後編

文字数 3,045文字





 竹光は涼しげな我が物顔で、ピアノの前に陣取っていた。

 晶に気付くと軽く微笑み、小さく頷いてみせる。

 「素晴らしい演奏だったよ。

 聴くだけ聴いて、帰ろうと思ったんだけど、どうしても感想を言わずにはいられなかったんだ。

 やっと、日本に帰ってきたんだね。

 こんなに早くから広い世界を見て回れるなんて、羨ましいな」

 「そういうものかな。

 僕にとっては、小さい頃からそれが日常だったから、特別なことではなくなってるんだけどね。

 寧ろ、僕からすると、落ち着いて学校生活が送れて、仲の良いクラスメイト達と、どんなにささやかな想い出でも共有出来るって、羨ましいと思うけどな。

 僕みたいに、三週間も学校を離れていると、戻ってきた頃には、すっかり異邦人さ。

 クラスメイト達との会話に、全然ついていけなくなってる。

 時々、自分の居場所がどこにもないような気がすることもあるよ」

 寂しげに微笑する竹光を前にして、晶は何と答えたものやら、言葉に詰まった。

 同じ年頃の少年同士でも、身を置いている世界があまりにも違い過ぎた。

 暫しの間流れた沈黙が、晶の戸惑いを物語っていた。

 竹光は気を取り直したように、別の角度からの話題を持ち掛けた。

 「僕が留守にしていた間、学校ではどんなことがあったんだい?

 きみが知っている範囲で構わないから、教えてくれないかな」

 晶は再び返答に窮した。

 取り立てて話すことなど特に思い付かない、ごく平穏な日々だったからだ。

 学校の行き帰りに包まれる、空が織り成す美しいグラデーション。

 穏やかな風が運んでくる、金木犀の印象的な香り。

 華やかな秋の衣装に衣替えを始めた銀杏の樹々。

 小首を傾げるように風にそよぐ、可憐なコスモスの群生。

 水煙が上がるほどのどしゃ降りの中を、自転車を飛ばして、家まで帰り着いた日。

 少年達の心を擽(くすぐ)るセンスの良い品々を取り扱う雑貨店である『銀の風』に新しく入荷した、洒落た外国製のポストカードや、色とりどりのマーブル玉。

 クラスメイト達との何気ない会話や笑い声。

 美術の教師が質の悪い風邪を引いて、三日間寝込んだこともあった。

 そんな細々としたごくささやかな出来事は、言葉にする前に、日常という名の大海の中に、溶けて消え去っていくものだ。

 それらを敢えて言葉として表現してみたところで、実際の体験とは一ミリでもずれていれば、全く違った出来事として、伝わってしまうことになる。

 結局のところ、自分にとっての真実の体験とは、言葉とは容易く交換の出来ない、胸の奥にある神聖な領域で、感じ取るものなのだ。

 それでも、人は人と繋がるために、何とか言葉という道具を駆使しようとする。

 その体験を伝えるために、最適だろうと思われる言葉のピースを、迷いながらも当て嵌めていく。

 「僕の、ごく個人的なニュースになっちゃうけど、それでも構わないのかな」

 「ああ、勿論。聞かせて欲しいな」

 「じゃあ、ここ三週間の、僕にとってのベストスリー。

 まず第三位は、大好物のパンプキンプディングを、弟と分け合っても、お腹一杯食べられたこと。

 母親が分量を間違えて、大量に作っちゃったからなんだ。

 それから第二位は、林の中に散策に行った時に、カケスの羽根を拾ったこと。

 まだ抜け落ちたばかりの、ピカピカでしゃんとしたヤツだったんだ。

 そして第一位は、久しぶりに家に遊びに来た叔父さんから、野又穫(みのる)の画集を買ってもらったこと。

 ずっと欲しかったヤツなんだ」

 竹光は、楽しそうに頷きながら、耳を傾けていた。

 「それからね」

 晶はそう言葉を続けたが、そこで少し言い淀んだ。

 そうして、竹光の反応を窺うようにして、おもむろに口を開いた。

 「僕にとってのワーストワンっていうのも、あったりするんだよ。

 それはね、これまでの人生の中で、きみのピアノ演奏を聴けたのは、たったの二回だってこと。

 さっき、自分の居場所がどこにもないような気がするって言ってたけど、それはとんでもない思い違いだよ。

 少なくとも、僕はきみが帰ってくるのを、首を長くして待ち侘びていたんだ。

 きみがピアノを演奏している時には、これまでの体験が、全て惜しみなく表現されているんだなって思う。

 それを素晴らしいと感じるってことは、僕がきみの全てを受け入れているってことになると思うんだ。

 ‥…上手く言えないけど、居場所って、学校とか家とか、そういう所だけを指すんじゃなくて、誰かの心の中も、それに含まれるんじゃないかな」

 竹光は、不意を突かれたように息を呑むと、両目を大きく見開いた。

 それから急いで後ろ向きになると、両手で顔を乱暴に擦り始めた。

 「‥…竹光、大丈夫か?」

 不審に思った晶がそう声を掛けると、竹光は大きく深呼吸を一つしてから、再び正面に向き直った。

 「ああ、何でもない。

 実を言うと、ピアノに触るのは久し振りなんだ。

 だから指慣らしのために、他にも何曲か弾こうと思ってるんだけど、せっかくだからリクエストを受け付けるよ。

 何か聴きたい曲はあるかい?」

 竹光の目尻には、拭い切れなかった涙の粒が光っていた。

 それが感じ取れるからこそ、今の言葉は照れ隠しのようにも思えたが、晶にとっては願ったり叶ったりの展開だった。

 「そう来なくちゃ!

 まず何よりも聴きたいのは、ベートーヴェンの交響曲第五番だよ!

 三週間前に一度聴いてから、通しで聴きたいと思っていた、念願の曲なんだ」

 竹光は、笑顔で大きく頷いてみせた。

 それから譜面台に広げてあった楽譜を片付けると、それを薄手のバッグの中に仕舞い、代わりに別の楽譜を準備し始めた。

 そのインディゴブルーの薄手のバッグには、三週間前に見た時と同様に、白銀色のピンバッジが、アクセントとして煌めいていた。

 けれども、晶の心の中は、不思議なくらい落ち着いていた。

 竹光は、楽譜を見やすいように整えると、気持ちを落ち着けるかのように、椅子にきちんと座り直した。

 そうして、鍵盤とペダルに、それぞれ指と足を軽く乗せる。

 いよいよ演奏が始まる直前の、心地好い緊張感が漲り始める。

 晶は、どくどくと高まっていく心臓の音が漏れ聴こえはしないかと不安に駆られた。

 遂に楽曲を構成する最初の音が、竹光によって奏でられた瞬間、晶の全ての感覚は、激しくうねるような音の波の中に、忽ちのうちに呑み込まれていった。

 今から約二百年前に、ベートーヴェンによって作られた楽曲と、竹光による型破りな演奏技術が当世で巡り逢い、全く新しい手触りの音楽が構築されていく。

 そうしてそのエキサイティングに躍り狂う音の波は、約六十兆個の細胞の中を、どこまでも自由に、マッハの速度で駆け巡っていく。



 ~~~ 完 ~~~


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