蕎麦湯

文字数 1,664文字

 パンパンパン

 クラッカーのはぜる音。
 何だっけ、左手の平が熱い。

 あ? 手の平に白い煙が出ているけれど、怪我はしていない。いつものシワがあるだけだ。
 っていうか、誰の肩に腕を回しているんだ、私は?

 ・・・・・・・

「うああっ」

「なぁによ、柄にもなく情熱的な所を見せてくれたと思ったら、今我に返ったの?」


・・・・・・・・
  ・・・・・・・・


「ああ、多分睡眠不足ですよ。あいつが帰って来るのに緊張して、前の晩眠れなかったんです。抱き付く直前までの記憶がスッポリ抜け落ちていたなんて、マヌケでしょ。
 居眠り? 違うみたいなんスよね。直前までバイトと話していたっていうし。そうそう、師匠にも話した、小説家志望の悪友。いい奴ッスよ、何年か疎遠だったのに、店の窮地に駆けつけて骨折ってくれたんだ。まかり間違って本でも出せたら、うちの店で盛大に祝ってやらなきゃな、ははは。
 その直前まで話していたって内容も、大した話はしていないって言うんですよね。ただ、例の変なカレンダーをまだ保管してやがったんで、気持ち悪いから捨てろって怒ったんです。そしたら変に神妙な顔をした後、貰ってもいいかって。うちにとっては疫病神みたいな代物ですからね。持って帰って貰ってホッとしました。
 ええ、ええ、自粛営業期間も大丈夫でした。何かネットのどこかで誰か有名人が褒めてくれたらしくて、弁当が飛ぶように売れたんです。商店街の他の店も恩恵にあずかっていた感じで。運が良かったんでしょうか、酷い状況になった同業者もいましたから。
 もう少しして世間が落ち着いたら一度伺わせて下さい。(せがれ)にも会って貰いたいし。店もたまになら休んでもいいかなって。いやいや、気付いたんですよ。大切にしなきゃいけない時を逃したら永遠に後悔する事もこの世にはあるんだな、って。はい、縁起でもなくてスンマセン。はい、女将さんにも宜しく。はい、はい、師匠もお元気で」

 受話器を置いて一息付く。
 生花のお礼だけのつもりが、つい長話をしてしまった。
 妻はシャワーを浴びている。
 傍らでは坊主が、気に入りの機関車の玩具で遊んでいる。
 この上なく幸せだ。

「アナタのお陰だったのよ。電話を切る直前『お前が大好きだ』って言ってくれたじゃない。いいえ、遠かったけれどちゃんと聞こえたわよ。それでね、急に思い立って、両親を誘って内陸の避暑地に行ったの。新婚旅行の一番の思い出の場所を、坊やに教えてあげたくなって。ほら覚えてる? 湖に向かって大声で叫んでくれたじゃない。『お前が蕎麦より大好きだ』って。ふふ、照れない照れない。
 田舎でラジオすら聞かないでのほほんとしていたら、いきなり移動制限でしょ、焦ったわぁ。でも両親の住んでいた集合住宅やお父さんの掛かり付けの病院が大変な事になって、これは幸運だったんじゃないかと。最初の予定どおりに街場で過ごしていたら、坊やと高齢の両親と、どうなっていた事やら。
 結局帰る直前まで避暑地のコンドミニオで過ごして、移動制限が解けたらすぐにチケットの申請をしたわ。それでも各所でかなり足止めを食ったけれど。こうしてまた無事に逢えたのだから、本当に神様とアナタに感謝だわ」

 妻の言う事に多少腑に落ちない部分もあるが、今の状態以上の事などない。
 土産のボッタルガを蕎麦にまぶしてつまんでいると、坊主が膝に登って来た。
 妻似の美しい碧眼(へきがん)。
 
 『蕎麦が一番かスパゲティが一番か』なんてくだらない事でケンカ出来る日常こそ、私にとって一番の宝物だったのだ。



                       ~おしまい~



・・・・・・・・・ 
     ・・・・・・・・・

――あっ お疲れさまっす。
 ・・え? 例の物件・・アカウンタビリティ? ええはいはい、ちゃんと説明義務は果たしていますよ。『心からの満足を得られて相殺完了したら、左手のマークと同時に我々に関する貴方の

消滅します』って奴でしょ。
 そんな何回も確認に来なくたって、もうそうそうヤラカシませんよ、やだなあ、あはは――








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