第2話 春宵の夜寒

文字数 754文字

○明治38年4月、東京市三ノ輪

 松之助(31)は、すでに両親はなく東京市の三ノ輪で、魚屋を営む三十路男である。

 毎日、隅田川の河岸に出ては、魚を仕入れ、これを捌いて、棒手振りでその日暮らしをしている。

 「ああ、俺にも女房が居たらなあ」、鮒の甘露煮など手がかかる品は、それなりの値で売れる。売れ残った魚も手を加えれば、それなりに日持ちもしよう。

 松之助にはこれと言って楽しみはないが、浅草の寄席にたまに出向くのと俳句を嗜む事を趣味としている。

 「へたの横好き」というのが、彼の口癖だが、なけなしの余銭を持って上野で俳書の古書を買うのが彼の楽しみである。

 その古書がいつしか山積みとなり、彼の四畳半は一杯になった。彼は、その山の谷間で毎日寝ている。「これじゃ、若い女は来てくれないな」、彼は半ば諦観している。

 その夜、近所の古道具屋で買った古時計がボーンボーンと鳴り、松之助は起こされた。
「はてな、こんな仕掛けがあったかな」松之助は不審ながらも半身を起した。

 それは、夜中の丑三つ刻であった。

 松之助は、浄閑寺の住職から聴いた明暦の故事が脳裏に浮んだ。

 それにしても俳句の極意とは一体なんであろうか?それは、人間の死ではなかろうか?それこそが、侘び寂びではなかろうか?

 一介の魚屋に分かろうはずもない。
 
 一句浮かんだ。
「投げられて 振り返られず 春の宵」
魚を包むザラ紙にこれをなけなしの万年筆でさらさらと書いて壁に貼り付けてみた。

 「ありがとありんしゅ…ありがとう」
 松之助は、若い女の声を聴いた心地がした。
 振り返ってみても居るはずもない。

 松之助は、急に睡魔に襲われた。春の暁は心地良く、その朝は河岸の仕入れに出遅れたが、馴染みの女将が魚をとっていてくれた。
「寝坊したんだろ」、女将はニコニコしていた。

 
 
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