プロローグ~五

文字数 23,630文字

プロローグ
2022年7月6日19:48
「お電話ありがとうございます。リアル・ボイス、担当ミキです」
「もしもし……ミキさん……?」
「はい、ミキです。ええと、もしかして……」
「……カナです。こんばんは」
「こんばんは……ありがとね、いつも電話してくれて。二週間ぶりぐらいかしら。今夜も好きなだけ話してくれていいからね」
「ありがとうございます。今夜はちょっとお伝えしたいことがありまして」
「あら、なんだろう。緊張しちゃうなあ。でもどうぞ、いってみて」
「はい……すべて解決しました。安心してください」
「……すべて……解決……?」
「はい、もうだいじょうぶです。ようやく気持ちが晴れました。これまで心配してくださってほんとにありがとうございます!」


 二年前の夏にもこの町にやって来た。
 そのときとはわけがちがう。朝露にしっとりと濡れた緑の下草を踏みしめながら、滝本杳子(たきもと・ようこ)は作業着の鑑識課員の合間を縫って割れた地面に近づいていく。母親の道楽に付き合わされるわけでもないし、これは杳子の本業だ。しかもかなりたちの悪い仕事になりそうだった。一週間前から女子高生が行方不明となっているのは、近所の誰もが知っている。
 七月十四日木曜日、港区御池(みいけ)。朝七時前だというのに三十度を超えているし、湿度は尋常じゃない。それがこのひどい臭いを増幅している。だがそれ以上に異様な状況だった。深さは一メートル。二百年前には武家屋敷のあった硬い地面に二十メートルにわたって亀裂が走っている。
「民間に払い下げるんです」杳子のことを捜査責任者と勘違いしたのか、敷地を管理する区の文化財課の女性が教えてくれる。「お皿とかお茶碗とか埋蔵文化財のたぐいはもう出尽くしていまして、歴史的価値と維持費用をてんびんにかけた末の判断です。だけどどうですかね、ここ数日で地震は起きていないはずなんですけど。すくなくともおととい、わたしが見回ったときはこんな地割れはありませんでした」タオル地のハンカチを顔に押しつけているから、妙な鼻声に聞こえる。丸めがねの下の丸顔からは猛然と汗が噴きだしていた。茶色の作業着には「天城」と名前が縫い取ってある。
 白金と恵比寿に挟まれた緑の丘は、目黒通りからもプラチナ通りからも離れ、都会の喧騒がうそのような屈指の高級エリアだ。近年にょきにょきと伸びはじめた背の高いマンション群が外壁のように取り囲み、特別な者たちが何代にもわたって住みつづける邸宅が並ぶ。その合間に低層階の億ションがひっそりとたたずんでいる。自己主張もしないし、外の人間にも関心がない。街全体が凛としてちがう時を刻んでいる。目がくらむほどに杳子はそんな印象を受け取っていた。
 だからこそ、この町の外れにゲストハウスを建ててしまった母の選択が、あまりに無謀で軽率に思えてならなかった。母も杳子もこの界隈には無縁だ。どっちも神奈川の海辺の町に生まれ育った。母はいまも一人でそっちに暮らしている。開業の話を内緒で進め、父の保険金をつぎこんだ末、二年前の夏にはじめてここに連れて来られたときは仰天した。そのときはこんな空き地が広がっているとも知らなかった。
 今回の事態は、御池らしさとはかけ離れたものだった。もしあのとき、こんなことになっていたら母も無謀な投資を踏みとどまっただろう。緑の丘のてっぺんに広がる豊後国・野賀藩下屋敷跡にできた割れ目から、遺体が見つかったのだ。
 発見から一時間が過ぎたいまも、それは仰向けのまま亀裂のなかに横たわっていた。相方の古磯はここに到着する直前、耐えがたい腹痛に見舞われて病院に向かった。間の悪い男だ。刑事になって一年目、最初の噛み応えのある事件になりそうだというのに。それとも緊張し過ぎたのだろうか。新人時代を振り返れば、杳子だって人のことはいえない。変死体を見て刑事ドラマのように嘔吐することが本当にあるのだと身をもって知った。でもあれからもう十年もたっている。神経はかなり鈍麻してきた。ゲストハウスの女将でもやっていたほうが、まともな人生を歩んでいたはずだ。絶対に。
 強烈な臭いをこらえ、杳子は現場をのぞきこんだ。腐敗の始まった顔も、ブルーのタンクトップも、デニムのハープパンツも泥だらけだ。それでもほっそりとした両腕は体のわきにまっすぐに下ろされ、着衣に血痕が広がっているわけではない。夜中、ひんやりとした窪地で涼んでいるうちに眠りこけ、明け方、野犬に土をかけられたあわれなキャンパーなら、きっとこんな感じなのだろう。ガスで異様に膨れあがったおなかはべつとして。
 跡地の管理担当者である天城とおなじ作業着姿のひげもじゃの中年男が、現場を調べる鑑識課員の合間にしゃがみ、スチールのメジャーで地面の亀裂を測定していた。鑑識のキャップを後ろ向きにかぶった若手がうさん臭そうな目を向けたが、ひげ男は気にもとめず、ぶつぶつと独り言をつぶやいている。
 事故とは言い難かった。集まった捜査員たち全員が失踪した十七歳の少女と結びつけている。「解剖しないとなんともいえませんが、殺されて地割れに放りこまれわけじゃないと思います」鑑識班長が捜査主任の権藤に告げる。「残念ながら死後一週間くらいってところですね。一度完全に埋められたあと、地割れが起きたんでしょう」
「それで発見に至ったというわけか」権藤は跡地の外れでもじもじしながらべつの捜査員から事情聴取を受けている大学生ぐらいの男に目をやる。隣に黒い柴犬がきちんとしゃがんでいる。第一発見者はその犬だった。跡地は区が管理しているが、土壁のあちこちが割れ、容易になかに入ることができた。ペットボトルや空き缶だけでなく、粗大ゴミまで捨てられている。それに糞だらけだ。ひと皮剥けばいずこもおなじだ。マナーもルールもあったもんじゃない。犬を連れたその男だって、いつものように散歩に来ただけだ。その犬が見つけずとも、遠からずべつの犬が見つけたはずだ。どっちにしろ、ひり散らした糞が放つ悪臭をはるかに上回るきつい腐敗臭だ。敷地の外に漂いだすのも時間の問題だった。
「こらえきれずに地面が吐きだしたみたいですね」隣にいた天城がぽつりとつぶやく。「汚いものを口に放りこまれて」
 汚いもの。
 これはいろんな意味で汚くて忌み嫌われる事件なのかしら。入念な鑑識作業のつづく土の底に目を落とし、杳子は逃げだしたくなった。刑事になって十年。今年、四十を超えた。殺しはもちろん、人の強欲が生みだしたあらゆる罪を見てきた。御池署に赴任した今春から殺人事件だけでも六件目だ。未解決の案件はない。捜査は事務的に処理されていく。
 これはちがう。
 直感に逆らえなかった。
「首に絞めたような痕がありますね。それと小さな傷も。犬が咬むとあんな感じの痕が残りますよ」
「発見時についた可能性もあるよな」鑑識班長の報告に権藤がつぶやく。目は第一発見者の男のほうに向けられている。柴犬は行儀よくじっとしたままだった。
 そのとき跡地の入り口が騒がしくなった。
 中年女性が二人、警備の署員を振り切ってなかに入って来る。一人はいかにも家から飛びだしてきたという風情のスウェットパンツにTシャツ、足もとは突っかけのサンダルだ。もう一人は出勤途上に立ち寄ったかのような紺のスカートに白の半袖ブラウス。ぴかぴかに磨きあげたパンプスは早足でもたくみにぬかるみを回避し、ショートカットの黒髪は挑戦的なくらいにワックスで固めてあった。
 遺体の顔は泥にまみれていたが、見分けはつきそうだった。捜査員としては人定の必要から家族による面通しは不可欠だ。それも早ければ早いほうがいい。安置所に運ぶまで待つ必要はない。
 身なりのちがう相手を振り切り、スウェットパンツの女性が小走りになる。両足からサンダルが脱げるのも気に留めず、一直線に杳子たちのいる場所へ近づいてくる。もう口からは野犬がうめくような嗚咽が漏れだしていた。事件、とくに殺しが起きると、かならず出くわさねばならない。数をかさねてもこれだけは慣れようがなかった。目を背け、耳をふさぎたい衝動をこらえ、杳子は亀裂の走った地面の縁から一歩あとずさった。ここまで到達したなら、体をささえてやらねばなるまい。でないと転落してしまう。
 杳子はなにもできなかった。現場にたどり着いた女性は地割れの縁で足をとめることもなくダイブした。一メートル下に横たわる遺体に向かって。
 絶叫があがった。
 それだけでつながった。遺体と失踪した女子高生が。
「こちら西本さん……青嶺学園高等部の二年生、西本佳奈(にしもと・かな)さんのおかあさまです……」付き添いらしい女性が涙声で告げる。
 地面の底では証拠物件の損壊を防ごうと二人の鑑識課員が、髪を振り乱した母親の体に手を回し、遺体から引き離している。
 杳子の視線を感じたらしく、立ちつくしていた女性が名刺を取りだしながら名乗る。「わたくし、青嶺学園理事長の森野ともうします……職員一同、無事を祈っていたのですが……最悪の結果になってしまって――」
 鑑識課員に両わきをささえられた母親はぎゅっと目を閉じたまま、気絶していた。森野静子(もりの・しずこ)自身、必死に動揺をこらえている。教え子が目の前で冷たくなっているのだ。しかも何者かの手によって。
「警察には全面的に協力いたします。どうしてこんなことになったのか、とにかく真相を解明しないと」理事長はそこまで告げると硬く口を引き結んだ。遺体の見つかった跡地と青嶺学園の敷地は、崩れかけたブロック塀を挟んで隣り合っていた。
 母親と理事長を取り囲む捜査員たちから離れたところで声があがる。
「ノリちゃん、ちょっと」
 鑑識作業のかたわらずっと地割れを検分していた作業着のひげ男が、杳子のそばにいた天城に声をかける。天城は杳子にぺこりと頭をさげ、そわそわとそちらに向かう。男は二十メートルつづく地割れの端に立っていた。そこから底が抜けたように地面の一部が陥没し、亀裂となってまっすぐにのびている。気になって杳子は二人に目をやる。
「どうされました、トモさん」
「見た目より大きいみたいだ」
「大きいって――」
「跡地の外まで延びているかもしれない」
 杳子は困惑して二人に近づく。男の作業着には「巴」と縫い取ってあるのが見えた。
「なにか気になることでも」
 杳子が声をかけると、巴はまるで杳子のほうが部外者であるかのようにじろりとにらみつけてきた。天城が紹介する。「こちらは区が依託している考古学者の巴先生。埋蔵文化財の発掘を監修してもらっている城南大の教授です」
 小太りで丸めがね、二人並んでいるとまるで親子、いや兄妹のようだった。
「本格的に調査したいんだが」
 事件のことなどおかまいなしといった調子で巴は杳子に訊ねてきた。さすがにそれには杳子もかちんときた。「当面、ここは警察が管理します。一般の方の出入りは制限されます」
「困ったな。機材を持ちこみたいだけどね」
「機材……とおっしゃりますと?」
「レーダーを使って地中を調べたいんだ。おそらく局地的な地殻変動が起きたんだ。ここ数日、たぶん二十四時間以内だろう」
「いまはなんともお答えのしようがないですね。捜査が落ち着いてからでないと。人が一人亡くなっているわけですし」最後の部分を杳子は、石頭にもわかるように強調した。
「ふぅむ……いやな相が出ている。それが気になるんだよ」


 カーテンを開け放った窓辺に立ち、ぼくは書斎の暗がりから青い夜を見下ろしている。
 何時だろう。夜明けまではたっぷり時間がありそうだった。エアコンのそよ風が心地いいが、Tシャツも短パンも寝汗をかいてしまった。今夜も熱帯夜だ。鼻から息をめいっぱい吸いこみ、ゆっくりと吐きだす。ついでに胸と頭にたまった澱まで押し流す。
 夜のこの時間が好きだった。
 日中の命が一度死に、新たに再生されるのを待っている。街も死に絶え、かわりに満ちるビリビリとした精気を窓越しにも感じることができた。目も冴えて薄闇を遠くまで見通せる。路地を挟んで向かい側、青嶺学園の丸みを帯びた体育館の屋根がグラウンドにうずくまる巨大なリクガメのように見える。都心にしては緑の多いこの町だ。こんなお化けみたいなカメだってきっとどこかに潜んでいるにちがいない。ぼくはさらに目を凝らし、子どものようなわくわくした思いでなにか動くものがないか探してみる。
 視界の端でなにかが動いた。校舎と校舎の間の渡り廊下付近だった。警備会社の巡回時間とはちがう。それはさっき来たばかりだ。おざなりに校内を懐中電灯で照らし、会社の車で走り去っていった。ふたたびもどって来たのだろうか。なんらかの異変に思い至って。
 青白い影だった。
 それが遊園地の射的の的のようにすぅっと右から左に動いたのだ。だがそれはもう姿を消している。目を凝らしても海の底のような闇しか見えない。幽霊のような残像だけが頭に居座り、いくら深呼吸しても押し流せなかった。やがてそれはいつものようにやって来た。頭のずっと奥、黒々とした深い意識の森の奥からひたひたと近づいて来る。
 よせ……。
 わかってはいるが抵抗してしまう。体がこわばり、ぼくは立っていられなくなる。ゴオという津波のような轟音に包まれるまで一瞬だった。あとは体が勝手に反応して身をゆだねていた。抗いがたい無数の叫びに。
 そしてけさもぼくは、知世(ともよ)さんのひざのうえで目を覚ます。
 たった数時間の出来事だったのだろうが、何日も気を失っていたように感じられる。もう慣れている。正気――その呼び方が適切だとは思わないけど――はすぐにやって来る。新しい一日に向かって。
「また脱いじゃったのね」知世さんは磨きあげたフローリングにひざを崩して座り、脂の浮いたぼくの白髪頭を指ですきながらつぶやく。体にはぼくのお気に入りのバスローブをかけてくれている。「暑かったしね、きのうも」
 声の奔流に頭を襲われたのち、ぼくは全裸になって床で丸まっていた。そうに決まっている。いつもそうなんだから。ベッドにたどり着こうにも遠すぎる。いや、たどり着いたものの、こっちのほうが安心できると無意識のうちにもどって来てしまったのか。たしかに床はひんやりとしていたし、ベッドとおなじくらい清潔だった。毎日自分で磨いているのだから。
「何時だろう、いま」
 知世さんは書きもの机のデジタル時計を見やる。「九時過ぎよ」机といっても、院内のあちこちから廃材をかき集めてきて、ぼくが手作りしただけだ。でも仕上がりは悪くない。もう五年も使っているから、なんともいえない風合いも出てきた。
「そんなにたってしまったのか」
「起きていたの? 夜中」
「うん、いつもとおなじ。青い闇と話をしていた。そうしたら――」
「あれがやって来た、でしょ」
「そのとおり」それにしても知世さんのひざはやわらかいし、安心できる。このままずっとこうしていたいくらいだ。「なんでもお見通しだね」
 年は五十歳のぼくよりずっとうえのはずだが、とても若く見える。薄茶に染めた髪を後ろで束ね、いつもにこにこと母親のように微笑みかけてくれる。健康そうだ。ぼくみたいな人間相手でもふつうに話をしてくれるし、へんに身構えていない。仕事だからあたりまえなのだろうけど、それができない人のほうが多い。
「ハルさんのことならなんでもお見通しよ」愛児を慈しむようにひざのうえでそっとぼくの頭を抱きしめてくれる。「それできょうはどこへ行っていたのかしらね」
「ああ、きょうはね」ぼくはふたたび目を閉じ、たったいままで逍遥していた世界を思いだそうとする。「深い森のなかを走る一本道をとぼとぼと歩いていたよ。場所は……外国のどこか。北の森だった。一人で歩いていた」
「北の森?」
「そう」夢じゃない。むしろ夢ならいいのかもしれない。でもそうではない。夜中、あれに襲われてからいままで、ぼくは眠っていたわけではない。もう何年も前からぼく自身、それに気づくようになっている。
 幻覚だ。
 それが病気の証拠だといわれているけど、むしろぼくにとっては、ままならぬ現実から逃げるための避難所であった。心は解き放たれ、あらゆる束縛から解放される。それを実感することができた。時間に追われることも、人になにかを迫られることも、もちろん誰かを傷つけてしまって罪の意識に苛まれることもない。人の歩みは終わりなき贖罪の旅だ。それに耐えきれなくなったとき、逃げこむ場所があったっていい。
「ちょっと寒そうね」
「そうかな」
「ほら、こないだ話していたじゃない。砂漠のヤシの木の下とか、無人島の浜辺とか。わたしはそっちのほうが好き」知世さんはぼくを否定しているのではない。ぼくをまともな人間としてあつかってくれているだけだ。「それでずっと歩いたあと、どうしたのかしら」
「しばらく進んだ先に山小屋があった」
「誰かいたのかしら」
「いたよ。なかに入る前に目が覚めてしまったけど」
「あら、残念」
「あまのじゃくなものさ。そんなところにいると、このぼくも誰かと話がしたくなる」
「わかっているわ。ヤシの木の下にはキャラバンが休んでいたし、ビーチには船が難破してたどり着いた先客がいたんでしょ」
「ぼくらはおなじ波長で話すことができるんだ。山小屋の人もきっとそれができたはずだ」
「どんな話をするんでしょうね」
「たぶんそれは……混沌。そう、この世が混沌に満ちているってことについてじゃないかな。悦びと苦悶、愛と憎しみ、善と悪……分け隔てのない無限の量子の塊なんだろうね、この世界は」
「怖いような気もするわ、そういうの。けど、ハルさんならなにか秘密を教えてくれそう。そういう世界の。だってわたしもおなじ波長で話しているつもりなんだからね」
「わかってるさ」
 かといってぼくは頭のなかにあるすべての記憶を知世さんに明かしているわけじゃない。残念ながらぼくが頭のなかで作りだしたさまざまな光景とはちがうもの、幻覚ではない現実の出来事については、一つひとつ精査しないかぎり、知世さんにだって話せない。
 渡り廊下に現れた青白い影のことは、だからまだ内緒だった。
 ぼくはゆっくりと起きあがり、バスローブで股間を隠しながらすばやくそれを身にまとう。北側の窓の向こうに生徒たちの姿はなかった。酷暑の通学を終え、校舎に逃げこんだのだろう。それにしても――。
「どうしたの」そっとわきに立ち、知世さんもおなじように学園を眺める。
「いや、ほら」ぼくはふいに建物と学園の合間を通る路地に目を落とす。ちょうど女性ランナーが燃えだした陽射しをものともせずに猛然と走り抜けているところだった。「なんであんなに元気なんだろう」
「世界は広いってことなんじゃないかしら」
 そのときドアがノックされ、わずかに押し開かれた。
「ハルさん、起きてるかい」分厚い手のひらがドアの端をつかみ、百九十センチの巨体が入ってくる。
「心配ないわよ、ロクさん」知世さんは看護師の六村始(ろくむら・はじめ)にさらりと告げる。「いつもの通り素っ裸でした」
「そいつは朗報だ。ハルさんがベッドでパジャマでも着ていた日には、槍が降ってきそうだからな。いやいや、そうじゃないんですよ、知世さん」この男に白衣は似合わない。分厚い胸板と丸太のような腕のせいでいまにもはち切れそうだ。柔道の元学生チャンピオンなのだ。そしてこの男はおしゃべりのほうでもチャンピオン級だった。「ハルさんにぜひとも聞かせたいとっておきの話があるんですよ。もうすぐニュースで流れると思いますけどね。わたしのほうが早いんじゃないかな。見つかったらしいんですよ、例の女子高生」
 知世さんの顔からさっと血の気がひく。「よしなさいよ、そんな話。ハルさん、聞きたくないでしょう」
「ロクさん、こないだ話していたやつ?」
 ごちそうを前にした犬のように六村は舌なめずりしてうなずいた。「そう、それそれ」
「見つかったの? いつ?」ローブの前をひもで結び、ぼくはロクさんを書斎に招き入れる。ロクさんはいつもそうするようにデスクわきのアルミのスツールにちょこんと腰かける。そのたびにぼくはいすが壊れるのではないかと心配になるのだが、きょうはそれよりも知りたいことがある。「お隣の学校だよね」
 ロクさんはちらりと担当医の顔色をうかがい、「ほどほどにね」との承諾を得たと確信して話しだす。「けさだよ。それも学校の隣の敷地。ほら、なんとか藩の武家屋敷跡地って区が管理しているところがあるだろう。あそこで見つかったんだって。クリーニング屋がさっき来て教えてくれたんだよ。失踪していた二年生の女の子。それがさあ――」六村は急に取ってつけたような悲しげな顔になった。
「なるほど。生きていたらそんなところにいないで、まっすぐ家に帰るもんな」
「かわいそうだよ。警察は……いや、ごめん、ハルさんの前でいうのはなんだけど」
「いいって。事件なんだろ。事故じゃなくて」
「そう見てるって話だったよ」
「もうネットに出ているわよ」スマホをいじりながら知世さんがいう。「学校がたいへんなんじゃないかしら」知世さんは窓から学校のほうを眺めた。「もう生徒たちには伝えたかな。きっとすぐに下校させるはず。休校よ、きょうは」
「そうですかねえ」
「授業なんてできるわけないじゃない。みんながみんな、ロクさんみたいな性格じゃないんだし、なにより先生たちがたいへんよ」知世さんだって興奮しているようだった。
 静かで過ごしやすい場所なのに。ぼくは胸の底に冷たいものを感じる。もしかしたらこの病院もしばらくはこんな話で盛りあがるのかな。町から隔絶された、ぼくたちみたいな弱虫の永久避難所だと思っていたのに。
 ドアの向こうに人影が見えた。
「ああ、入ってくださいよ」ぼくは自らドアを開け、そこに立つもう一人の大男を招き入れた。「いらっしゃい、アラタさん。よく来てくれました」
「あらあら、きょうは忙しいわね、ハルさん。お客さんばっかり」
 古橋新太(ふるはし・あらた)はゴマ塩頭をぽりぽりとかきながら知世さんに会釈する。「近くまで来たものでして。寄らなきゃ寄らないで、こいつ、いろいろとうるさいでしょうし」手には最近この界隈で話題のバスクチーズケーキの店の紙袋を握りしめている。
 担当医と看護師が外したのをたしかめ、ぼくのほうからアラタさんに訊ねた。「近くに来たなんてうそでしょ」
「まあな」さっきまで六村が腰かけていたスツールにアラタさんは座った。六村は柔道で鍛えたが、アラタさんは空手だった。こちらも学生チャンピオンだし、血の気の多さでいえばまちがいなくアラタさんのほうだ。だからコンビを組んでいたときも、ややもすると弱々しく見えるぼくが立ち回り先で恐怖を覚えることはなかった。
 警視庁に入庁したのはアラタさんのほうが二年早く、刑事になったのも向こうが一年早かった。以来十年、ずっと本庁でコンビを組んできた。二人とも三十代で若かった。
「隣の学校の話ですか」
「そんなところかな」年に何回か、アラタさんは訪ねてきて、職場や最近の事件のことも気兼ねなく教えてくれる。治療は成果を出している。だいぶ落ち着いているから、ぼくもそういったたぐいの話でも耳を傾けられるようになった。
「ぼくには関係ないですよ」
「けど、おまえだって隣の生徒が行方不明になっているのは知っているんだろ」
「おしゃべりな看護師がいるんですよ。知りたくないことまで親切にぜんぶ教えてくれる。アラタさん、コーヒー飲みますよね」
「ああ、いただくよ。いつもの店の豆だろ。こいつに合うはずだ」先輩はバスクチーズケーキを袋から取りだし、勝手知ったるとばかりに食器棚から小皿とフォークを取りだす。
「グアテマラのフレンチローストが入ったんですよ。なかなか船が到着しないんでやきもきしていたんだけど、やっぱり絶品だった」ぼくは有頂天になって手作りの棚から豆を詰めた瓶を取りだし、電気ポットにミネラルウォーターを注ぐ。
「ずいぶん調子がいいみたいじゃないか」
「なんとかやってますよ。“書斎”も好きに整えさせてもらっている。元は殺風景な畳敷きだったんですが、知世さんがリフォームしてみないってすすめてくれて」でもこの先を考えたら無駄遣いは注意しないと。六十になる前に貯金が底をつく。そうなったら容赦なくここを追いだされる。カネの切れ目が縁の切れ目。知世さんだってそうだろう。
「おまえ、これだけ何でもできるんだから、もう出てきたらどうなんだ。ドクターもだいじょうぶだっていってるんだろ」
「出られないですよ。病棟の扉はふだんロックされているし、外は高い塀に囲まれている。ごぞんじないと思いますが、そこのドアだって内側にカギはないが、外にはある。いつもはかけていないけど、いざというときはいつだってぼくらを閉じこめられる。それにあちこち防犯カメラだらけだから、カギが開いていたって易々と外に出られるわけじゃないんですよ」ぼくは子どもに言い聞かせるように説明する。「建物は八十年代のバブルの真っただ中に建てられたから、妙な意匠があちこちに凝らされていましてね。テラスなんてスペイン風のタイル張りですよ。そこから正面ゲートに至る芝生を見やる感じが、ヨーロッパの高級リゾートみたいな感じで気に入ってます。ランチはそこでみんなで取るんですが、気持ちがとても落ち着く。でもね、ゲートから出ることはできない。ロクさんたちがいるから。あの男は気立てがいいけど、敵には回したくないですよ」
「刑務所とおなじといいたいのか」
「現実はそうですよね。警備のゆるやかな刑務所」
 目黒通りから路地をすこし入ったところにある豊潤会御池病院は、精神科と心療内科の専門病院として四十年以上、この町に根を下ろしている。外来も受け付けているから住民にさほど違和感はないはずだ。だがそれも内実を知らないからだ。他の精神病院と変わらず、ここでも国の政策に基づいて隔離収容が重視され、いまも長期入院者がまるで住人のようにひっそりと暮らしている。治療というより収監だ。患者たちをなぜ退院させないか、それは家族や親族が、精神障害者を禁忌とみなす日本社会ならではの湿った空気にいまだに恐れおののいているからだ。
「そうじゃないって」芳しい香りが書斎に満ちる。シビアな話をしながらもアラタさんの頬は緩んでいる。テラスでみんなでランチを取るのもいいが、自分だけの世界で心を許した相手とすするコーヒーに代わるものはない。「おまえは正式に退院すべきなんだよ」
 スツールわきのコーヒーテーブル――ロクさんがキャンプ先で拾ってきた白樺の木を使った傑作だ――にマグカップを置き、ぼくも書きもの机のいすに腰を下ろす。「難しいですよ。いまだに幻覚が現れますし、もうこの歳だ。息苦しい人間関係には耐えられない」
「歳だなんてなにいってんだよ。まだ五十かそこらだろ。おれなんて、いやでもおまえより二年も余計に生きてここまで来ているんだぜ……ああ、やっぱりうまいな。このケーキ。こってり感がたまらない」小皿を抱え、かきこむようにバスクチーズケーキをアラタさんは堪能する。「中性脂肪なんてクソくらえだ」
 くすりと微笑み、ぼくも手土産を味見する。「ここはぼくにとって宇宙の中心なんですよ。十年入ってみてよくわかりました。ひと言でまとめるなら、居心地がいい」
「信じられんな、その感覚」
「あつれきを起こしたくないんです。もう。ここにいれば、誰からも迷惑をかけられないし、逆に誰にも迷惑をかけないでいられる。うん、むしろそっちのほうが大きいかな。その人のためと思ってしたことが、余計なお世話だったり、純粋に不愉快だったりする。それを知ったときの挫折感というか、不毛感というか……つらいんですよ。もう人の顔色をうかがってびくびくするようなまねはしたくないし、道化師のような笑いものにもなりたくない」
「それって引きこもりとおなじじゃないか」さすがは長年の相棒だ。ズバッと口にする。
「殻に閉じこもっているという点ではそうかな。でも幸か不幸か、ぼくはネットゲームなんかやらない。バーチャルな世界に逃げることもできないんです。だけどぼくにはそれがいい。あるのは自分のアタマだけ」
「それで世界中を旅することができる。そういいたいんだろ」アラタさんはため息をつき、もうひと口、絶品チーズケーキを味わった。「どうだ、最近は。すてきな場所はあったか」
 いすで足を組み直し、ぼくはコーヒーをすする。「けさは北の森にいましたよ。そこをゆったりと歩いていた。早朝の高原にいるみたいでした」
「いい感じだな。おれも行ってみたいよ」
「アタマとアタマがつながれば、いっしょにキャンプできますよ」
「なるほど。完璧な静寂、心の平衡状態……なにより誰にもじゃまされないってのがいいな。最高だ。女子高生の変死体なんて出現しないわけだし」
 病院の目と鼻の先で見つかった遺体について、ぼくは聞かないわけにいかなかった。


「担任と校長、それにわたし。警察の聴取はこの三名で受けることにします」
 午前十時過ぎ、会議室に緊急招集した職員たちの前で森野静子は静かに切りだした。教員も事務職員も沈痛な面持ちで押し黙り、身動き一つしない。
「きょうここでの話はもちろん、今後、捜査状況に関する話などは、決して生徒や保護者に口外しないようにおねがいいたします。それと、ここが一番大事なところで、警察からも強く言い置かれている点ですが、マスコミがこの先、学校周辺をうろつくことになると思います。もちろんなかには絶対に入れません。まずはそこを共通認識として持っていてください。そしてもし、みなさんが校外で彼らの接触を受けたり、携帯に電話がかかってきたりしたときは、相手の所属と氏名を聞いたうえで、決してコメントしないようにおねがいいたします」
「すみません、いいですか」恐るおそる教頭が手を挙げる。ふだん学校紹介などの取材窓口になっていることから、すでに何本か取材の電話を受けていたのだ。「記者会見開催の申し入れが来ています。文科省の記者クラブの幹事社だという方から電話がありました」
 静子は穏やかな表情を崩さなかった。学校教育の道に進んで以来、思いつくかぎり二度目の災難だった。でもまだ二十代のあのときも思ったが、こんなことで取り乱してわれを忘れてなるものか。静子は頭が薄くなりだした教頭にゆっくりと目を向ける。「どのような回答をされましたか」
「どの社にもまだなにもきまっていないとだけ伝えました」
「それでいいです。ただ、この先、そうした電話があった場合は、わたしにつないでいただけますでしょうか。あれこれ無理いって申しわけありません」静子は深々と頭を下げるのを忘れない。つられて教頭もばかみたい頭をさげた。
 理事長室では学園の理事たちが待機していた。
 この人たちにも状況を説明しないといけない。理事会にはいつもなら事務長も出席するし、自分が事務長だったときもそうだった。だがきょうは一人で臨むことにした。事件にあの人たちがどんな反応をしめすか聞かれたくなかった。いまの事務長は信頼のおける男だったが、人の口に戸は立てられない。
 初等部から高等部まで学園に集う生徒たちには全員防犯ベルを持たせていたし、登下校時にはいたるところに警備員と職員、それに父母たちにも協力をあおいで目を光らせていた。七歳から十八歳まで年代に幅はあるものの、変質者たちの格好の餌食となるか弱き存在であるのはまちがいない。いまにして思えば、これまで事件らしい事件が起きて来なかったほうが奇跡だった。そんな薄氷のうえをのんきに歩いていたのかと思うとぞっとする。
「本日はお忙しいなか、急にお呼びたてして申しわけありません」豪奢な楕円形のデスクの端に立ったまま、静子はきりだした。「なお本日、外池(とのいけ)理事は海外出張中とのことで欠席となりますので、お集まりいただいた五人の方にわたしをくわえた形で、理事会を開催したいと思います」
「あの方は非常勤でいらっしゃいますよね」
 静子の対面でブランドもののジャケットに身を包んだ女がぶっきらぼうにいう。情欲の強そうな、ややもするとだらしない顔だちをしている。日舞の美琴流宗家というが、はっきりいえば、美琴江雪(みこと・こうせつ)のたたずまいは場末のスナックのママとどっこいどっこいだ。前理事長の大木隆士に猫なで声で接近してまんまと愛人の一人になった挙げ句、理事の座まで手に入れたこの女のことが、静子は大嫌いだった。カネに汚いし、なにしろ下品だ。それが言葉の端々にあらわれている。静子だって人のことをいえる口ではないが、下には下がいると痛感する。その女がこの期におよんで、敵対する理事に難癖をつけようというのだ。もちろんそれは静子にも向けられている。大木がバイアグラの過剰使用による心臓発作で急死したのは二年前のこと。その後、この女が学園に居座れるのも残りの任期のあと半年だけだ。美琴の魂胆は見え透いている。任期中になんとしてでも静子を追い落とし、自らが新理事長の座に収まるのだ。
「いえ、すみません、美琴理事。外池理事は常勤です」
 ルージュをこれでもかとばかりに分厚く塗りたくった口を大きく開き、奥歯の銀の詰め物までのぞかせて美琴は驚いたふりをする。「常勤……? いつもいらっしゃらないから、てっきり非常勤だとばかり思っていましたわ。海外ご出張中なんて、さぞかし人気のデザイナーさんなんでしょうね。だけど、わたしたちだって仕事を投げだして駆けつけたんですよ。理事長、そういうところをちゃんと理解してくださいね。そりゃ、海外から急に帰って来いとはいえないけれど、逆にどれだけわたしたちが学園と子どもたちのことを思っているか、おわかりでしょう」
 外池さつきは、青嶺学園出身のファッションデザイナーで、海外のショーを渡り歩いている。何度か生徒たちの前で講演をしてもらい、とりわけ親たちのウケがいい。理事に起用したのは静子が理事長になってからだ。美琴が勘ぐるように、学園の知名度アップのために数すくない成功者であるOGを利用しているのはまちがいなかった。美琴にしてみれば、そこに静子のいやらしさを感じるというわけである。
「それにしても信じられんな。自分の身の回りでこんなことが起きるなんて」ふだんから美琴のことをうさん臭いと思ってくれている西原信明(にしはら・のぶあき)が、見事に話を元にもどしてくれた。青嶺学園と系列関係にある秀嶺女子大の学長だ。いわば安パイの理事として代々、名を連ねている。専門は政治学で、学校教育とは無縁だった。「下校中に事件に巻きこまれたとはね。わたしはてっきりプチ家出ぐらいかと思っていましたよ」
「その点ですが」静子はようやく席につき、説明を開始した。「七月七日、西本佳奈さんは午後二時過ぎに下校しています。ただ、行方不明になったのが帰宅前だったのか、帰宅後にあらためて出かけた後なのかはっきりしていません。警察の捜査でもそのあたりが不明なのです。スマホに関しては、学園内は使用禁止なので生徒は下校時に電源を入れるのがふつうです。でもその日、佳奈さんのスマホはずっとオフのままでした。なのでGPSも使えずじまいでして。通話記録もサイトの閲覧履歴も警察が過去一年ぶんを調べましたが気になるものはなかったといいます。自宅は学校の近くです。正門を出て左手に豊後坂を下った先、徒歩で十分ほどの御池二丁目の住宅地です。おとうさまは大阪に単身赴任中でして、おかあさまと二人で暮らしていました。しかしたまたま、当日の午後、おかあさまは出かけておりまして、ご近所の方で見かけた方もいまのところおりません。もちろん防犯カメラも広範囲にチェックしたのですが、かんばしい情報は得られていないようです」
「つまり理事長、こうおっしゃりたいのかしら」美琴はここぞとばかりに身を乗りだしてきた。「いったん帰宅していた可能性がある。もしそうなら学校の監護義務の範疇を超えていると。家に帰ったあとなにをしようと、そんなところまで面倒を見られないと?」
「いえ……客観的な現状を――」
「そうですよ」西原が穏やかな声で助け船を出す。この男だって相当な狸おやじだが、良識をわきまえていた。「いまは警察の捜査を待つほかないでしょう」
「だけど保護者の気持ちに立つ必要がありますよ」唯一の学校教育の専門家である横浜教育大教授、岩井貴代(いわい・たかよ)がそっと手を挙げた。「ご遺族の方のケアはもちろんですが、ほかの保護者の方々もかなり動揺されていますよね。娘たちが日ごろ接していた同級生がこんな悲惨な目に遭ったんですから。ところで行方不明になる前、佳奈さんはなにかいってなかったのかしら。どこかに行くとか」
「おかあさまには『すこし遅くなるかもしれない』と話していたそうです」
「つまりどこかに出かける予定があったということですよね」
「そう考えられますね。ただ、友だちと会うのか、一人でどこかに買い物でも行くのかなどくわしくは話さなかったし、おかあさまも訊ねなかったそうです」
「事件に巻きこまれるなんて思わないからね」西原が相づちを打つ。
 静子はノートに目を落としながら付け加える。「ふだんより明るい感じがしたそうです。期末試験が終わって夏休みが目前だったからだろうとおかあさまは話しています」
「いいかな、ちょっと」理事たちのなかではもっとも年かさに見える作務衣姿の太った男が口を開く。禿頭だから僧侶のようだがそうではない。隣町の白金で長年、医療法人を経営する門間史郎(もんま・しろう)だ。本人は呼吸器内科の専門医で、青嶺学園の理事としては最古参だった。「ごぞんじのとおり、この界隈は誰もが羨むような場所だし、とりわけ御池は白金のあたりで進む再開発の波にもさらされることなく、ひっそりとまるで別世界のような環境が保たれている。だから民度でいえば、日本でトップクラスだろうね。へんな人間なんていないさ。それに政財界の要人が多いから警察もふだんから手厚くパトロールしてくれている。治安は抜群だよ。だけどね、そうはいっても何にだって穴はつきものさ」門間はそこで言葉を切り、一同の顔を見回す。「ぼくみたいにここに長く暮らす者からするとね、どうしてあんなものがそばにあるんだろうって、つい考えてしまうんだよ。しかもおなじ町内、御池だ。それもよりによって学園の隣じゃないか。そのあたりのこと、警察はどう思っているんだろうね。理事長、なにか聞いていないかな」
 門間がなにをいいたいか、そこにいる誰もが気付いている。だけどそれは考えてはいけないことのように、すくなくとも静子は感じていた。しかし門間にそう指摘されると、どういうわけかそれが一番しっくりとくるようにも思える。
 あの病院だ。
 顎の下のぜい肉を揺らしながら門間は畳みかけてきた。「いかがわしい収容所から誰か出てきたんだろ。そうにきまってるさ。まったく恐ろしいったらない」
「すごいことおっしゃりますね」西原が眉をひそめる。「目撃情報でもあればべつですけど」
「いや、いつかこういうことが起きるとぼくは思っていたんだよ。ぼくも医者の端くれだから、いまのあの手の病院というのがどういう場所なのかわかっている。社会防衛の見地からすれば、この町にあんなものがあること自体、やっぱり問題だったんだ」
「門間先生のおっしゃる意見には、にわかには賛同しがたいのですが」岩井が怖々と告げる。「ただ、そんなようなこともふくめて親御さんの間には漠とした不安感が広がっているでしょうし、最悪の事態を迎えてしまったいまとなっては、疑心暗鬼は強まる一方かと」さすがは文科省のさまざまな審議会で委員を務め、テレビのワイドショーにもコメンテーターとしてたびたび登場するだけある。バランスの取れた真っ当な意見だった。
「そうよ。岩井理事のおっしゃるとおりよ」教育のことなんてなにもわからないくせに、美琴が尻馬に乗る。「学園としての責任を果たさないと」
「大切なのは」美琴に焚きつけられたかのように岩井が拳を握りしめる。「マスコミ対策でしょう。危機管理ということです。責任を回避するということではありません。きちんと責任を果たして、へんな不信感を持たれないようにするということです。そのためにはすべてを警察にまかせるのでなく、被害者の失踪前の行動について学園がどこまで把握していたかなど、適宜情報提供していく必要があるとわたしは考えます。記者会見を開いて」
 静子の体内で血が沸騰した。こっちは徹底的に情報管制をはかりたいというのに、会見だなんて。かっとなって声を荒げたくなるのを必死にこらえ、なんとか話の方向を変えようとつとめる。「そのへんは警察ともしっかり協議して進めたいと思います」
「精神病院から患者が出てきた可能性もあるけど、足もともちゃんと調べる必要があるんじゃない? だってレイプされていないんでしょ」美琴が知ったようなことを口にする。
「そこはまだわかりません。ただ、衣服は身に着けていて、乱れはなかったようです」
「それで首に絞めたような痕があったということは、性被害だけを念頭に調べるわけにいかないということでしょう。怨恨の線だってあるわ。女の子が誰かに恨まれるってどういうことかしらね。やっぱり交遊関係をよく調べるべきじゃないの。彼氏、そこまでいかずとも男友だちの線よ。こんなこといいたくないけど、派手に遊んでいる子も多いんでしょう、ねえ、理事長。読者モデルとかしている生徒だっているらしいじゃない。そういうのが一概に悪いとはいえないけど、危ういわ。危険と隣り合わせ。その意味では、学園の空気がすこしゆるんでいたんじゃないかしら」美琴は嫌味のようにいいたてる。
 読者モデルをしているのは、娘のナミだ。しかも西本佳奈とはクラスメートだったし、親友の一人であることは静子もよく知っている。だが佳奈が行方不明になって以来、誰よりも心配していたし、けさ、警察から入った連絡を真っ先に伝えると、わっと泣きだした。二人してクラブのような場所に出入りしたことが一度もないとは、母親としていいきることはたしかにできない。だがそれが今回の事件に関係しているなんて飛躍している。
「異性関係が引き金になったのなら」真っ黒に染めた豊かな髪に手をやりながらそれまで黙っていた理事が話しはじめる。地元の吹石建設会長で、衆院議員の吹石勝(ふきいし・まさる)だ。かつて与党幹事長も務め、ぎょろっとした目にたたえた光はエネルギッシュだ。今年ようやく五十歳になる静子と同年代に見えるが、じっさいはとっくに還暦を過ぎている。「たしかに学校の目が行き届いていなかったともいえそうですね。その点は重要だ。いまここで大事なのは、事実を見極めることと、そこに学園がどうかかわっているのかという点でしょう。さっき危機管理という話が出たけれど、たしかにそうなんだよ。その意味では、生徒たちがへんにかかわっていたら最悪だね」
「まったくそのとおりだと思います」慎重派の西原もうなずく。「その意味でもできる範囲で自主調査はしないといけませんね」
「それでね」吹石が魅力的な低音でつづける。「なにかあったときは、絶対に隠してはならないよね。隠していいことなんてなに一つないんだから」
 そんなことはわかっている。静子の脳裏を二十五年前の事件がよぎる。気を強く持たないと。静子は自信を持って吹石に向かって告げた。「情報は適宜、ご提供申しあげます。隠すつもりなんて毛頭ございません。ただ、その情報の出し方ですが――」
「そこは理事長一任でいいんじゃないかな」吹石が先にいってくれた。他のメンバーに有無をいわせぬ力があった。「われわれも職員も生徒たちも、それぞれが勝手な推測をあっちこっちで吹聴していたら、見つかるべき真相も見つからなくなるだろうからね」
 その言葉をもって緊急理事会を終えようとしたとき、外でわっと声があがった。
 静子は窓の外を見やった。理事長室の真下、中央校舎の玄関前に黒塗りのベンツがとまっていた。マイバッハだ。それだけで静子は誰がやって来たかわかった。後部ドアが開き、すらりと背の高いダークスーツの若者が降りて来る。集まった生徒たちの歓声が一気に高まる。在校生の遺体が隣接する土地で見つかったというのにこの始末か。学園の空気うんぬんをあげつらった美琴のいうとおりかもしれない。
「豊くんか」門間が首をかしげる。「どうしたんだろうな、よりによってこんなときに」
 静子のスマホにラインが入る。事務長からだ。
 街野さんがみえています。西本佳奈の弔問だそうです。
 五人組アイドルグループ「トレジャーズ」は十五年前に結成され、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を獲得し、活躍はアジア全域に広がっていた。いまも地上波キー局でグループの冠番組がゴールデンタイムに放送されているし、ライブもCD売り上げも好調だ。さらに三十歳前後となった個々のメンバーはそれぞれ番組を持ち、多彩に活躍している。そのなかの一人、ドラムス担当の街野豊(まちの・ゆたか)は御池の出身だった。自宅はいまも豊後坂を下ったすぐ先にある。そのことを生徒たちはよく知っているし、豊は生徒たちとふだんから身近に接し、言葉をかわしていた。学園にもしばしば訪れ、トークショーやミニライブを開いてくれている。きっとニュースを見て駆けつけたのだろう。
 理事会を閉会し、静子は一階に急いだ。色めきだった生徒たちをかき分ける。佳奈が街野のファンだったことはナミから聞いていた。街野だってそれを知っているにちがいない。
「理事長、このたびは――」背筋をのばしてから、青年は静子の前で深々と腰を折った。
「最悪の結果となってしまいまして……」静子は絞りだすように口にする。「街野さんにまで心配をかけることになるとは」
「とても驚きました。とにかくお悔やみだけ申しあげたくて。西本佳奈さんですよね。たいせつなファンの方の一人だったと記憶しております」
「こんなところではなんですから」静子はなかに入るよう街野をうながした。それに応じて職員が群がる生徒たちを押しのける。
 街野は車のほうを振り返り、わきにそっと立つおなじくダークスーツの中年男に向かって声をかける。「ヤシロさん、申しわけありませんが、ちょっと待っていていただけますか」
 運転手はこわばった表情で小さくうなずく。
 街野もうなずき返し、こんどは両手を合わせて告げる。「すこし時間がかかるかもしれませんけど。大事なお話なんで」


 ラインを一本送ってから街野豊は、バックシートに深々と身を沈め、シールドを張った窓からぎらつく太陽を見あげる。捜査状況がわかるかと思ったのだが、あのおばはんのところにもまだ十分な情報が入っていないようだった。下校後の足どりもわかっていない。逆にいえば、面倒な目撃情報もないということだ。
 すぐに返信が来た。
 ファンってのは恐ろしいんだな。
 守もおなじ見たてのようだ。でもおれが非難されるいわれはない。あのガキにはなにもしちゃいないんだし、地面に埋めるなんていうのは鬼畜の所業だ。
 ファンクラブの監視網は国家機関並みだし、一度火のついた嫉妬心はへいきで一線を飛び越える。一人だけいい思いをしている子がいるなら、徹底的に糾弾されるのがオチだ。あのガキがそうだったといってるわけじゃない。愛は平等にあたえていた。それが豊のポリシーだったが、ときとして多少の偏りは起こるし、事務所だって目をつぶってくれてきた。それにこの街はおれの地元なんだぜ。
 目黒通りに出て自然教育園の緑が輝いているさまを目にしたら、すこしばかり自信を取りもどすことができた。
 去年の暮れだった。
 白金の行きつけのハンバーガーショップから出てきたとき、制服姿のあいつとばったり顔を合わせた。向こうはテイクアウトを取りに来たのだ。知らない相手じゃない。青嶺の学園祭でゲリラライブを行ったときのスタッフだったし、ときどき近所で見かけていた。あの学校のなかでは比較的目立つ顔だちで、大人びた雰囲気があった。だからそのときも店の前で自然と言葉を交わした。まるでテレビ局のADと打ち合わせでもするかのように。そして焼き肉にかけるソースのことで盛りあがった。
 ひと月ほどして、猛(たけし)たちとマナーハウスでバーベキューをやったとき、インターホンが鳴った。昼下がりだった。モニター画面を見て猛も守も首をかしげたが、豊はぴんときた。ここでパーティーを開くと、あのとき口走っていたのだ。
 友だちがたくさん集まるんだ。歓迎するよ――。
 マナーハウスは、学園の正面を走る豊後坂とは反対側、学園の裏手に隣接している。隣接といっても熱帯植物園とか雑木林とか、めったに生徒も職員も訪れないところだから背の高いコンクリート壁一つ隔てれば、多少騒ごうが気付かれない。だから豊たち悪ガキ仲間の昔からの集会場だった。華族の邸宅として戦前に建てられた洋館で、石造りの三階建ての威容はまさに領主の邸宅だ。背の高い塀に囲まれた広々とした庭は、花見にもバーベキューにも、その他のありとあらゆるいかがわしい行為にうってつけだった。
 志田守(しだ・まもる)はこのあたりの物件を祖父の代から手掛ける不動産屋で、どんな方法を使ったのかわからないが、父親の代のとき、この建物を手に入れた。いまでは守が自宅として使っている。不動産売買に関する守の商才はピカイチで、まだ三十歳だというのに安く手に入れて高値で売り抜ける商売の大原則を外したことがなかった。カネ回りは豊もうらやむほどで、自己資金でせっせとマナーハウスの内部を改装し、前衛的なホテルみたいなものに作り替えていた。
 クソ寒い一月の真っただなか、自慢の庭でばんばん火を焚いていた。たしかに人手はあったほうがよかった。複数の知人に声をかけたのはうそじゃないが、反応がイマイチでその場にいたのは、豊と猛と守、それに守が連れてきた水商売のねえちゃん三人だけだった。
 まさか本気にするとは思わなかったが、追い返すわけにもいかない。猛たちにしたって、西本佳奈のことは知っていた。豊の家からは、豊後坂を下ってバス通りを渡ればすぐのところに佳奈は住んでいた。その意味ではホステス三人衆をのぞけば、みんなご近所さんだし、猛なんて、代議士である父親の秘書をしている関係上、将来の選挙民をむげにはできなかった。
 たらふく肉を食らい、酒を飲んだが、もちろん佳奈はずっとソフトドリングだった。豊が芸能界のウラ話を語ると、目を丸くして聞き入っていた。自分では家庭の話を切りだし、父親が単身赴任中だから、母親と二人暮らしだとかいっていた。冬だから陽が落ちるは早い。あっという間に暗くなり、五時にはパーティーはお開きとなった。
 それだけだ。
 豊は手を出さなかった。事務所が頭を抱えるほど、だらしない下半身の持ち主だったが、どういうわけか佳奈に関しては、自分のなかの性能の悪い警報器がめずらしく作動し、ときどきショートメールでやり取りする程度にとどめていた。その点はいずれ警察も把握し、事情を聴かれるかもしれないが、後ろめたいことはなに一つないから心配はない。
 一週間前のあの晩までは。
 豊はデビュー前の合宿生活をしていたころに思いをはせた。あのころは、先輩たちの出演番組を録画するのが仕事だった。あとはできるだけたくさんの女の子とセックスすることしか考えていなかった。だからはじめて先輩のステージでバックダンサーに選ばれたときは、有頂天になった。これでファンの子たちに顔と名前を覚えてもらえるし、その後、自分たちのグループを作ってもらってCDデビューまでしたら、もうより取り見取りだ。十代半ばの記憶だ。それがものすごく遠くに感じられた。たまらず後部座席から体を起こし、特注の冷凍庫に手をのばす。
 舌打ちして吐き捨てる。「おい、なんだよ」
 首都高にあがったところだった。きょうは湾岸スタジオで打ち合わせがある。ハンドルを握る屋代には遅れないよう急がせていた。その運転手の肩が電気でも走ったかのようにびくんと跳ねあがる。
「すみません……いかがされましたでしょうか……」かすれ声で訊ね返す。
「いかがされましたじゃねえだろ! このボケ!」豊は猛り狂った。「なんで補充してねえんだよ、モナカアイス! パルムもねえじゃねえか! 空っぽじゃねえか!」
「すみません……先ほど召しあがられてから、まだ買っていませんでした……」
 ドスッという低い音が車内に響き、屋代は難を逃れるようにハンドルにしがみつく。それを逃すまいとするかのように豊はもう一度、運転席の背中に蹴りをぶちこむ。
「買っとくのがおまえの仕事だろ。さっきあんなに時間があったんだし」
「いえ……いつおもどりになるかわからなかった――」
「うっせえよ! だいたいモナカもパルムもけさ、なくなりそうなら、その時点で補充しときゃいいだろ。サボりやがって」豊はミラノで買った黒革のバッグからコーラを取りだし、あおった。盛大にゲップをしてからこんどは声を潜め、ねちねちとやりはじめる。「おまえさあ、よくそんなんで給料もらえるよね。運転手ってさ、車転がしてるだけが仕事じゃないでしょ。マネージャーにいうよ、マジに。いや、専務にいうよ、あの人、そういうのにうるさいから。おれがこれで喉つぶしでもしたらどうすんのよ。代わりにおまえがやるの? いやいや、そいつは無理でしょ。もうこきたないオッサンなんだから。だからさ、立場をわきまえなよって。ほかに仕事ないから雇ってやってるんじゃん。なんでそれがわからないの? ほんと、バカなんじゃないの、おまえ」
 そのとき電話がかかってきた。
 専務からだった。
「もしもし、おつかれさまです」豊は人が変わったような明るい声音になる。
「いま、だいじょうぶか」専務はいつもながらの淡々とした事務的な口調だった。「急な話ですまんが『マチノゾミ』の打ち切りがきまったそうだ。いま、局から連絡があった」
 体から血の気がひく。「街野豊のマチノゾミ」はメトロFMで七年続く豊の冠番組だった。スマホを握りしめ、聞き返す。「打ち切り……ってどういうことッスか」
「週刊サテライトは読んだかな」
「サテライト……なんでしたっけ? まだ読んでいませんが」
「きのう発売なんだが、ライブ先の仙台でのきみの未成年淫行疑惑が出ている。おとといの晩、サテライトの編集部から事実確認の電話が入ったんだ。もちろんこっちは全面否定したよ。きみにいちいち問い合わせなかったのは、聞いたところでなんの意味もないからだ。向こうはこっちの返事がどうであろうと、出すものは出してくる。それがこの結果だ。サテライトの記事だけでもこれで三度目だよね。『マチノゾミ』のスポンサー、高校受験の予備校なんだよ。知ってるよね? さすがに看過できないって話になったんだ。そりゃ、局側も抵抗できないよ」
 どんな疑惑か訊ね返すのも愚だった。仙台ライブは二か月前のこと。仕事のあと、トレジャーズのメンバーとは別行動を取り、地元の友人たちと飲みに行った。個人的には地方で味わう最高の夜の一つだった。「未成年だとは知らなかったんス」
「こないだもおなじことをいったよね、きみ。おなじことを繰り返したくないのなら、年齢を確認すればいいじゃないか。免許証でも見せてもらって。それができないのなら、その場からすぐに帰って来ないと。たしかそんなようなことをこないだも約束したと記憶しているんだけどね。ちがうかな」
「すみません。ちょっと酔っていて……」
「それは理由にならないよね、きみ。ほかのメンバーは誰も問題を起こしていない。どうしてきみだけなんだろう。もしかして、いま湾岸スタジオに向かっているのかな」
「はい、遅れないよう急いでます」
「だいじょうぶだよ、心配はいらない。きょうの打ち合わせは中止になった」
「え……」
「理由はおなじさ。せっかくのレギュラー番組だけど、この先の出演は見合わせだそうだ。うちとしても文句はいえなかった。だからきょうはもう帰っていいよ。オフだ」
 電話は切れた。
 車はレインボーブリッジを半分以上、渡っていた。屋代は恐怖に駆られながらもずっと聞き耳を立てている。
「おまえ、なに聞いてんだよ!」ふたたびシートの背中を腹立ちまぎれに蹴りつける。
 運転手はじっと耐え、時が過ぎるのを待っている。それがまた豊の怒りに火をつけた。「このクソじじい!」運転席に身を乗りだすや、薄くなりかけた屋代の髪をつかみ、ハンドルに顔面を叩きつける。それに驚いたように車が一瞬ふらつく。「おまえみたいな田舎者のなさけない野郎が一番キライなんだよ! ビクついて顔色ばっかりうかがいやがって!」
 ラインが着信した。
 息を喘がせながら豊はバックシートに沈み、スマホをチェックする。
 守からだった。
 時間あるなら打ち合わせできるか。例の件で。
 豊は窓を全開にし、潮風を顔いっぱいに浴びる。車はそのまま台場出口を降り、信号で停車する。憎悪と困惑の色がバックミラーに映る運転手の目に浮かんでいる。豊はさらなる怒りをどうにか抑えつけ、屋代に申しつける。「おまえ、ここで降りろ」
「え……」さすがに屋代は声に出した。「ここでですか……」
「そうだ。早くしろ」豊のほうは早くもドアを開け、外に出ていた。運転席のドアハンドルをつかんで引き開け、なかば引きずりだすように運転手を降ろすと、入れ替わり自分がシートに収まった。信号が変わり、あとは無言のまま走り去った。
 後続車のドライバーがそのようすに当惑している。屋代はそちらに向かって小さく会釈し、歩道のほうへ逃げるように走りだした。


 輝けるマリアは昏き淵に沈み、
 永遠の呪いが地上を覆った。
 暗黒が憎しみという憎しみを育み、
 真っ黒いイバラの王冠とともに降臨したおれは、
 緑の丘に腐臭漂う悪という悪をはびこらせた。
 そこに暮らす者どもは、抗いがたくその浸食をこうむり、
 正義の刻印は吊るしあげられる。
 かくて狂った魔獣たちが跋扈し、
 おれはおまえの心臓を食い尽くす。
 聞くがよい、己の叫びのかくも弱々しきことを。
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