第1話 ももんじ屋

文字数 1,556文字

○明治10年1月新春、東京市深川「ももんじ屋」

 鹿児島県(旧島津藩)出身の中薗瑛一(19)は、東京に上京し東京医学校に通う医大生、深川の薬食い「ももんじ屋」の2階に下宿している。

 「失礼します」
 下宿先の娘、ツネ(16)が三つ指をついて雑煮を瑛一の部屋に持って来た。

 「鏡開きの日なので、神棚から鏡餅を下げて雑煮にしました。ちょっとアオカビ臭いかも」
 ツネが、チロと舌を出して微笑んだ。

 瑛一は、どてらを着て火鉢で暖をとりながら、英書の解剖学の本と辞書を片手に格闘している。
 「ああ、そこ置いといてくださいね。後で、いただきますから」
 瑛一は、ツネが眼中に無いようで上の空だ。

 ツネは、瑛一の存在が気になってしょうがないのだが、瑛一は舶来書に夢中になっているので、ろくに相手もしてもらえず面白くない。

 「今度ね、お父さんお母さん、それからお客さんとね、みんなで秩父の三峯さんにお参りに行くの。一緒に行かない?」

 「….何の為に?」
 瑛一が、英書から目を挙げツネの方に向き直った。
 ツネは、急に踵を返した瑛一に驚いたが、自分に正体している瑛一の態度が嬉しかった。

 「何の為って…ヤマトタケルの神様の眷属は、オオカミでしょう。そのオオカミに狐狸の祟りを祓ってもらうんじゃない。違う?」
 ツネが小首を傾げて、瑛一を覗き込んだ。
 
 「狐狸の祟りを祓うとどうなる?」
 瑛一の双眸に真剣な光りが宿った。

 「決まっているじゃない。労咳がこの世から無くなるわ。労咳は、風魔といって狐狸の祟りなんだって、この先の良庵先生が言ってたわ」
 ツネは、持って来た雑煮が冷めるのを気にしながら、田舎者の書生を思いやった。

 「ぷっぷ」
 瑛一は、さも呆れたかのように吹くと、雑煮椀の盆をさっと掬い取り、自らの机に載せると、ツネに背を向けまた英書を見出した。
 
 「良庵は藪医者だ。否、それは語弊がある。漢方医に労咳は治せんのだ」

 ツネは、瑛一の高飛車な物言いに腹が立った。
 「良庵先生の所はね、江戸の寛永から代々続いた漢方医なのよ。ここの薬食いだってね、先生の指導の元にやってるんだから」

 「山鯨には、タンパク質が豊富に含まれてるからね。患者が体力をつけるには、確かに役立つけれど、治りはしない」
 瑛一は、独り言のようにぶつぶつと呟いた。

 「なっ、何よ、そのわんぱく質って?」
 ツネの血液が逆流し始めた。

 「豆腐や納豆にも含まれている、プロテインの一種でね..」
 瑛一は、何喰わぬ風情で英書をパラパラとめくっている。

 「まあ、ウチが豆腐屋と一緒だなんて!お母さんに言いつけてやるんだから」
 ツネは、何かに対して必死だ。

 瑛一は、ツネの怪気炎には無関係という風情で、
 「今に、顕微鏡というものでね。労咳患者の痰から、労咳の病原菌みたいなものが発見される。その特効薬もね、意外な所からできるかもしれない…例えば、この餅にこびりついたアオカビの様に」
 瑛一は、アオカビがかすかについた煮餅を箸でつまみ揚げると、それを口に含んで微笑んだ。
 「風魔は、迷信さ」

 「どうして瑛一さんは、そう朝から晩まで本ばかり読み耽っているんですか?東京には、もっと面白いものが沢山あるのに」
 ツネは、瑛一と浅草の仲見世を一緒に歩く情景を夢想していた。

 「僕はね、島津の藩医だった家に生まれた。でも、もう漢方医に頼る時代は終わった。これからは、西洋のイギリス式の医学が主流になる。
 僕の学費だって、一族郎党から掻き集めてやっと工面したんだ。 
 だから、遊んでいる暇などないのさ」
瑛一は、英書から目を離さずにぶっきらぼうに応えた。

 「もうっ、瑛一さんなんか知らないっ!」
 ツネは、怒りで顔を真っ赤にするとすっくと立ち上がり、障子をピシッと閉めて階下に降りて行った。
 
 
 

 

 

 
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