一枚目
文字数 3,191文字
なんでこんなことになっちまったのかなぁ。
電気の止まった店内。
ホコリ臭い床に座り込んで、窓から入る薄光に手をかざす。
長い年月、粉と麺棒と格闘して来た節くれ立った手。
シワのひとつひとつに見馴れた蕎麦粉の色が染み付いている。
生まれた家庭には恵まれなかったが、『人』には恵まれたと思う。
どうしようもない悪ガキを拾ってくれた蕎麦屋の師匠と女将さんには、本当に感謝している。
何度も逃げ出そうとした自分を見捨てる事なく真剣に向き合い、一人前に育て上げてくれた。
学歴ハンデを卑屈に思っていた自分に、「日々実直に努力していればお
お陰で周囲より多少早くに独立し、自分の店を持つことが出来た。
出店に際し、師匠は馴染みの客を大量に紹介してくれ、少ししてから故郷の田舎に引き上げて行った。
陽気な常連客に囲まれ、店は順風満帆、師匠の真似をしすぎて年寄り臭いとよく言われたが、良いんだそれで、一生を蕎麦と添い遂げるんだから。そう思っていたら、こんな自分を気に入ってくれる奇特な女性とも巡り会えた。
結婚の際、師匠夫妻に仲人を頼みに、バスに揺られて訪ねて行った。
妻の美しさに二人して目を丸くし、ミンミン蝉の鳴く縁側で、彼女の手を握って涙を流してくれたっけ。
大昔の話だ……
窓からの陽光が増す。
街が動き出すべき時間だ。
駅に向かう通勤者や学生で表通りが賑わう。本来ならば。
もう何日も外に出ていない。
死んでしまったこの街の現実を見るのが辛かった。
馴染みの客も愛想のいいご近所さんも、もう来ない。
あんなに活気のあった商店街が、たった数ヵ月で廃墟になってしまった。
実直に生きているだけじゃどうにもならない事もあるんだな、お天道さんよ。
―― 新型感染症の猛威 ――
何日前に配達されたのかも分からない傍らの新聞に窓からの光が届いた頃、身体を支えていた最後の力が抜けた。
固い床に触れた時、ペシャリと音がした。
自分の頭から流れ出る血はけっこうな量なんだな、と思った。
(バカ野郎、こんなしょぼい蕎麦屋に何で金目のモンがあると思うんだよ)
まあ、あいつも切羽詰まっていたんだろう。押し込み強盗をやるような悪人面はしていなかった。鉢合わせはお互いに運が悪かったんだ。
だからって、持っていた手提げ金庫をそんな思い切り振り回さなくてもいいだろ。空でも師匠から受け継いだ年代物でそれなりの重量があるんだ。ほら言わんこっちゃない。
まぁ妻子を、第一発見者なんて悲惨な目に遭わせずに済むのが、せめてもの救いだ。
あいつら、もうここには来ないから。
だからもう、どうでも・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
――こんにちは――
まぶたの裏に光が射す。
さっきまでの薄い陽光とは違う。
(助かっちまったのか?)
変な安堵と嫌気が一緒に来て、鬱々たる気分で目を開ける。
そこは元いた暗い室内ではなく、真っ白い空間だった。
(病院? いやまさか、今更医療の受けられる病床など……)
頭に手をやると、あれほど出血していた傷がどこにもない。
――こんにちは――
もう一度先程の声。
男か女かも分からないような無機的な声だ。
ゆるゆる身を起こして振り向くと、白い空間にサッカーボールほどの丸い物が浮かんでいた。
何の冗談だ。
西洋の宝地図の端にあるような顔のある太陽。縁取りの炎(?)がゆらゆらとうごめいている。
(息子が好きな青いイギリス機関車の顔みたいだ……)
と思った瞬間、無機的だった声がその機関車キャラクターの声になった。
――こんにちは、えっと、言語、合っていますよね――
「あ、ああ」
――貴方の記憶野に存在する『信頼出来るイメージ』をセレクトしました。コミュニケーションはとれていますか?――
「ああ……」
――説明を開始致しますが、宜しいでしょうか――
「……はぃ」
何が何だかの展開だ。
やけに明るい変なイントネーションの声から受けた説明は、もっと何が何だかだった。
『予定外の死』
『こちらの手違い』
『お詫び』
『特典』
『スキル付与』
何かうっすら既視感があるなと思ったら、昔悪友に勧められて途中まで読んだ『異世界ナンチャラ』の冒頭が、こんな感じだった。
って事は、これは自分の記憶が作り出した夢?
それとも、仕事一筋だった自分が知らないだけで、世間では当たり前に有りがちな事なのか?
「それで具体的に私はどうなるのだ? 手違いなら、死んだのが無かったことになって、元の場所に戻るのか?」
――いえ、私どもの目的は貴方様に『満足』して頂く事です。左手をご覧下さい――
左手の平を見ると、目の前と同じお天道さんマークが、蕎麦粉色のシワによって刻まれている。なんかイヤだ。
――こちらの失態をリカバリーするには、貴方様の『満足』が必要なのです。目的が達成された時、そのマークは消滅します――
「はぁ」
――で、こういうケースの皆様にお勧めしているのが、都合の良い能力を持ち、都合の良い異世界へ、都合の良い容姿年齢で転移出来るという三大特典バリューパックで……――
「いやいや、お詫びならこちらの希望に沿ってくれ。私は元の社会、元の人生が好きだったのだ。訳の分からん異世界などに興味はない」
――感染症に侵された元の世界が好きだと?――
「その前の平和な世界の話に決まっているだろ。お天道さんの姿で上げ足を取るな、逆に腹が立つ」
とにかく、自分の今の状態が常識の範疇外である事は確かなようだ。この状況は受け入れて、もう少しこのエセお天道さんの話を聞いてみよう。師匠も、人には取り敢えず添うてみよと言っていた。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
――だから、『感染症の広がらなかった元の世界を創造』なんて、それは無理です。そこまで万能じゃないです。私どもに出来る事は、貴方様に異世界専用のチート特典を授けて転移させる事だけなのです――
「むぅ……」
――毛嫌いせずに一度行ってみては如何です。皆様最初は戸惑われますが、すぐに、若返った身体、便利な能力の快適さに馴染んで、満足されるんですよ。何たって無双スキルで周囲からは全肯定、英雄にも国王にも、何だったら学生時代に憧れていたハーレム陽キャにだってなれちゃうんですから――
「・・・・・・」
――あの……――
「私はそういうのに憧れた覚えはない。学校などほとんど行っとらんし」
――えっと、その……――
「だいたいそんなズルいスキルとやらがはびこる世界ってどうなんだ? ズルい能力で人の上に立てるって事は、コツコツ勤勉に働く者がないがしろにされているんじゃないか? 実直な労働をして社会を支えている者はどうなる? 搾取要員か?」
――お、お言葉ですが、だからこそチート能力を持って異世界へ行き、実直な労働をするしかなかった貴方様の元人生よりも遥かに勝ち組に……――
「黙れぇえ!!」
どれだけ失礼な奴だ。話せば話すほど、従いたくなくなる。営業マンの才能ないだろ。うちに来る駅前信金の新卒社員の方がまだまともな営業をするぞ。
・・・・・・・
・・・・・・・・
――だ、だから……ぜぇぜぇ……異世界の方がぜったいお得なのに……みんなそうしているのに……――
「頑張れへっぽこ営業マン。私はまだ異世界とやらに毛の先ほども行きたくならないぞ」
――デモデモダッテ……――
「営業するのならあらゆる客層に応えられるようにしておけと、師匠に教わらなかったのか」
――ウウ……――
いかんな、追い込み過ぎだ。
しかし『満足』してやらなきゃならないからなぁ。きちんと満足要素を納得させて貰わないと、行ってから不満しか出なかったら、申し訳ないじゃないか。
ま、こういう融通のきかない所が自分の欠点だったんだよな。
それで
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