前編
文字数 2,913文字
その日の放課後、晶が音楽室を覗いてみる気になったのは、漏れ聴こえてきたピアノの演奏がきっかけだった。
勿論、これまでにも、音楽室の近くを通る際には、嗜み程度のピアノの演奏を耳にすることは、何度かあった。
けれど、演奏者に興味を持つまでには至らなかった。
何故ならば、楽譜通りに弾きこなすだけであれば、ある程度のピアノの腕を持っていれば、誰にでも出来ることだからだ。
そうして、そういった退屈極まりない演奏は、晶にとって、机を指差して、これは机ですと言われているようなものだった。
これはドビュッシー作曲の月の光という曲です。
これはラヴェル作曲の水の戯れという曲です。
これはショパン作曲の雨だれという曲です…‥。
ところが、その時聴こえてきたピアノの演奏は、これまでに耳にしたことのあるそれらとは、明らかに違っていた。
曲目は、ベートーヴェン作曲の交響曲第五番(運命)であるように思えた。
何故断定出来ないのかと言うと、元の曲を大胆に崩して、ロック調にアレンジされていたからだ。
その型破りな演奏を耳にした時、晶は全身の血液が沸騰して、踊り出しそうなほどの興奮に包まれた。
そして、楽曲という物は、飽くまでも一つの道具に過ぎず、演奏者はその道具を用いて、自己を自由に表現していく必要があるのだと気付いた。
そうでなければ、結局は単なる楽曲紹介で終わってしまい、聴く者の心を打つことはない。
思わず急ぎ足になった晶が、音楽室の入口に辿り着いた時には、鍵盤を叩き終わった後の残響が、余韻として漂うばかりだった。
何しろ、たった数分の間に、極限まで駆け昇るような、疾走感溢れる楽曲なのだ。
まだ鼓動が興奮気味に跳ね上がるのを心地好く感じながら、晶は思い切って口を開いた。
「今の曲、きみが演奏してたんだよね?」
ピアノの前に座っていたのは、如何にも繊細そうな風貌をした少年だった。
それこそ自ら選曲をするとしたら、ベートーヴェンが作曲したダークでハードな曲などではなく、モーツァルトが作曲したブライトでソフトな曲を好んで選びそうだった。
ましてや小煩いロックなど、最初から聴く耳を持たないとでも言いたげな、澄ました顔をしている。
肩の辺りまで伸ばした長めの髪を、襟足で一つに束ねていた。
彼は、軽く微笑むと、答えた。
「そうだよ。もしかして、気に障ったかな?
生真面目なクラシックファンだと、名曲を汚すなと言って、怒り出す奴もいるからね」
「気に障っただなんて、とんでもないよ!
寧ろ、演奏が無茶苦茶格好良くて、もっと聴きたいと思って、飛んできたんだ。
‥…今の曲、最初から聴かせてもらえないかな」
「最高に嬉しいことを言ってくれるね。
でも、ごめん。
今日はもう帰らないといけないんだ」
少年は立ち上がると、ピアノの譜面台に広げていた楽譜を片付け始めた。
しかし実を言うと、晶は彼の名前を知っていた。
彼は竹光という名で、蔦彦と同じクラスであり、親しい友人同士でもあった。
よく一緒にいるところを見掛ける。
「そうか‥…。残念だな」
晶は呟くようにそう口にしながら、ピアノに近付き、帰り仕度を進める竹光の手許を、何気なく眺めた。
すんなりと伸びた、長い指の持ち主だ。
果たしてその長さは、遠くの鍵盤を求めて練習を重ねるうちにそうなったのか、それとも優秀な遺伝子を受け継いだからなのか。
恐らく両方なのだろう。
楽譜を入れて持ち歩く専用だと思われる薄手のバッグは、マットな質感のインディゴブルーに仕上がっていた。
そこにぽっちりとした白銀色の煌めきを発見して、晶は何故だかどきりとした。
それは、蔦彦が帽子に付けていたピンバッジと、そっくり同じデザインの物だった。
改めてよく観察してみると、羽根の質感や、その重なり具合など、細かい部分まで丁寧に彫り込まれている。
その見事な出来映えに感心するのと同時に、軽い嫉妬心が芽生え始めたことも自覚していた。
蔦彦と竹光は、晶が思っている以上に、親密な間柄なのだ。
音楽室に設置してあるグランドピアノの古さを物語るのは、傷だらけでくすみがちな黒檀の鏡面や、黄ばんだ白鍵などだった。
竹光は、その古惚けた鍵盤の上に、フェルト製の真紅の細長い布を丁寧に伸ばして被せると、繊細な硝子細工を扱うような慎重な手付きで、蓋をそっと閉めた。
その仕草の一つ一つに、老体に鞭打って演奏させてもらったことへの感謝、そして、次に演奏させてもらう時まで、安らいで休息出来るようにとの祈りが込められている気がして、晶は声が掛けられずにいた。
だから、竹光が、通学用のリセバッグと楽譜入れに手を伸ばした時、漸くのことで、口を開く機会を得たと思った。
「また近いうちに、聴かせてもらえるかな」
しかし、竹光から返ってきた返事は、期待を大いに削がれるものだった。
「そうだな‥…。まあ、気が向いたらね」
竹光は、一纏めにした荷物を、肩先でひょいと持ち上げると、その後ろ姿を晒したまま、軽く手を振ってみせた。
そうして一度も振り返ることなく、立ち去っていった。
期せずして、音楽室に取り残されてしまった晶は、俄に居心地の悪さが襲ってくるのを感じた。
ピアノは、竹光が演奏していた時には親しさを見せていたのに、今では掌を返したように余所余所しい物体に様変わりしていた。
それと同時に、壁に掲げてあるバロック音楽の巨匠達の似顔絵が、無言で凄みを利かせているような威圧感も感じた。
そうして老いぼれたピアノから、厳めしい声で、ここはお前のいる場所ではない、早々に立ち去れと言われた気がして、晶はすごすごと音楽室から退出したのだった。
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それからの一週間というもの、晶は意識的に音楽室の近くを通り掛かるようにはしていたが、そこから漏れ聴こえてくるのは、型通りの退屈なピアノ演奏ばかりだった。
この調子で竹光が気紛れを起こすのを待ってばかりいては、あの類い稀なる演奏を聴けるのは、いつになるのか分かったものではない。
とうとう痺れを切らした晶は、隣のクラスへ偵察に向かうことにした。
けれどもそうは言っても、蔦彦に竹光の近況を伺いに行くだけだ。
何故ならここ最近、竹光の姿自体、目にすることはなかったからだ。
そこで、彼と仲の良い蔦彦ならば、何か事情を知っているに違いないと見当をつけたのだった。
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・・・ 少年宇宙へようこそ~音楽に潜む宇宙〈中編〉~へと続く ・・・
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