中編
文字数 3,155文字
その日は、明け方から雨が降り続いていた。
いくら野性児の蔦彦でも、こんな日は流石に、菩提樹の樹の上にはいないだろう。
そこで、他に蔦彦が好みそうな場所を、幾つか思い巡らせてみる。
古びた書物の匂いが充満している図書室。
怪しげな薬品の匂いが染み付いている、理科の実験室。
黴臭い緞帳が濃い影を落とす、講堂の一隅。
そうこうしているうちに、最も適切な場所が思い浮かんだ。
それは、校舎の裏手に位置する、今はもう使われていない温室だ。
あそこなら全面硝子張りだから、雨粒が落下していく様子も、屋根を叩く雨音のリズムも、手に取るように観察出来る。
そうして蔦彦はいつも、季節の移り変わりを感じ取れるような場所に出没する。
雲の大陸が移動していく速度、さざ波のようにも聴こえる樹々の葉擦れの音、湿った土から立ち上ってくる、仄かに甘い香り。
昼休みになるのを待ち兼ねて、晶が温室に出向いてみると、果たして蔦彦の姿はそこにあった。
三段仕立てになっている木製の花台には、白いペンキが塗られてあり、彼はその下の段に、左足を投げ出して腰掛けていた。
そうして、立てた右膝の上に右肘を付き、その腕で目を閉じた頭を支えていた。
硝子張りの屋根を濡らす雨音は、静けさを優しく際立たせていた。
そして、疾うの昔に枯れた筈の花々の香りが、乾燥した甘さとなって、そこはかとなく漂っていた。
それから、硝子張りの壁面の一部には、蔓性植物の茎が食い込み、そこから亀裂が蜘蛛の巣のように広がったままになっていた。
晶は、おずおずとした態度で、そろそろと窺うように口を開いた。
「蔦彦、昼寝の邪魔してごめん。
折り入って、訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
蔦彦は、まず右目だけを開いて、闖入者の姿をちらりと確認すると、億劫そうに両目を開けた。
そうして、晶の方を不機嫌そうに見上げた。
「誰か優秀な探偵でも雇ってるのか?
よく僕がここにいるって分かったな」
晶は苦笑すると、蔦彦の隣に腰を下ろした。
「だから、ごめんって謝ってるじゃないか。
僕だって、なるべく邪魔したくなかったけど、竹光のことだったら、蔦彦に訊くのが一番いいと思ったんだ。
同じクラスだし、仲良いだろう?」
「‥…まあ、他のクラスメイトと比べたら、よく話す方ではあるかな。
でも、何で竹光のことを、晶が知りたがるんだ?」
「実はこの間、音楽室の近くを通り掛かった時、彼のピアノ演奏が聴こえてきたんだ。
それが無茶苦茶格好良くて、もう一回最初から聴きたいってリクエストしたんだけど、時間がないからって断られたんだ。
それ以来、音楽室ではおろか、学校でも姿を見掛けなくなってしまってさ。
一体どうしたんだろうって、ずっと気になってたんだ」
「ああ、そういうことか。
竹光なら、多分、当分戻らないぜ。
あいつは今、ご両親に付き添われて、優雅にヨーロッパ旅行の真っ最中だからさ」
「ヨーロッパ旅行だって!?
まだ学期の途中じゃないか」
「そうだけど‥…親父さんの方針らしいよ。
竹光の父親って、世界的に有名なオーケストラの指揮者なんだ。
だから、ヨーロッパツアーが始まると、一人息子の目と耳を肥えさせるために、同行していくそうなんだ。
そのせいで少しくらい学校の勉強が遅れようが、お構い無しなんだよ」
晶は、竹光が当分の間、学校に戻らない理由を知ると、がっくりと肩を落とした。
「そういうことだったのか‥…。
それじゃあ、まだ暫くは戻ってこないんだな」
「残念ながら、そういうことだな。
それにしても、竹光のピアノ演奏を学校で聴けたのは幸運だったな。
あいつ、講堂や音楽室に置いてあるピアノは、調律が狂ってるからって言って、滅多に弾かないんだ」
それは、いかにも竹光が口にしそうな台詞だった。
晶は内心、可笑しくて仕方がなかった。
「へえ、そうなのか。
僕はてっきり、蔦彦だったら、竹光のピアノ演奏をしょっちゅう聴かせてもらってるのかと思ってた」
「そうだったらいいんだけどね。
僕も、たまにしか聴く機会はないな。
そもそも竹光はさ、練習用の演奏を、他人に聴かれるのがあんまり好きじゃないんだよ。
その癖、あの通り気紛れだろう?
一旦気が向けば、音楽室に置いてあるピアノだろうとこだわらず、想いを込めて弾いたりする。
ただ、困るのは、何が引き金になって弾く気になるのか、分からないってことなんだ。
僕は、そこそこ付き合いは長い方だけど、未だに謎の部分が多いんだよな」
「謎めいた天才ピアニストってわけか。
でも、本当に、竹光が弾く気になる壺を押さえることが出来れば、CDみたいに、好きな時に自由自在に聴けるのにな。
その魔法の壺は、一体どこにあるんだろう?」
晶のその言い様が、あまりにも切実に聞こえたためか、蔦彦は弾かれたように声を上げて笑った。
そしてその時、少し離れた校舎の方から、昼休みの終了を告げる鐘の音が聞こえてきた。
それは蔦彦の笑い声と絶妙なハーモニーを奏で、祝福の鐘のように響き渡った。
晶は名残惜しそうに立ち上がると、半ズボンに付いた砂を払いながら、温室の出入口へと向かいかけた。
ところが、蔦彦は再び瞼を閉じ、悠長に昼寝を決め込む構えだ。
「蔦彦、戻らないのか?」
「午後一の授業は自習なんだ。
もう少し、ゆっくりしてから行くよ」
蔦彦はその姿勢のまま、軽く手を振ってみせた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
竹光がヨーロッパを周遊している間も、晶は音楽室の近くを経由してから、帰途に着いていた。
何となくそれが習慣になってしまったのだ。
それに、その頃には期待する気持ちなど、とっくに錆び付いてしまっていた。
それほど竹光の不在は長引いていたのだ。
だから、その日の放課後も、心身共に軽い気怠さを抱えたまま、何の気なしに音楽室の近くを通り掛かった。
その途端、全身の血液が活気を取り戻して勢いよく駆け巡り、魂が喜びに震え始めた。
その時音楽室から漏れ聴こえてきたピアノ演奏は、間違いなく竹光のそれだった。
楽曲を完全に自分の表現として変換し、遊ぶように自由に弾きこなしている。
その型破りな演奏は、華麗としか言い様がなかった。
その時響いていた楽曲は、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』のテーマ曲だった。
その遊び心のある選曲のセンスにも、竹光らしさが窺えた。
そしてその一曲の中には、海賊達の冒険と戦い、情熱とユーモアなどが軽快に溢れ、美しい音符で綴られた豊かな物語が、ドラマチックに展開していった。
楽曲が最後の大団円を迎えるまで、晶は音楽室の外壁に寄り添い、じっと耳を傾けていた。
練習用の演奏を、他人に聴かれたくないであろう竹光を慮ってのことだったが、どうしてもそのまま素通りすることが出来ずに、ゆっくりと拍手をしながら、音楽室へと足を踏み入れた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
・・・ 少年宇宙へようこそ~音楽に潜む宇宙〈後編〉へと続く ・・・
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