に古磯を待たせたまま、杳子は二人を通りの反対側に連れて行った。
「ハルさん、運転なんかしないでしょ」
「入院してからは乗れる状況じゃないね。それに以前から私有車は持っていなかった。捜査車両のキーは返さないわけにいかないし」
「どうしたんですか、このキー」
「すくなくとも身柄拘束される前の晩、つまりぼくがアラタさんと張りこんでいたときには入っていなかったと思う。だって三田村真司のアパートで張っているとき、途中で何度かコンビニに寄ったから。入っていたら気付いているよ」
「どういうこと?」
「事情聴取でも説明したけど、ぼくはいまもある症状に悩まされている」
「飛んじゃうんだよね、アタマのなかが」ロクさんがさらりと説明する。
「聞いたわ。あの晩もそうだったって話していたけど、まさかその間に?」
「それしか考えられないんだ。症状が起きているとき、ぼくは一種の夢遊病状態となるようだ。意識を持たぬまま行動しているんだ」
「ほんとおもしろい――」そこまでいってロクさんは言葉を変えた。「興味深い動作です。撮影記録も残っていますが、まっすぐ歩けるし、壁や柱もちゃんとよけている。だから途中まで意識がありながら、正気にもどる瞬間にそれまでの何分か、何時間かをぱっと忘れてしまう。まるで夢を覚えていないかのように。そんな感じですかね」
「そうなんだ。だからこのキーも誰かに財布に入れられたというより、ぼく自身で入れたんじゃないかな」
「ハルさんの身柄を拘束したとき、所持品検査はちゃんとすませたつもりだったのに」杳子は唇をかんだ。
「財布の小銭入れまでは見なかったんだろう。べつに取り調べに問題があったわけじゃない。それより急いで調べたほうがいいんじゃないかと思ってね。車なら持ち主までわかるはずだ。ただ、志田守のフェラーリのキーだったら、なんの役にも立たないけれど」
 そのとき邸宅の前に真っ赤なポルシェ・カイエンがとまった。杳子と同い年ぐらいの女性が運転席から降りてくる。レディ・ガガのTシャツにやたらと短いスカートをはき、その下は生足にサンダル履きだった。
 子犬を抱きかかえていた。
 トイプードルだ。
 玄関にいた古磯が一歩下がると、女性はわずかに会釈してからインターホンを押した。
「あら、みなさんは吹石にご用なのかしら。新聞社の方……じゃないわよね」
「いえ、そうではなく」古磯が身分証を見せる。
 それだけで女性は察したようだ。「もしかして豊くんの件かしら。わたしは猛の姉です。もう嫁いじゃってここには住んでいないけど、前はよくあの子たちといっしょに遊び歩いたものよ。もうショックでならないわ」
 杳子が近づき、説明する。「猛さんからお話をうかがおうと思いまして」
「あら、そう。じゃあ、いま呼びますからね。ミリーちゃんを預けようと思っていたの」もう一度、インターホンを押したのち、自ら門を開け、玄関ドアをノックする。そのすきにプードルが腕のなかから飛びだし、元気いっぱいにハルさんの足下に駆け寄る。どうしたらいいかわからないらしく、ハルさんは顔をこわばらせて立ちつくす。そのわきでロクさんがくすくすと笑いだし、しゃがみこんで姉の愛犬を抱きあげようとする。
「こら、ダメよぉ、ミリーちゃん」姉はドアとこちらを交互に見やりながら、おざなりに声をあげる。
 ミリーはロクさんに興味をしめさず、ずっとハルさんの足下にしがみついたままだった。それだけじゃない。
 腰を振りつづけていた。
 杳子は目が覚めたようだった。思わず姉に訊ねていた。
「七夕の晩も預けられましたか」
 姉は驚いたように答える。「あら、よくごぞんじね。預けたわよ」
 杳子は姉の隣に立ち、いっしょになってドアをノックしはじめる。
 いつまで待っても応答はない。姉が携帯に電話をかけても出なかった。母親も吹石勝も息子がどこに行ったか把握していなかった。
 深夜零時を回っても長男は家に帰らなかった。御池の丘は四人目をもとめているのか。杳子の決断は早かった。三十歳のふつうの男なら二、三日どこかに消えたところで誰も心配はすまい。だがいまはふつうじゃない。女刑事にうながされ、家族は捜索願を出した。

四十
 吹石猛が行方不明となった。
 翌金曜の午前十時、森野静子は愛人でもある父親から電話を受けた。ナミと猛がいい関係であることは、吹石勝は知らないかもしれないが、静子はとっくの昔に気付いていた。だから即座にナミに電話を入れたが、留守電に切り替わった。そこでLINEを入れ、なにか知らないか訊ねたが、内心では娘の安否のほうが心配だった。きのうから夏休みに入り、ナミは昨晩からファッション誌の仕事で伊豆に行っている。
 いらいらと三十分が過ぎたとき、ようやくナミからLINEが入った。
 写真だった。
 タワーマンションのリビングで静子は凍りつく。
 ろうそくの灯る薄暗い窪みだった。そこにエジプトのミイラのような茶色っぽいものが横たわっている。頭部、肩、胴、そして尻から脚。それはたしかに人間の形をしていた。画像を拡大し、静子の喉に苦いものがこみあげてくる。
 死を迎えた国王の再生を祈るべく、その亡骸を丁寧にくるむリネンは時をへて黄ばみ、茶色みを帯びてくる。だがそこに写っていたのはリネンではなかった。わかるわよね。遠い記憶が耳元にささやきかけてくる。
 梱包に使う布テープだ。
 それが人間の全身を覆っているのだ。窪みは岩をうがった横穴のような場所だった。つづいて悪夢のようなテキストが送られてくる。
 娘の命が惜しければ、娘による西本佳奈へのいじめの事実を記者会見で公表しろ。佳奈の死に森野ナミがかかわっていることを認めろ。警察への通報は禁止だ。
 悪い冗談であってほしかったが、LINEが娘のスマホから送られているのは動かしがたい事実だ。何者かがそれを使って送信してきているのだが、相手の見当もつかないし、撮影場所にも心あたりはない。気がかりなのは、送信者の指摘する「事実」に静子自身、完全否定できずにいることだった。
 即座に静子は返信した。
 ナミちゃんなの? 悪いいたずらはよして。あなたは誰? やめて、そういうことは。娘がいっしょならすぐに帰して。
 いくら待っても反応がない。左胸がずきずきと痛みだす。じっとしているわけにいかない。あの状態では呼吸もままならないだろうし、犯人はなにをしでかすか知れたものじゃない。かといってどうしたらいい。やはり警察に通報すべきだろうか。静子はその場にしゃがみこみ、頭を抱えた。電話が鳴った。どうしてこんなときに。
 美琴江雪だった。
「理事長、さっき家に妙な電話がかかってきたのだけれど。西本佳奈さんは、森野ナミによるいじめが原因で亡くなったって――」
 声の主はボイスチェンジャーを使っているようだったというが、美琴の関心はそんなことより、告発内容そのものにあった。「どういうことなのかしら」
 その後、複数の理事からおなじ問い合わせがあった。もちろん吹石勝からも。そして事務長から連絡が入るなり、静子は過呼吸に陥った。何人かの生徒のスマホに同内容のショートメッセージが入ったのだ。ナミ本人の番号から。
 急いで出勤し、理事長室に入ったとき、すでに美琴と吹石、それに作務衣姿の門間が待っていた。娘が誘拐されたことを伝えるLINEについて、彼らに明かさないわけにいかなかった。恐ろしい写真のことも。
「すぐに警察に連絡すべきだ」檻の熊のように机のまわりを行き来しながら門間が意見する。「LINEの発信源を調べれば一発だろう」それに反対する者はいなかった。
 西本佳奈殺害事件を担当する滝本刑事の到着を待つ間、美琴はソファに優雅に腰かけながらナミのことを心配してきた。だがここぞとばかりの攻撃も忘れてはいない。「佳奈さんの担任から個人的にうかがった話ですが、下駄箱に入れた佳奈さんの靴がひどく汚されていたことがあったそうですね。ゴールデンウィーク明けのことです。それについて担任は校長に報告したと話していましたけど、理事長はごぞんじなかったのですか」
「佳奈さんの一件を受けて校内で実施した聴き取り調査のなかで報告されています」
「こないだの理事会では、そんな話はありませんでしたよね」
「あのあと行った調査ですから。つぎの理事会でお伝えするつもりでした」
「なるほど。それではいま、教えていただけますか、その調査の結果について。佳奈さんの靴が汚された日、それが見つかる直前の防犯カメラの映像は確認されましたか」
「はい、もちろん確認しています」
「理事長もご覧になりましたか」
「はい」
「佳奈さんの下駄箱の前に集まっている生徒が何人かいませんでしたか」
「彼女の靴のそばかどうかわかりませんが、何人かの姿が確認されました」
「いや、彼女の場所でしょう。はっきり映っていたんじゃないですか」
 美琴の前に立ちつくし、静子は肩を震わせた。「そこが佳奈さんの下駄箱かどうかはわかりませんでした」
「それはおかしいですよ。おなじものをわたしも見たんですから。個人的にね。彼女の下駄箱でしたよ。そのときからこの一件には、生徒が絡んでいるんじゃないかと思っていたんです。ところで理事長、そこで確認された生徒のなかに森野ナミさんはいたのですか」
 答えないわけにいかなかった。「おりました。しかしいまも申しましたとおり、佳奈さんの靴になにかしたのかどうかはっきりしないものでして」
「森野ナミさんが、佳奈さんの悪口をいっていた。そんな回答も寄せられていたのでは? いろいろ入ってきていますよ」
「いろいろな証言がありますが、どれも精査する必要があると考えています。伝聞や憶測が一人歩きしていることもありますから」
「たしかにそうね。けど、はっきりした証拠があるものもあるのでは? 街野豊さんのファンサイトの投稿はどうですか。たしか五月だったと思いますが、街野宅への住居侵入を告発する内容のものがあったそうですね。佳奈さんが犯人としてほのめかされている。真相はわかりませんが、この後、佳奈さんはかなりの攻撃を受けたそうです。クラスメートから直接聞きました。だからわたくし、とても気になりましてね。そのサイトの開設者と連絡を取ったんです。個人的にね。それで投稿者のアカウントがわかったのです。いまここに警察の方が来られるのなら、いっしょに調べてもらうというのはどうでしょうね」
 まさにそのとき滝本刑事が同僚とともに理事長室に入って来た。美琴の眉が悦びで釣りあがったが、滝本はまずは誘拐犯がどこからLINEを発信してきたか告げた。
「御池二丁目の路上からでした。その後は電波が切られています」
 それからは別室で静子は一人で事情を聴かれることになった。美琴から離れられて、とりあえずはほっとする。だが警察にはできるかぎりの情報を提供するしかない。まずは誘拐された自分の娘が吹石猛と交際していることを告げ、やや頼りなげな女性刑事に静子はすがりついた。一秒でも早く娘を見つけないと手遅れになる――。しかし滝本ももっともひりつく部分を突いてくる。その意味では、美琴の追及は真っ当だったのだ。「近所の洋菓子店で聞いた話なのですが、かつては佳奈さんはナミさんたちといっしょに来店していたそうなのですが、ここ何か月かは一人で来ていたそうです。ファンサイトへの投稿の件はアカウントを調べてみればすぐにわかります。もしそれがナミさんによるものなら、やはり佳奈さんとの間で微妙な関係になっていたと考えることもできるのではないでしょうか」
「だけど……これは母親としての考えなんですけど」静子は居住まいをただして告げる。「その件についてはまだナミに訊ねていないのです。それからでないとなんとも……。ちょっと距離が離れたからって、すぐにいじめに結びつけるのはどうかと思うんです」
「たしかにそうですね。ただ、誘拐犯はいじめの隠ぺいに固執しているのはまちがいなさそうです。その意味でどなたか心あたりのある人物はおりませんでしょうか。もしくはあなたに敵がい心を持っているような方でも結構です」
 静子は大きくため息をつく。「学校教育の仕事をしていると、保護者をはじめさまざまな方から恨まれたり、非難されたりします。大きな声ではいえませんが、理事のなかにも厳しい方がいらっしゃいます」
「それはなんとなくわかります」
「でも娘を誘拐するような恐ろしい人なんて見当もつきません」
 そのときドアが開き、滝本の相方が顔をのぞかせる。「お話し中すみません。西本佳奈さんのご両親がみえています」
 佳奈の件でもっとも怒りと悲しみに震えているのは、まちがいなく両親だ。死の真相にすこしでも近づきたいと心の底からねがっているはずだ。そしてわずかの端緒でも見いだしたなら、その穴に指を突っこんでまさに命がけで押し広げるだろう。そこに真実を隠そうとする学園理事長がいたなら、どんな手を使ってでも糾弾してくるし、怨念を晴らしたいはずだ。娘の誘拐だって辞さないだろう。
 その二人がいま理事長室に来ていた。
 父親はグレーのスーツ、母親のほうも保護者の来校時に着用をおねがいしている紺色のジャケットに身を包んでいる。
「森野さん」ドアを背に二人して立ち、母親のほうが声をかけてきた。理事長でなく、森野さんと。人として対峙しているのだ。静子はそちらにゆっくりと顔をあげる。血液がゆるやかに逆流しはじめる。「ナミさんのことで妙なうわさを聞いたのですが――」
 西本亮子はそのままつかつかと静子に近づき、ためらうことなく平手打ちを食らわせた。あまりのことに静子は後ろによろけ、頑丈なデスクの角にしたたか腰を打ちつける。頬も腰も痛みをまったく感じなかった。
 恐怖だけだった。
「恥知らずの人殺し!」
 唾を吐き散らせながら亮子はつかみかかってきた。それを滝本が引き離す。
「落ち着きましょう、西本さん」滝本はつとめて冷静に話しかける。「お気持ちはわかりますが、佳奈さんとナミさんの間でなにがあったのか、まだつかめていませんし、ナミさんから事情が聴ける状況ではないんです」滝本はナミが誘拐された恐れがあることを亮子に告げる。
 妻の肩を抱きながら夫が反応する。「だったらいまはナミさんを救いだすことが先決だ。そのためにも記者会見を開くのが一番じゃないかな」やはり声には怒りがこもっている。
「所轄に捜査本部ができました。あくまでこれまでの事件とはべつにです。本庁の応援も入ります。まずは犯人への連絡を繰り返し、交渉するなかで手がかりを見つけていくのがベストです」滝本は自信をもっていう。「相手の要求にしたがうかどうかは、そのなかで選択していくべきです」
「返信がないんです」立っていられなくなり、静子は机に寄りかかる。「もちろんナミからも連絡がありませんし」
「記者会見を開く方向で検討していることをまずは相手に伝え、そのうえでどういうタイミングでどんな方法で解放するのか訊ねてみてはどうでしょうか。相手を刺激しないような文面がいいですね」
「そんなことをしたら」いつの間にか吹石が部屋に入って来ていた。「本当に記者会見を開かざるをえなくなるんじゃないかな」
「開くかどうかは交渉しだいです。それより相手を交渉の場に引きずりだすことが先決です。あくまで手段の問題です」
「誘拐自体まともじゃないが、拷問みたいなまねをする異常者が相手だ。交渉なんかできるかな。LINEの発信源は御池二丁目なんだろ。防犯カメラをチェックしたほうが早いんじゃないか」
「そちらは本部がすでに取りかかっています」
「もし本当に記者会見を開くとしたら、いったいなにをしゃべったらいいんだね。事実関係がはっきりしていないというのに。そんな中途半端な会見じゃ、向こうを苛立たせるだけなんじゃないか。そうなれば結果的にナミちゃんが――」
「会見を開いたら、いじめを認めざるを得ないでしょうね」滝本は吹石に歯向かうように言い放つ。
 与党幹事長だった男がたちまち気色ばむ。「そんなの無理にきまってるだろう」
「うそでもかまいません。それで犯人の出方を待つんです」
「あんたな、それがどんなハレーションを起こすか考えてみろよ」女刑事のことを苦々しくにらみつける。「あとで取り消したところで、一度色がついたら消えないんだぞ。イメージダウンもはなはだしい」吹石は気づかわしげに静子のほうを見る。この男の頭になにがあるか、静子には容易に察しがつく。
「しかし娘さんの命がかかわっていることですから」
「わかりました」静子はうつむきながらつぶやく。「まずは会見の準備をしていることをLINEに流してみます」

四十一
 いったんは病院にもどったが、つぎの日もぼくはロクさんに連れられて外出した。知世さんはきょうまで休みだ。ロクさんの好意にすがるのもきょうまでだ。しかもきのうから事態はどんどん悪いほうへと進んでいる。吹石猛が行方不明となったが、こんどは森野ナミが誘拐された。杳子からその話を知らされ、ロクさんはひどく胸を痛めている。姿の見えぬ怪物はいったいどこまで人の魂を食らえば気がすむのだ。
 そのときになってようやくアラタさんと連絡がついた。いままでなにをしていたのか詮索はせず、まずはこっちの状況を伝えた。
「うーん」と苦しげにうなってから、アラタさんはすぐにこちらに向かうと約束してくれた。それをロクさんに告げると「ラジャー」と返してくれた。ロクさんは以前からアラタさんをよく知っている。すくなくとも二人がいれば、修羅場でもくぐり抜けられそうだった。でも民間人のロクさんをあんまり危険な目に遭わせるのは考えものだけど。
 理事長からの聴取を終え、杳子はぼくらが待機する閑寂庵にもどって来た。きのう渡したキーについて、けさ報告をうける予定だったが、森野理事長からの連絡を受け、そちらが優先されたのだ。
 エアコンが静かに回る庭を見わたす部屋のちゃぶ台の前に腰を落ち着け、杳子は話しだす。
「トヨタの車だということまではわかりましたが、具体的な車種までは不明です。ただ、このキーをなくしたとすると、持ち主は車に乗れないことになる。家にもう一本、キーがあれば取りに行けばいいのですが、どうやらそうもいかなかったようです」
 水曜の未明、JAFの牽引車両が豊後坂下のコインパーキングから一台のプリウスを移動させていた。運転手がキーをなくしたというのだ。パーキングはマナーハウスから歩いて五分ほどのところにある。
「移動先は足立区内のマンションでした。所有者は三浦美紀、三十五歳。けさ、捜査員が訪ねたところ、応答がありませんでした。ただ、駐車場内に置かれたプリウスとハルさんのお財布にあったキーが合致しました。志田守殺害の重要参考人として現在、行方を追っているところです」
「だけど、たんに知人だという可能性はあるよね。ぼくらが張りこむ前に志田を訪ね、キーを置き忘れてきてしまったとか」
「三浦美紀の素性を考えると、志田と友好的だったは思えないんですよ」
「というと」ぼくは杳子に熱い茶を淹れながら、先をうながす。
「美紀は足立区内の製菓会社で経理を担当しています。会社に連絡したところ、ここ数日、体調を崩して休んでいるというので、携帯で連絡を取ってもらいましたが、つながりませんでした。そこで万が一のことを考えて、マンションの管理人の了解を得て部屋に入ってみたんですが、もぬけの殻でした。勤め先の上司の話では、美紀は夜間、リアル・ボイスというNPO法人でボランティアをしているそうです」
「なんのNPOですか」
「いじめ相談です」
「え……」頭のなかで錆びた歯車どうしがようやく噛み合い、そこに機械油が一滴垂らされたような感覚にぼくは包まれる。「それって――」
「先ほど、捜査員がそちらにも転戦し、美紀のことを聞いてきました。やはりここ数日、顔を出していないそうです。彼女はベテランのボランティアでして、相談者からはとても信頼されているそうです。相談内容は担当者が責任をもって管理されていて、憂慮される案件のみ情報共有される形です。そもそも相談者自身、個人情報を明かさないケースが多いそうです。へんに学校に通報されるのを恐れるんですね。だから美紀が最近、どんな相手とやり取りしていたかは、通話内容の自動録音を再生しないとわからない仕組みです」
「したんですか」
「しました。そうしたら七月六日の夜に一件、引っかかるものがありました。何度かかけてきている女子高生からでした。公衆電話からね。これです」杳子は自分のスマホにダビングしたそのときの通話を再生した。









「……すべて……解決……?」



「いまカナって……いったよね」ぼくは耳を疑った。これが西本佳奈の肉声なのか。意思の強そうな張りのある声音だ。悩んでいたことが解決したことを報告しているのだから、たしかに明るい気持ちなのだろう。
「娘の声にそっくりだと先ほど、両親に確認しました」杳子は茶をすすり、苦みに顔をしかめる。
「三浦美紀は会社を休んでいて、自宅にもいなかったんですよね」
「七月十日から欠勤しています。NPOのほうもおなじ日から来なくなっています。西本佳奈の失踪を公開した日です」
「NPOのいじめ相談員は、相談者の女子高生の行方を自分で調べていたってこと? 問題が解決したって連絡があった直後に失踪したから」話を聞いていたロクさんがつぶやく。
 杳子がそれを継ぐ。「それで佳奈さんと志田守との関係をなんらかの方法で知り、事情をたしかめるべく志田を訪ねた。そこにハルさんが張りこんでいた」
「ぼくとアラタさんがね」
「その後、志田の家で開かれたパーティーに佳奈さんが出席していたのもつかんだ」
「え……?」
「街野豊のスマホから写真が見つかったんです。七月七日の晩です」
「なんてことだ」
「美紀はたんに志田に面会しに行ったわけではないようです。前科があるんです」
「前科……?」
「長野の短大生だった二十歳のとき、二十二歳の会社員を襲っています。男性です。彼が職場の後輩をいじめているとの話を聞きつけ、ボールペンで目を突きました。傷害で逮捕されています。弁護士は心神耗弱を主張しましたが、認められず、懲役二年、執行猶予三年となりました」
「狂暴だったわけだ」
 ぼくの言葉に杳子はうなずく。「志田さんは拷問されていた。美紀がやった可能性は高いでしょうね。佳奈さんのことを訊問したのではないでしょうか」
「だけど、逮捕されたとき、心神耗弱を主張するような事情があったのかな」職業柄かロクさんが口にする。
「そうなんです。通院歴がありました。八年ほど、精神科に通っていたんです。子どものころに強いトラウマを抱えていたようです」杳子はビジネスバッグを広げ、クリアファイルに収めた新聞記事のコピーを取りだした。

四十二
 あれをとめなければならない。
 外池さつきは、コインパーキングにとめた車の窓に映る自分の姿をあらためてたしかめる。金の服に金の靴、金のアイマスク。もう逃げるわけにいかないの。いまこそあれに立ち向かうときなのよ。
 真夏の午後一時。
 時がとまったように町から人気が失せている。まるで魔物の攻撃に気付いて家に引きこもり、扉や窓に分厚い板を打ちつけて息を潜めているのだろうか。でもこっちにはおあつらえ向きだ。騒がれることもなく、ひっそりとやつに近付ける。豊後坂下のバス通りから入り組んだ路地を抜け、古びた家並みを何軒か過ぎたところ、くすんだ赤屋根の前で立ちどまる。アルミの門を開け、あたりを見回すが、やはり誰の姿もない。しかし油断は禁物だ。あれは玄関の向こうでこちらを待ちかまえているにちがいない。さつきは玄関のインターホンは押さず、裏手の勝手口に回る。
 ドアノブをつかむと、それはカチャリと開いた。安堵と緊張の波がいっぺんにやって来る。ここから先、邪魔は入るまいが、助けも来ない。果たして目的を完遂するだけの気力があるだろうか。急に襲ってきた不安をさつきはかぶりを振って払い落す。
 一人でいることはわかっている。家人は夜までもどらないはずだ。ドアを開けてなかに入りこみ、後ろ手に閉める。しんとした屋内は薄暗く、外とは打って変わってひんやりとしていた。エアコンが異様なまでにきいているのだ。その空気のなかにかすかに酒の匂いが漂う。
「あなた……」さつきは喉に力をこめて声をかける。「いるんでしょ」
 靴のまま台所にあがりこむ。靴を脱ぐわけにいかなかった。輝くスニーカーは防護服の一部だった。あれはこちらの防御のすきをついて入って来る。
 あちこちに目をやる。やっぱりだ。床に転がる空き缶やボトルの数は尋常じゃない。そしていまも目と鼻の先で、さつきのたいせつな人の魂を貪っているはずだ。
 ゴトリと音がする。
 二階だ。
 怖気を振り払って廊下に踏みだし、階段に足をかける。「あなた……」呼びかけながら黄金のジャケットのポケットに入れた金属を右手で握りしめる。火曜の夜、西本佳奈の遺体発見現場を前の晩同様にうろついていたとき、例の女刑事が大声で騒いでいた。またしても現場に侵入者があったようで、カリカリしていた。だがこんどの相手は区役所の作業着姿の男と女だった。さほど近づかずとも三人のやり取りは耳に入ってきた。それがヒントになったのだ。皮肉にも闇の世界はカトリック系の学びの園と隣り合わせだった。闇を封ずるもそのまま堕ちるも主の思し召しか。これにどれだけの効果があるか確証はないが、いまできることをすべてやるまでだ。
「いるんでしょ……あたしよ……あたし、外池さつき……よ……」
 ダメだ。二階はエアコンがきいていないのか。階段を上りきったときには、全身汗まみれだった。
 カーペット張りの短い廊下の左右にひと部屋ずつ並ぶ。耳を澄ませる。もう音はしない。相変わらずアルコール臭が漂っている。階下よりもそれが強まっていた。さつきは思いきって右の部屋をのぞく。閉めたカーテンから差しこむ陽射しのなか、がらんとした部屋にベッドが一つあるだけだった。
 反射的に体が引き締まり、もう一つの部屋のほうに向きなおる。
 こちらもカーテンが引かれたままで、陽射しが入らぬぶんもっと薄暗かった。本棚に受験参考書の並ぶ子ども部屋だ。ベッドわきの机にノートパソコンのディスプレイが煌々と灯っていた。その明かりが机上にずらりと並ぶアルミ缶を照らしだしている。
 パソコンを操作する黒々とした背中から枝のように腕がのび、端っこの缶をつかむ。
「よく聞いてくれるかしら……あなたに必要なのはこの地を、御池の呪われた土地をいますぐ離れること。そして適切な治療を受けてちょうだい」さつきは防護服で身を固めていることをいま一度たしかめてから、部屋のなかに一歩踏みこむ。角張った金属をポケットから取りだし、目の前にかざしながら話をつづける。「闇はあなただけでなく、この地のあらゆるものを食らいはじめるわ。だけどね、あたしはまずはあなたを救いだしたいの。あなたが苦しんでいるのはわかっている。そんな苦しみはもうおしまいにしないと――」
 言い終える前に、黒い背中がゆっくりと振り返った。

四十三
 青嶺学園理事長による記者会見は午後一時半に設定された。
 二年生の生徒が遺体で見つかって以来、はじめての会見である。だが文科省と警視庁の記者クラブにまかれた案内状には、その件に関するものであるとは記されず、学園の近くで起きた二件の殺人事件のことも書かれていない。もちろん理事長の娘が誘拐されたことも。記者たちは、いったいなにが飛びだすかと万難を排して学園講堂に集結し、テレビ各局は午後のワイドショーでの生中継を狙って撮影クルーを増員して臨んだ。
 会見は職員が仕切ったが、杳子はずっと静子に連れ添って段取りを確認し、ぼくはロクさんとともに控室で会見場のようすをモニター画面で見ることになった。会見がはじまるギリギリのところで、アラタさんが間に合った。ぼくのうしろのパイプ椅子に腰かけてぼそぼそと話しだすと、隣にいたロクさんが顔をしかめる。
 アラタさんはそんなことなどかまいもしない。「誘拐犯からその後、連絡は?」
「ありません。こちらからは会見を開くことをLINEで伝え、その後の人質解放の段取りをきめたいと伝えてあるそうです」
「中継を見てくれることを祈るしかないな。しかし向こうから反応がないのにどんな会見をするんだ」
「理事長の良心にまかせるしかないですね」
「すくなくともいじめがなかったとは口にできまいよ。娘を殺してくれというようなものだからな」
「ただ、森野ナミから直接聴取したわけでないですからね。理事長のいいたいこともわかります。われわれだって、いまの状況でいじめを断定することはできない」
「娘の命を救うためだ。ウソも方便ってやつさ。娘の身柄が確保された時点で、その後の対応を考えるしかないな」
 会見は時間通りに始まった。
 まずは街野豊の一件もふくめ、過熱する一方の報道に森野が冷静な対応をもとめた。夏休みに入ったが、生徒たちは日々の報道やネット情報に激しく動揺しているというのだ。報道の自由は最大限尊重するし、これまでどおり警察にもマスメディアにもできる範囲で情報提供はつづけるが、ぜひとも在校生や周辺住民への影響も考慮してほしい――。
「それが本日の記者会見の最も大きな目的です」森野は壇上から深々と頭を下げた。
 そのうえで理事長は、西本佳奈の遺体が見つかり、殺人事件として捜査がつづいていることについてコメントした。「生徒たちはもちろん、保護者の方々、教職員をふくめ、この学びの園に集うすべての者たちが悲しみのどん底におります。いまもそれはまったく変わりありませんし、一刻も早く佳奈さんの命を奪った卑劣な犯人を見つけだしてほしいと全員が祈っております。そうしたなかで、学園側としてできる最大限の自主調査の概要を報告させていただきます」
 調査は、西本佳奈の生前のようす、思い出、友人関係、そして校外での交遊関係について耳にした話についても公表された。それらを理事長は、個人情報を特定することなく上手に開示していった。カフェ「メロウ」でのアルバイトの話もふくまれていたが、「多くの常連客から親しまれ人気者だった」と述べるにとどめられた。
 校内では、今春あたりから「一人で過ごすところがしばしば目撃された」「友だちとあまり話さなくなった」というが、担任は「他の生徒にもみられる大人への成長過程の一つとして肯定的にとらえていた」と森野は説明した。
 一方、メディアでも指摘されだした「いじめ」の存在については、個別具体的な事例がはっきりせず、当事者からの聞き取りも途上であるものの、担任を中心とした調査チームは「おおむね該当事例はなかった」との結論に達していることを森野は明言した。そのうえで自らの見解として「いじめは決してあってはならない卑劣な行為で、自分は絶対にそれを許さない。今後の厳しい教訓としていきたい」と結んだ。
 その後、大勢の記者が質問をした。森野はそれらをじつに巧妙にかわし、はぐらかし、なんとか残りの三十分を逃れた。
 アラタさんは不安を口にした。「学校経営者なら合格点だが、親としては失格だな。もう間に合わないかもしれない」
「ですね」ぼくは天井をあおぐ。「理事長として責任逃れをしたと揚げ足を取られるような発言は一つもなかった。見事ですよ。後で責められるとしたら担任たち現場職員だ。けど、犯人の要求は一つも満たしていない。いまごろナミさんは――」
「よしてくれよ」ロクさんが声を震わせる。「かわいそうじゃないか、ナミちゃんが」
 控室の扉が開き、会見場にいた理事や職員たちが入ってきた。そのなかに和服姿の女性がいた。「ご立派な選挙演説だったこと。だけど娘を見殺しにするような女が知事になんかなれるわけがないでしょうに」ソファに腰かけ、苦々しく言い放つとたばこに火をつけた。
 その言葉にほかの理事や職員が凍りつく。ただ一人、吹石勝だけが落ち着いていた。「あとは警察に頑張ってもらうほかない」
 そこへ森野と杳子が並んで入って来た。杳子は憤然とした顔つきだったが、森野も硬い表情のままだった。その場に居合わせた理事や職員がいっせいに彼女に目を向ける。不穏な空気を察したのか吹石が口走る。「さあ、問題はこれからだ。そろそろ犯人から連絡が入るんじゃないか。手がかりをつかまないと。一刻も早く」
 案の定、着信音が鳴った。だがそれは森野のスマホではなかった。
「もしもし……」電話に出るなり、みるみる杳子の顔色が悪くなっていく。

四十四
 パソコンのディスプレイの輝きが逆光となってしまい、相手の顔はまるで見えなかった。というより、そもそも顔のある位置に真っ黒い洞穴が浮かんでいるかのようだった。声は聞こえた。猛獣が吠えるような家を揺さぶる怒号だった。
「おれをとめようというのか!!」
 さつきは心底、恐怖を覚え、逃げだしたい衝動と戦わねばならなかった。
「愚か者め! 熱き雨のなかで野たれ死ぬがよい!」
 魔物は立ちあがり、さつきのほうへ近づいてきた。虚ろな顔に黄色い二つの眼(まなこ)が輝く。いまこそ武器をかざすときだった。だが呆然として体が動かない。やがて見えざる手に喉を絞めつけられ、嘔吐とともに意識が遠ざかっていく。
 最後に見たのは、盛りあがった紺色の背中が髪を振り乱して部屋を出ていく姿だった。
「待ちな……さい……」
 さつきは心のなかで相手の名を呼ぶ。絶対に逃すものか。この家から出してはならない。悪を分離しないと。この地から逃れないと――。

四十五
 天城典子は巴教授とともに御池病院を訪ね、九谷慎一郎と面会した。ふさぎこんでいて、はじめは看護師も難色をしめしたが、九谷はかつてトモさんの論文を読んでいた。それで歴史の話ならしてもいいと自ら談話室に足を運んでくれた。
 だが落ちこんでいるのはまちがいなかった。火曜の晩、病室に泥棒が入り、地道に集めてきた郷土史の史料を盗まれてしまったのだ。
「ジョアン三世の至宝、黄金のマリア像なんですよ」
 九谷の話を聞き終えたトモさんは、それが長崎大の戸川教授が指摘するジョアン三世が大友宗麟に贈ったマリア像のことであると確信した。そこでもし発掘に至った場合、九谷の名前を発見者として発表すると約束し、記憶をもとにそれが眠る場所をしめした地図を再現してもらった。
 それをいまの青嶺学園の見取り図と比較する。中央校舎裏手にはたしかに松林が広がる。その手前付近が下屋敷の母屋があったあたりだ、そこから松林に向かって石畳がのび、井戸に至る。その先に記された十字架のようなマークがある場所に埋められているはずだという。見取り図をじっと眺め、該当地点を九谷がペンの先で差したとき、トモさんばかりか、典子まで思わずうなった。江戸期、明治時代、そして今回起きたそれぞれの地割れの延長線が交錯するポイントとほぼ一致したのだ。現在の熱帯植物園の裏手、急峻な崖がはじまるあたりである。
 過去の陰惨な出来事、そしていま起きている怪事件が黄金のマリア像とどうかかわるのか。恐ろしくもあったが、考古学者としては避けて通れない。トモさんは郷土資料館の史料室にもどるなり、つねに装備品を突っこんであるリュックをつかんだ。発掘作業となると、トモさんも典子もお手の物だった。
 問題は学園の許可を取りつけることができるかだ。これにはやはり滝本刑事の協力が必要になるかもしれないが、考えるより先に足が動くのがトモさんだ。十分後にはマイカーがわりに使っている区の軽ワゴンで学園の正門前まで乗りつけていた。そこにずらりと並ぶテレビ局の中継車や黒塗りのハイヤーを目にしてはじめて、典子は講堂で記者会見が開かれていることに気付いた。
 カメラマンや記者たちが忙しく出入りするなか、警備員や動員された職員たちもあたふたとしている。「区が管理する下屋敷跡地との境界壁のことで、理事長に用があるのですが」とそのなかの一人に典子が声をかけると、めんどくさそうな顔をして「直接、講堂に行って事務長か教頭を探してください」と告げられた。まずは第一関門突破だ。
 二人はヘルメットをぶら下げたまま、ゆったりとした足取りで講堂に向かうふりをして、中央校舎の裏手に回った。そちらに人気はまったくない。記者会見の成り行きを全職員が注目しているのだ。目指す熱帯植物園は十年ほど前、開校四十周年記念として建てられたもので、お披露目の式典には典子も参加していた。松林の奥につづく小径の先にぽつんと立つ、教室ほどの広さのグラスハウスで、まるでジャングルにいるかのようにつねに温度管理され、珍しい花々が咲き乱れ、地中に埋めこんだガラス水槽には、熱帯地域の水草が繁茂し、熱帯魚ショップでお目にかかるような魚たちがわがもの顔で泳いでいた。
 その裏手の崖なんて気にもとめなかったが、きょうはそうはいかない。松林に分け入るなり、典子は鼻をおさえた。トモさんも顔をしかめている。ことによると、九谷の話を聞かずとも、二人はここに来ざるをえなかったのかもしれない。
 異臭が立ちこめていたのだ。
「なんだ、この臭いは……」典子に困惑のいちべつを送ってから、トモさんはグラスハウスのわきを崖へと近づいていく。
「気をつけてくださいよ」あとについていきながら典子は気付いた。植物園の扉が開放されている。真夏だから温度管理の必要がないというのだろうか。気になって典子は一人でそこに踏みこんだ。が、鼻先に届いてきたのは、甘い花の香りだった。どうやら悪臭の源はここではないようだ。だが足下に目をやり、典子は眉をひそめる。水槽の水が抜かれ、水草が底にへばりつき、熱帯魚が何匹か口をぱくつかせて干あがっていた。まるで誰かがいたずらをして底を抜いてしまったかのようだった。
「ノリちゃん!! たいへんだ!」
 怒声に典子は植物園を飛びだし、裏手に急ぐ。
 目の前に倒れているトモさんに一瞬仰天する。だが地面に這いつくばって崖下に生じた黒々とした穴のなかをのぞきこんでいるだけだった。
「最悪だ……」
 訊ねるより先に典子も四つん這いになり、直径八十センチほどの半円形をした穴に顔を近づけてみた。
 教授の懐中電灯が放つ光の輪のなかにあるものに目を疑った。「なんてこと……」
 それこそが異臭の源だった。
 巴はスマホを取りだし、電話をかけはじめる。その間も典子は動くことができなかった。体が金縛りにあってしまったのだ。無数のハエにたかられながら穴の奥で岩壁を背にこちらを向く男の両脚が、どう見ても切断されているようにしか思えなかったからだ。

四十六
 記者たちにとっては消化不良の会見が終わった途端、会場からさほど遠くない学園敷地内でべつの殺人が起きた。杳子はめまいを覚えたが、まずは目と鼻の先にいるハイエナたちをここから締めだし、彼らに気付かれぬうちに新たな現場に向かわねばならなかった。
 熱帯植物園の前で文化財課の天城が、ライトを点灯させたままのヘルメットをかぶって待っていた。いつもの健康そうな丸顔がきょうは蒼白に変わっている。まるで黒いレースのカーテンさながらに飛び交うハエの群れのなかで、懸命に吐き気をこらえていたのだ。
 崖下にぽっかりと開いた横穴のなかから巴教授が四つん這いになって顔をだし、こちらを向いている。周囲には崖を掘ったさいに出たと思われる土砂が広がり、離れたところにスコップも転がっていた。もうそのときには通報が本当であることを杳子は感じ取っていた。刑事にとっておなじみの死臭が暴力的なまでに広がっていたからだ。それをたしかめるべく、杳子は懐中電灯を手にする巴の後について穴に入る。
 杳子もバッグからマグライトを取りだした。遺体は壁に背をもたせ、脚をのばしてまるで眠っているかのようだった。しかし下半身の周囲には、流れだした血が広がっている。足もとは土より岩のほうが多いせいか、ほとんど染みこんでいない。杳子の白いスニーカーはたちまちそれを吸いこんでしまった。
「三浦美紀だろうね」杳子にぴたりとついてきたハルさんが、薄暗い穴のなかで中腰になって口にする。「志田守が体じゅうを焼かれ、街野豊が両腕をもぎ取られ、吹石猛はひざから下を切断か。瓜生忠房とまったくおなじだ。それにしてもここは――」ハルさんは腰をのばし、教授が手にするごつい懐中電灯が放つLED光のなか、穴の内部を検分する。幅は三メートル、高さは二メートル弱あり、それが奥の暗がりへとつづいている。
 洞窟だった。
「氷室の入り口だよ。ついに見つけた」それでも巴はタオルで鼻を押さえて顔をしかめている。「ノリちゃんと探していたんだ。そうしたらこの臭いに気付いて……いや、驚いたのなんのって」
 天城は凍りついていた。遺跡から発掘される人骨には慣れているものの、まだ生身の死体にはお目にかかったことがないのだろう。ヘルメットのライトを揺らしながら泣きそうな声をあげる。「なんでなの……なんで……」
「美紀が吹石を連れこんで、ここで拷問したんでしょうね」感情を押し殺し、ハルさんが見立てを口にする。「外にスコップがあることからすると、美紀が自力で穴を広げてここを見つけたのかな」
「まさか……」洞窟にもう一人入ってきた。理事長だった。青ざめたその顔を巴が懐中電灯で照らす。「猛さん……うそでしょ……吹石さんに伝えないと」
「離れてください」近づこうとする理事長を杳子が制する。「これから現場保存を行います」
「スタンガンだね。首に痕がある」ハルさんが指さす。
 それには杳子も気付いていた。「そうでもしないとここに連れこめなかったのでしょうね」
「死後一日ぐらいかな」
「きのう……」反対の壁にへばりつきながら森野静子が苦しげに漏らす。「猛さん、きのう来ていました、学園に。通信設備整備のコンサルの方を案内していたはずです」
「何時ごろですか」杳子が顔を向ける。
「昼過ぎ……一時ごろだったんじゃないかしら」
「コンサルの方というのは?」
「ちょっと待ってください」静子はポーチから名刺入れを取りだす。「ネクスト・ブレインの輪島さん」
「なんだって」ハルさんが鋭く反応する。「輪島……」
「輪島圭太って書いてありますね」
「おとといの晩、志田の家に来ていたんですよ」
 杳子はけげんな顔になる。「そうなんですか」
「ごめん、御池署で受けた取り調べではだまっていた話なんだ。輪島はぼくらにとって因縁の男だ。そのやつがあの屋敷で紙きれのようなものを広げて見ていたんだ。ちょうど三田村真司がマナーハウスに到着した後でね。その直前に真司は“お宝はバッチリです”とかなんとか電話で話していた……そうか……地図か」ハルさんは額に片手をあてる。「ここが氷室の入り口だとしたら、輪島と吹石猛は真司が持参した地図を使って“お宝”を探していたんだ」
「だとすると」杳子も気付いたらしい。「御池病院の個室に空き巣に入ったのは三田村真司というわけね」
「おい、ちょっと待ってくれ」穴の入り口の外で声がしたかと思うと、巨体をよじって看護師が入ってきた。「キュウさんの宝の地図を盗んだのが、あの宅配便の男だっていうのか」
 それにはぼくは答えずに頭を働かせる。「輪島と猛はマリア像を探していたんだ。まさにそれがやつらの“お宝”なんだ。それがここにあるってことか」
 巴教授が引き継ぐ。「九谷さんの記憶をたどるとここに到着するんだよ」
「やつはここにいる」ハルさんが入り口とは反対側の暗がりに足を運ぶ。そちらに向かって洞窟が延びている。
「この岩ですが――」壁をぐるりと見やり、静子がスマホの画像を杳子に見せた。「感じが似ているような……」
 粘着テープでまかれた娘の写真だった。それを食い入るように見たのは巴教授だ。「岩盤をくり抜いた感じだね。たしかに似ている」
「三浦美紀もいるってこと――」
 杳子が言い終えるより先に静子は彼女のマグライトをその手からもぎ取り、洞窟の奥へと走りだした。

四十七
「ガスに気を付けろ!」
 トモさんが大声をあげながら静子の後を追う。その手に握られた懐中電灯はまるでサーチライトのように狭い洞窟をくっきりと照らしだす。発掘作業で使うハイパワーライトだ。天井はたちまち頭すれすれのところに近づき、幅も一メートルほどに狭まってきた。そこをぼくらも小走りについていく。
「人手によるものだな」真後ろでアラタさんが息を切らせながらつぶやく。
 たしかにそうだ。足下も壁面も真っ黒い岩盤がところどころつるりと削り取られている。元は地中に生じた天然の亀裂だったものを後に人間が開削していったらしい。鍾乳洞のように多岐に分かれているのでなく、ほぼまっすぐに延びている。ここにレールが敷かれた痕跡でも見つかれば、即座に足をとめ、静子を呼びもどすところだ。坑道のガスにのまれて全滅するはごめんだった。
 白い検知器のようなものを首からさげ、トモさんが進む。ちらちらと見えるインジケーターはまだ緑色だった。
「派手に近づくとやつを刺激しちまうぞ!」アラタさんが声をかけるが、かろうじて背中の見える静子は聞く耳を持たない。パンプスの甲高い音はどんどん遠ざかっていく。死地に赴く特攻隊のようだった。
 突如、静子の姿が消える。小径が右に折れたのだ。ぼくらがそこに到達した途端、左右の壁がぐっと近づき、天井も低くなる。気を付けないと頭をぶつけそうだった。ほぼ直角に曲がった洞窟の足下は階段状になり、下に向かって傾斜している。それが十メートルほどつづいたところでさらに直角に右に折れる。これで元来た方角にもどるはずだが、傾斜はさらにきつくなり、もう走るのは危険だ。そのときトモさんが壁面を照らす。手すりがはめこまれていた。「金属製だ……そうか、ここだったか」
 いいたいことをヘルメットをかぶった天城が先んじて口にする。「ここが防空壕……手りゅう弾が炸裂したっていう」
 トモさんは息を切らせて前進を再開する。「たぶんこの先に壕があるんだ。それにしてもかなり冷えてきたな。さすがは天然の冷蔵庫だ」
 すでに二十メートル以上下っている。ぼくは不安に駆られる。ここで明かりが失われたら完全な真闇だ。焼夷弾の雨からは逃れられても、闇がもたらす恐怖が体じゅうにまとわりつき、やがてぼくら全員、息ができなくなる。いや、そばに人がいるなんて幻なのかもしれない。ぼく一人、地獄に向かう岩場を下っているだけなのか――。
 柔らかい肉にぶつかり、足がとまる。階段の手すりにつかまりながら、トモさんが立ちどまっている。彼がかざすLEDライトが浮かび上がらせた光景にその意味がすぐにわかった。天井が一気に五メートルほどにまで高くなり、左右の壁が遠ざかっていた。直径は十メートルほど。まるで小ぶりの円形ホールのようだ。なるほどここなら避難所にはなる。
 トモさんの前で静子が立ちつくしていた。バスタブサイズの小さな泉のほとりだった。泉というより岩の地面に開いた穴に染みだした水が溜まっただけのようだった。その向こう、泉を挟んでぼくたちがいるところとはちょうど反対側の壁面が不自然に窪んでいた。人為的に掘削されたのだろう。そこにへばりつく巨大なイモムシのような塊にぼくら全員、息をのんだ。
「ママ……」森野ナミは頭部だけ粘着テープを剥がされた姿で半身を起こし、助けをもとめた。
 だが母親はそれ以上前に進めない。ミイラのような姿となった娘の背後に隠れるようにぴたりとつく人物の手に握られたぎらぎらとした刃物が、ナミの首筋に食いこみ、すでに出血がはじまっていたからだ。
「ナミちゃん!」最後尾についてきたロクさんが大声をあげて飛びだそうとした。それをぼくと杳子で抑えつける。その手を振り払い、巨体の看護師がその場で怒鳴りつける。「きさま、自分のしていることがわかってるのか!」
「わかってるわ」長い黒髪の女が素っ気なくこたえる。「待っていたのよ、そこにいる理事長がやって来るのを。きちんと総括しないとね、自分がしてきたことには」
 ぼくは懸命に記憶をたどる。見覚えがあるような気がしたのだ。でも霞の向こうまでたぐり寄せながらも思いだせない。
「ママ……」
「ナミちゃん……いま助けるから……」そうはいっても静子は飛びかかるタイミングを見極められない。美紀が手にする大型のサバイバルナイフの切っ先は娘の頸動脈上の皮膚にめりこんでいるのだ。
「三浦美紀さん」ナミの前に杳子が出るなり、警察の身分証を取りだし、落ち着いた声で話しかける。「ナミさんを傷つけたところでなんにもならないですよ」
「あなた、佳奈ちゃんの事件を調べている刑事さんでしょ。何度も見かけたわ」小型のライトを手に美紀はナミの背後からゆっくりと立ちあがった。もちろんナイフをナミの首筋にはわせたまま。「あの子がどうしてあんな目に遭ったのか、ちゃんとわかったのかしら。警察なんて学校のいうことにまんまとだまされてしまう。愚かな存在よ。傷ついた子どもたち、その親たちの役になんてまるで立たない。人の心の痛みがわからないサラリーマンよ。わたしはあなたたちにできないことをしてあげているの。悪をはびこらせないようにするには、それなりの監視が必要なんだから」
 杳子は小柄な体をぐいと伸ばし、毅然とした声音で言い放つ。「あなたの過去は調べさせてもらいました。ここにいる森野静子さんとは浅からぬ縁がおありのようですね」
 その言葉に驚いたのは静子のほうだった。美紀を見舞った四半世紀前の事件について、杳子はまだ伝えていないようだ。しかし静子自身で遠い記憶を探りあてた。「三浦美紀って……まさかあのときの……」
「あなたはもう忘れたのかもしれないけど、被害者は絶対に忘れない。ただの一度だってね。だからわたしにとって、森野さん、あなたは過去じゃない。現在なのよ。いつだって目の前に、いるの。だからもし、おなじ過ちを繰り返したのなら、こんどこそきちんとした報いを受けてもらわないと。しかも今回はよりによって自分の娘が、クラスメートにひどいことをしておきながら、学園理事長としてそれに蓋をするなんて。わたしはあなたにチャンスをあたえてあげた。記者会見でちゃんと告白すべきだったのよ。娘が西本佳奈にしたことを。わたしはね、いじめは絶対に許せないの。だけど子どものやることだから、どうしたって起きることはあるでしょう。残念だけど、最悪の結果もね。でも、それを明らかにして、もう二度とおなじことを繰り返さないよう肝に銘ずることはできる。それをしないで逆に隠そうとするなんて絶対に許さないの、このわたしが」
 杳子は泉を回りこむように二、三歩、右に移動したところで立ちどまる。「森野さん、一九九七年七月九日の出来事は忘れることができないでしょう」
 さっき閑寂庵で杳子がビジネスバッグから取りだした記事の話だ。
 中一男子、掃除用具入れで死亡 逆立ち状態、全身に粘着テープ
 一九九七年七月十日付の全国紙の記事だった。長野市の西に位置する丸沢町で前日の午後八時十分ごろ、町立塗川中学一年の三浦信一、十三歳が教室後方に据え付けられたスチール製の掃除用具入れのなかで、全身に粘着テープを巻かれたうえ逆さまにされて見つかったのだ。テープは両腕を体側に固定し、脚をのばしてそろえた格好で頭部まで完全に巻かれ、さらに頭は汚れた水の入ったバケツに突っこまれていた。用具入れは、小学生を一人押しこめるのも窮屈なサイズで、逆さまに立てかけられた状態で扉を閉じ、カギをかけてしまえば身動きもできず、脱出は著しく困難だった。
 警察の捜査はスムーズに進み、いずれも十三歳のクラスメート二人と二年生三人が補導され、家裁の少年審判を受けて全員が少年院送致となった。五人は放課後、ふだんからいじめの対象だった信一を教室で小突き、さんざん暴行をくわえたうえで、粘着テープによるミイラ作りを思いついた。体を逆さにして用具入れに“しまう”ことにしたのだ。
 彼らが下校後、二時間ほどして母親から担任に「息子が帰らない」と連絡があり、教職員と家族による捜索が開始された。
「掃除用具入れのカギを外し、扉を開けたのが妹でした。そこで彼女は変わり果てた姿の兄と対面することになった」杳子はライトに照らされる美紀を見据える。「頭にこびりついて離れないつらい記憶ですよね、美紀さん」
 無表情だった美紀の頬が一瞬緩む。振りきれてしまった人間の顔だった。
「まだ十歳よ。ショックを超えた純粋な恐怖だった。学校なんかもう行けるわけがなかった。その後、なんとか持ち直したんだけど、やっぱりトラウマっていうのは一度こびりつくと、もうどうにもならないのね。中学はちがうところにしたけど、やっぱりダメだった。クスリ漬け生活のはじまりよ。おにいちゃんがあんな目に遭ったことへの怒りと恐怖、それとどうしようもない絶望感に苛まれて、ずっと沈んだまま。深海の底にいるみたいだった。それでもやっとのことで学校に行くと、こんどはじろじろ見てくるクラスメートたちのことが耐えられなくて、急にキレてけがを負わせたりもする。コントロール不能ってやつよ。ところが裁判のほうはひどかった。学校側は徹頭徹尾、いじめの存在を把握できなかった、防ぎようがなかったと主張しつづけた。それでまんまと民事の管理責任を免れたのよ。損害賠償の責めを負ったのはいじめの当事者だけ。ねえ、こんなことってあると思う? 見て見ぬふりが通ってしまったのよ、裁判で」
 かつて防空壕だった洞窟の空気は冷え冷えとし、張りつめていた。目の前にいる黒髪の女性は、兄を殺されただけでなく、思春期を前にして社会の不条理を見せつけられてしまった。その苦しみをいったい誰が推し量れるというのだ。
「賠償責任を負ったあいつらは、賠償額にも満たない、雀の涙ほどのカネを払っただけで、あとはほっかむりよ。それが刑事事件の被害者の現実らしいけど、それじゃ泣き寝入りじゃない」
「なるほど」ついぼくは口走る。「それで監視を開始したんだな。ところが短大生のとき、ついにきみは行動出た。大学生になったいじめ事件の犯人の一人がバイト先でいじめをしていることを知り、ペンで目を突き刺した。もうこれ以上、やつらにおなじことは繰り返させまいとして。ところが、きみとしてはもっとも監視すべき対象は、責任を免れた学校側だった」
「そうよ」美紀はあごをあげ、ぼくのことを冷たく見つめる。ナミの首筋からは赤い糸のようにひと筋の血が流れつづけ、体に巻きつくテープのうえに広がっている。「だからいじめ相談ダイヤルに電話してきたあの子が青嶺の生徒だと知ったときは、運命的なものを感じたわ。だって森野さんのこと、ずっとウォッチしていたんだもの。いつかなにか起きるって。あのときとおなじように。森野さんが担任をしてくれていた年の夏とおなじように」
 事情を知らない巴教授と天城の目が怖々と静子に向けられる。
「あのときのことを忘れたことは、わたしだってただの一度もないんです。結果的にいじめを放置してしまったのはよくないことだとは思いますけど――」
「ねえ、よしてくれる? その『けど』っていうの。まるで自分は悪くないみたいじゃない」
「ごめんなさい……そんなつもりじゃないんです。裁判では学校側の責任は認められませんでしたが、わたし自身はものすごく責任を感じていて、その後、退職しました」
「それでまた教育現場にもどって来るなんて、いい度胸よね」ナミの首筋にさらにナイフがぐいと押しつけられ、みるみる出血量が増していく。
 ぼくはアラタさんとともにじわじわと左方向にずれて行った。そこからなら美紀のいる場所まで泉の端を飛び越えていける。およそ五メートルだ。それに気付かれたとき、美紀はナイフを頸動脈に突き刺すだろうか。可能性がないとはいえない。そんな冒険は却下だ。
「森野さん、あなたが親としての責任、理事長としての義務のかけらでも持ち合わせているのなら、ここにいる娘にいじめの真相を訊ねてみたらどうかしら」
 数秒の沈黙の後、静子はナミに声をかけた。「ナミちゃん……あなた、佳奈ちゃんとはお友だちだったのでしょう。とっても仲がよかったじゃない。それなのに……いったい、なにがあったのかしら――」
「……なんにも……ないって……」
「だめよ、ナミちゃん」静子は強い気持ちで臨んだ。すでに三人を殺している犯人が娘の首にナイフを刺しているのだ。「佳奈ちゃんの下駄箱にあった靴を汚したでしょう。防犯カメラの映像を見たの。あなた、ちゃんと映っていたし、汚しているのもあなただった。それに街野さんのファンサイトにも佳奈ちゃんを中傷する投稿をしたんでしょう? アカウントを調べればすぐにわかるのよ」
 ナミはじっと押し黙ったままだった。そのようすを冷たいまなざしで美紀が見つめる。
「いったいどうしてそんなひどいことをしたのかしら」
 首筋の痛みがあるのだろう。ナミはぼろぼろと涙を流しながら声を震わせる。「わかんないよ……いやだったの……ムカついた……のよ……」
「だからその理由はなんだったのかしら」
「ウザい……ウザかった……そういうのがいっぱいで……わけわかんないうちに……イヤになっちゃって……もうどうしようもなくて――」
「いじめたのね。そうなんでしょう」
 ナミはふたたび口をぎゅっと結んだ。それだけは絶対に認めたくないらしい。しかし呼び方はどうであれ、最低だ。ぼくは訊ねていた。「なにが一番の理由だったんだい。それをいってしまえば、きみはラクになれる。佳奈ちゃんはもう帰ってこない。それは絶対的事実なんだ。いまできるのは、きみ自身による贖罪だ。そのための第一歩を踏みだすんだ」
「なんとまっすぐなお言葉だこと」美紀は感心したように大げさにいう。「だけどこの子と佳奈ちゃんの関係は想像以上に複雑だったみたいよ。わたしもきのうまでは、もっとシンプルなありがちないじめなのかと思っていた。けど、これを見てちょっと首をかしげたの」そういって美紀はスマホを取りだし、動画を再生した。「吹石猛のスマホから転送したの。きのう、話を聴いたときに見つけたのよ」話を聴いただと? 拷問だろう。両足のひざから下を順番に切り落とすという。
 だが美紀が手にするスマホに映しだされた映像に、ぼくたちは釘付けとなった。
 天井の固定カメラがベッドでまぐわる二人をとらえていた。男のほうは吹石猛、そして相手の顔が見えた瞬間、静子も杳子も息をのむ。
 佳奈だ。
「ナミさんが佳奈ちゃんをいじめた本当の理由を訊ねていたら、吹石さんが痛みに耐えかねてこの動画の存在を教えてくれたの。両足失うのだけは勘弁してほしかったみたい。撮影されたのは今年の一月。場所は学園裏のあの屋敷よ。庭でバーベキューをやった日、佳奈ちゃんはぞっこんの街野豊に会えるんで喜んで参加したんだけど、途中で吹石さん、彼女を二階に連れていったんだって。ナミさんと佳奈ちゃんに二股かけるなんてねえ。ほんとサイテーの男よ。だからバランスをとって反対の足も切り落としてやったわ」美紀は嬉々として話しつづける。「ところが吹石はせっかくの動画をナミさんに見つかってしまった。でもこの子にもプライドがあって、それを吹石に突きつけるようなまねはしなかった。逆よ。怒りはちがう方向へ向かった。ほら、ナミさん、あなた、もうここまで来たら自分でおかあさまに話しなさい。西本佳奈をいじめた最大の理由がなんだったのか」
 またしてもナイフを押しつけられ、恐怖のあまりナミの口からするすると言葉があふれてくる。二人の女子高生の本当の関係を目の当たりにしたようで気分が悪くなった。
「自分のスマホに動画を飛ばして……あの子に直接、見せてやった。そうしたら顔色一つ変えずにいったの。『猛さんが秘書にしてくれるのよ。あの人、いずれ国会議員になるんでしょう。たしかに秘書は必要かな。才色兼備のスーパー秘書とかさ』って。あの子、あたしが猛と付き合っていることを知りながら寝たのよ……それで自慢げにそんなふうにいったの。それって『あんたみたいなおバカには秘書なんて無理でしょ』っていってるようなものじゃない……あのときの屈辱感が忘れられなくて、あの子だけは絶対に許さないと誓ったの」
「寝取られた意趣返しでいじめるなんてね」美紀はナミに蔑むような目を向ける。「お門違いもいいところよ。挙げ句の果てにあの日、七夕のパーティーにウソをついて呼ぶなんて。ここまでのくわしい理由は話してくれなかったけど、佳奈ちゃんはあなたとの関係にとても悩んでいた。ずっと電話相談を受けていたから知っているのよ。ところが前日の夜『すべて解決しました』って。志田さんや街野さん、それに吹石さんに個別に話を聴いてわかったんだけど、ナミさん、パーティーでどんなことが行われるか知りながら佳奈さんを誘ったそうよ。それこそが最悪のいじめよ。わたしも胸が悪くなったわ。遺体の膣内からトイプードルの精液が検出されたんでしょう?」美紀は杳子に訊ねてきた。おそらく吹石猛からでも聞きだしたのだろう。その件については、杳子がすでに猛の父親に話していた。
「そうした点は捜査上の秘密です」
「あら、そう。じゃあ、いいわ。ねえ、ナミさん、話してあげなさいよ。どうしてそんなことになったのか」
 ナミは唇を噛みしめ、一瞬逡巡した。だが生命の危機の前にまたしても底が抜けたように七夕の晩に目にした光景を無表情のまま話した。
「あの晩は、シンガポールのブローカーを接待することが目的だった。佳奈はその人にすごく気に入られちゃって……みんな、お酒とかサプリをたっぷりやってたから、もうわけわかんなくて」
「なんてこと……」静子は立っていられなくなり、その場にしゃがみこんでしまった。
 それでもナミは話しつづける。体にたまった汚物を吐きだすかのように。「そうしたら猛がミリーちゃんを連れてきて……おねえさんが飼っているの、オスよ……『おもしろいことしよう』って。あたしはたまたま、佳奈の目の前にいたから、ぜんぶ見えちゃった。見たくなんかなかったけどね。佳奈は男たちに抑えつけられ、パンティー脱がされて、脚を広げられて……あんな小犬にさせるなんて……ムカムカしたわ。それでもう外に行こうと思って庭に出たの」
 ぼくもアラタさんも魔窟で繰り広げられた唾棄すべき悪行に言葉もなかった。まさかと思ったことはやはり真実だったのだ。
「森野さん、いいこと、よく聞きなさい。これがあなたの娘のしたこと。最悪のいじめよ。これっぽっちの申し開きもできない」
「だけど……そんなことだとはほんとに知らなかった」涙ながらに理事長は訴える。「一度教師を辞めた後に上京して、塾講師の仕事をしているときに夫と知り合って結婚したんですが、うまくいかずに離婚しました。それでナミを育てるために青嶺学園の事務職員になったんです。直接、子どもに携わる仕事にはやっぱりトラウマがあったんですけど、つまるところ教育関係の仕事しかわたしにはできなかった。だから学園経営のノウハウを学ぶことにしたんです。自分の経験もあって子どもを預かる仕事がどれだけ危険かはよくわかっていたつもりです。でもだんだんと気持ちが慣れてしまって……ごめんなさい。でも経営がうまくいくようになると――」
「つまり、親は子どものためなら惜しみなくカネを投資する。それに気付いてやめられなくなったんでしょう。かつての辛酸なんて忘れてしまって」
「そうよ。それでいま、かつて因果が巡ってきたとき、わたしはおなじ手で逃げようとしたの。はっきり認めるわ、そうなのよ。その通りなのよ。西本佳奈さんがいじめられているとのうわさは耳に入ってきていました。いじめているのが自分の娘かもしれないという情報も」
「ほうら、白状した。けど、だったらもっと早く芽を摘み取ることができたはず。七夕の宵までの間にね。そうしなかったせいで、佳奈さんは命を落とした――」
「ちがう!」
 血の気を失った顔をあげ、ナミが吠えかかる。
「あの子が殺されたことに、あたしは無関係よ。だってあの子、あの晩、行方不明になったんだから。パーティーの参加者が連れだしたわけでもないの。あたしたちが眠っている間に一人で出かけたか、誰かべつの人が入って来て連れ去ったか……そう、二時過ぎだったかな、外でおしっこしていたら、壁のほうに人影が見えたの。本当よ。後で猛にも聞いたんだけど、見間違えじゃないかっていわれたわ。でもたしかに見えたの。いたのよ、敷地内に。まるで影のように真っ黒くて、じっとこっちをうかがっていた――」
 そのときだった。
 ナミの話に聞き入っていた美紀めがけて光の塊が発射された。そう、たしかに弾丸が発射されたかのようだったのだ。
 それは美紀にはあたらず、顔のわきをかすめただけだった。だが美紀のほうがそれに気を取られ、背後を振り向いた。その刹那、ロクさんが泉を飛び越えて突進した。血にまみれたサバイバルナイフに向かって。鍛えあげた筋肉に覆われた二本の腕を突きだして。
 美紀はもんどりうって倒れ、そこにロクさんがのしかかった。ナイフはもうどこかにすっ飛んでいる。一瞬遅れてぼくとアラタさん、それに杳子も飛びかる。だがそれより先にバチバチという電撃音とともに、閃光が眼前で輝き、ロクさんの体が美紀のうえで三十センチも跳ねあがった。
 そのタイミングを美紀は逃さない。とっさの判断でトモさんが投げつけた強力ライトは後方の壁面の窪みに落ちていた。それを引っつかむなり、まるでイリュージョンのように窪みのなかで美紀の姿が消えた。
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