第二十一話

文字数 8,242文字



ヨセフはその後、二週間に一回ほど帰ってくるようになった。彼は日に日に大きくなるマリアのお腹を眺めては、幸せそうな顔をした。まるでその胎内に宿っているのが自分の子であるかのように。
彼はヨアキム達と一緒に、ヘロディウムでの自分の仕事の話をいくらでもした。そう語る時の彼は本当に生き生きしていて、マリアはやはり彼を送り出してよかった、とつくづく思えた。
「で……階段を作るスペースがないことに気が付いたんだよ。でも、狭いスペースにもおさまるような螺旋階段の組み立てなら俺の得意分野なんだ。何とか作ってやったら皆本当に褒めてくれるからさ……すげえ、嬉しかったよ」
「すごいんだろうね、私も見たいな……」
「別に普通の螺旋階段だぜ、マリア。材料が足りなかったから支柱はないけどな。ま、子供が生まれたら、必要なものは全部俺が作ってやるよ」
「あてにしてるからね!」
「ついでに家具も新しく作ってくれないかしら、ヨセフ君。この机、もうそろそろガタが来ちゃってるからね……身内に大工さんがいるといいわね。それも飛び切り腕のいい人だと!」
「この仕事が片付いたらやらせてもらいますよ、お義母さん」
マリアは彼の話に耳を傾けながら、お腹の中にいる子供も、その話にじっと耳を傾けているような気がしていた。
これは、奇跡によって生まれる神の子なのかもしれない。でも同時に自分たちの子供でもあると、マリアはその時心の底から思うようになっていた。

やがてヨセフの仕事がすっかり終わり、彼は改めてヨアキムの家に帰ってきた。結婚式は、きっとできない。花嫁の大きなお腹を見せるわけにはいかないだろう。でも、その時彼らは、それを受け入れていた。小さい頃には憧れた豪華な花嫁衣装を着ることにも、今はそれほど未練を感じなくなっていた。
そして不思議なことに、周囲の人々も、そのことを全く何も言ってこなかったのだ。まるで記憶から消し去られているかのように。それがただの偶然だと、マリアとヨセフは思わなかった。おそらくそう取り計らってくれているのであろう存在に、彼らは感謝した。出産の際には、アンナとエリザベトに手伝ってもらってこっそりしよう。きっと何とかなるはずだ。
マリアの産み月は刻一刻と近づいていた。秋が過ぎ、冬が来た。彼女のお腹がすっかり大きくなった、そのあたりの事だった。皇帝アウグストゥスが、人口調査のためイスラエルの全住民に住民登録をせよと勅令を出したのは。

「登録ねえ……」ヨセフは悩んだ。誰もが、自分のルーツのあるところで登録するのがしきたりになっていた。
「俺、いったんナザレに帰るか」
「私も、いっしょに行くでしょ?」と、マリア。「私、あなたの奥さんなんだから」
「ん、まあ、そうなるかな……待てよ、ナザレは結構遠いぞ。マリア、大丈夫か?」
「大丈夫だよ!ヨセフと一緒なら」
そう言って旅支度を始めようとした娘夫婦を見て、ヨアキムは言った。
「いや、待ちなさい。ヨセフ君。君が登録するべきは、ナザレではない。ベツレヘムだ」
「え、なんでですか?」
ベツレヘム。
それはかの、イスラエルの偉大な王、ダビデの故郷である街だった。
「君には、それが相応しいからさ」ヨアキムは笑った。ダビデの血を、おそらく肯定的に見られたことはろくにないであろう婿に対して、それが自分のできる思いやりの一つであると彼は確信していた。
「それに、私の家系もあきれるほど薄まりかえった傍系だが、ダビデ王家に連なっていると聞いたこともあるしね。ベツレヘムは、相応しい場所と言えるだろう。夫婦として、登録してきなさい」
「そう、ですか……?」ヨセフはしばらく戸惑っていたが、それでも素直にベツレヘムに行くことにした。マリアに負担にならないようろばに乗って、若い夫婦はベツレヘムに出発した。


ヘロデの王宮の門を、厳かな一団がくぐり抜けた。今年もまた、東方から占星術師たちがやってきた。
「不思議な星が出ておりましたな、師よ」と、バルタザール。
「さよう。何か、このイスラエルで起こるべきことが起きるはずである」
「異常気象ですね。今年のイスラエルは」メルキオールが、自分に釘付けになる視線を適当にいなしながら言った。美しい者でなければ、彼は興味がない。
「ずいぶん温かい……温かすぎる。まるで、春だ」
「さよう。……もう真冬だというのに、これは何事だ……だが、不吉の星は出ておらぬ。これはもっと、何か別の……」
メルキオールは師の言葉を聞きながら、相変わらずのヘロデ王の王宮を眺めていた。そしてやがて、細い体の片目を覆い隠した美少年を見つけ、彼に向かってキスを投げた。


マリアとヨセフがベツレヘムに到着した時、すでに夕方になっていた。ベツレヘムの街は想像以上にごった返していた。
「マリア、下手にろばから降りるなよ?潰されるかもしれないから」彼はそう言って、急いで宿探しをした。だがやはりと言うかなんというか、宿はすっかり全て埋まっていた。
「どうしろってんだよ……まいったな。今からじゃエルサレムにも戻れねえし……」
「ヨセフ、私別に野宿でもいいよ?町から外れたところに、洞窟とかみつけてさ……冬なのにこんなにあったかいし、きっと一晩くらい大丈夫だよ」
「ばか、マリアお前、何考えてるんだ!野宿って大変だからな!?猛獣とか、マリアが思っている以上に普通に出るからな!?」ヨセフは慌てて言う。「そんなところにマリアもお腹の中の赤ちゃんもおいておけるかよ!」
実際野宿で渡り歩いたヨセフの言うことなら、マリアも黙るしかなかった。「もう一遍探してみるよ!」とヨセフが踵を返した時だった。彼らの脇にあった扉がバタンと開いた。どこかの裏口だったらしい。
「あ、すみませんでした……」
二人がそういってすごすごと下がろうとすると、ごみを捨てに出てきたらしいその老婆はマリアの方をじっと見つめて言った。
「あら、妊婦さん!?」
「はあ、まあ……」
「貴方達も登録で来た口なの。大変でしょう、そんな体で……」
「う、うんそうだよ。婆さん!どこか、空いてる宿知らないか!?」
「心苦しいけれど、ないと思うわねぇ……うちの部屋もみんな満員だし……」
「わ、悪かった……」
ヨセフがろばの手綱を引く間、老婆は言うか言うまいか必死で悩んでいたようだが、意を決して彼らに叫んだ。
「もしもし、そこの若いお二人さん!」
「なんです?」
「そのね、もし、あなたたちが、いや、気を悪くしないでほしいんだけれど……」老婆はためらいながら言った。
「そのう、空いてる部屋はないんけれども、もし、いや無礼は承知だけど……もしよいのなら、家畜小屋なら使ってもいいわよ。ただでいいから……」


「また来てくれたんだね。嬉しいよ。メルキオール」アンティパスはメルキオールに軽くキスして、猫なで声で言う。後ろではじっとヘロディアが二人の様子を見ていた。
中庭の東屋で夕焼け空を眺めながら、彼らはハオマ酒を飲んで夢うつつになりながら語り合った。
「ずいぶん温かい冬だね」
「うん。牧草代をけちっている羊飼いあたりは、これ幸いにって放牧しているって話だよ。普段この季節に出すと羊が凍えちゃうけど、この気温だからさ……」
これで花でも咲いていれば本当に春だが、枯れ木だけの寂しい中庭が、今は冬だと告げていた。
ヘロディアは、じっと黙ったまま何かに耳をすましている。また、アンティパトロスが何かを言っているのだ。アンティパスはそれを無視して、「会いたかった。早く行こう?」と、メルキオールにすり寄った。
「アンティパス。君に会えたことは……私の中で一番の僥倖だ。インドにも、アラビアにも、コーカサスにも、アフリカにも……君ほど私の心を釘付けにする美貌の持ち主はいなかった」
彼はアンティパスをいとおしそうに撫で、片方の手でヘロディアの艶やかな髪も撫で上げた。
「そろそろハオマが回って来たな」
「宴会なんてすっぽかそうよ。どうせ父上はつまらない事しかやらないもの……」
「そうだな」
彼らは中庭を後にする。かすれ消えるようなアンティパトロスの声だけがまだ残っていた。ヘロディアはしばらく地面を見つめていたが、やがて彼らについていった。


「酷いところでごめんなさいね……」
「とんでもないですよ婆さん!屋根があって壁があって包まるもんがありゃ、十分上出来ですよ!」
「君、一体どんな生活をしていたの?」
「い、いやとにかく、本当に私たち、ありがたく思ってますよ!それにお金もただなんて、良いんですか?」
小さな宿屋つきの小さな家畜小屋だった。ろばと牛が一頭ずつ飼われているだけの。
「かまわないわよ。こっちはお客に安らぎを与えるのが仕事なのに、こんなことをして……と思っているところもあるんだから。せめて……」
「何言ってんですか、貸してくれない宿屋より貸してくれる家畜小屋の方が何倍だってありがたいですよ!」
連れてきたろばも中につないで、マリアを藁の山の上において、ヨセフは宿の女主人とそう話し合っていた。女主人もようやく素直に、彼らの喜びを受け止めてくれたらしい。
「そうなの、それはありがたいわ……せめて、ゆっくりしていってちょうだい。今食事を持ってこさせるから……あらやだ、もう日が暮れたわ。冬至だものね…」
老女がそう言った時だった。ヨセフの耳に、小さな呻きが聞こえた。それは、マリアの声だった。
「マリア!?どうした!?」
「な、なんでもないの……」
「嘘付け、言ってみろ!」
マリアの顔はみるみるうちに青くなり、彼女は言った。
「痛い……おなかの下の方が、痛い!」
「産気づいたんだわ!」
老婆は慌ててマリアに駆け寄った。「横になって!」彼女は叫ぶ。
「君、急いで産婆さんを!宿の表の方から出て、北にまっすぐ行ったら、三番目の交差点があるあたりにいるわ!早くして!私は見ているから!」
「お、おう、わかった!」
ヨセフは急いで全速力で走り出した。

痛いのは嫌よ、って言ったのに。
マリアはせめて気丈にそう思いながら、今、一つの命を形にして生まれさせようとしているわが身の痛みに耐え続けていた。腰の骨が砕けそうだ。破水してあふれた羊水の冷たさが気持ち悪い。少しでも油断したら意識が飛びそうなほど苦しい。
ヨセフの呼んできた産婆も、宿屋の女主人も、彼女を励ましてくれる。ヨセフは男なので出産の場所には立てず、そこにはいなかった。それが彼女にとってはたまらないほど心細かった。エリザベトも同じような痛みを味わったのだろうか。本当に彼女はあの老婆の体で、こんな痛みによく耐えたものだ。
「大丈夫!?初産にしてはずいぶん安産よ、この調子でがんばって!」と乳母が言ったとき、マリアはああ、これでも自分の頼みを聞いてくれた方なのか、と思った。主が自分を裏切ったイヴに与えた出産の痛みとはこれほどのものか。実際人間は、酷い罪を重ねたものだ。
そんなことに思考を寄せ、なんとか痛みを紛らわせようとしている彼女の体を、これまでで一番の痛みが貫いた。たまらずに彼女は悲鳴を上げる。骨が砕けるなんてものじゃない、まるで体全体が砕けそうだ、と彼女は思った。
「大丈夫!もうすぐよ、頭が見えてきたわ、頑張って頂戴!」
「まだいきまないで、まだ早いわ……そう、待ってね。よし、今よ!思いっきりいきんで!」産婆がそう言った。だが、いきむともっと痛みが襲って来そうで、そうしなくてはいけないと分かりつつ、力が出きらなかった。
「いきんで、大丈夫よ、いきんで!」
産婆が自分を励ましてくれる声を聴きながらも、彼女は、本当に欲しい心のよりどころは彼女ではない、と思っていた。
「(助けて、助けて、ヨセフ……)」
彼女はそう願った。そして、心の中で彼を呼んだ瞬間だった。自分は彼と繋がれている、と言う気持ちに襲われた。
ヨセフはあの扉の外で、自分を応援してくれているのだ。それがはっきりわかった。何も怖くはない。自分は大丈夫だ。
彼が自分を見ている。彼が自分に声をかけてくれている。彼が自分の手を握ってくれている。心から、そう思えた。
「(処女のまま子供を産むことを受け入れた私が、このくらいの痛み、今さら怖がるもんか!)」
彼女は決心し、言われたまま、思い切りいきむ。
「(神様、私、頑張りますから……)」
長い、長い時間のように感じられた。その時間はふと、終わりを告げた。
マリアの体中から力が抜けた。そして、小さな、大人しい産声が聞こえてきた。
「おめでとう!」産婆と宿屋の女主人が、口をそろえてそう言った。「元気な男の子よ!」

マリアは顔を紅潮させ、上体をよろよろと起こした。産婆がはさみでへその緒を斬り、そっと産湯をつかわす様がはっきりと見えた。
「赤ちゃん……」
あの日、エリザベトの家で見たその存在と、彼は確かに似ていた。
神の子。男を知らない自分の体に宿った、不思議な存在。だが彼はそうであると同時に、立派に人間の肉体を持った、ごく普通の赤ん坊だった。
「さ、お母さん」産婆は笑顔でマリアに、生まれたばかりの赤ん坊を差し出した。マリアが彼の顔を覗き込んだ時、彼がふっと、優しく笑ったのを見た。
「生まれたのか!?生まれたのか、マリア!?」
バンと扉が開き、ヨセフも入ってきた。
「生まれたよ……ほら」
「お父さん、まだ首が座ってないから、十分気を付けてね」
ヨセフは、手渡された赤ん坊を言われるままにそっと抱いた。そして彼も、赤ん坊が笑っているのを、確かに見た。
「こんにちは……」ヨセフは感動のあまりポロリと涙を流しながら、生まれたばかりの彼にそう言った。
それは暗い、暗い、冬至の夜の事であった。


その瞬間だった。
メルキオールは急に、何かに取りつかれたかのようにがばりと跳ね起きた。
「どうしたの?」怪訝そうに聞くアンティパスと、首をかしげるヘロディア。だがメルキオールは南向きの窓を見つめ、そして、「おお……」と感嘆の言葉を漏らした。
「あの星は、あの星は……」
「なに、なにがあったの?」
アンティパスは不安に思って、彼をまたベッドに戻そうとする。だが彼はそれどころではないとばかりに、裸の胴体に急いで服を纏った。
「救い主だ……救い主が、私が待ち望んでいた救い主が今、お見えになった!」
「なんだって?」
「私の生は報われたのだ!救い主が誕生したのだから!おお全世界の民よ、喜び、祝うがよい!私はもう、ここには戻らないぞ!火も、赤い月もしるさなかった救い主が、お見えになったのだから!」
彼はアンティパスに構わずに、走って宴会場に向かった。アンティパスもあわてて服を着て、彼の後を追いかける。一歩遅れてヘロディアも同様にした。彼女のドレスは着るのが難しかったので、だいぶ遅れてしまったが、彼女はそんなことは気にしなかった。
宴会場の占星術師たちはやはり、南の窓に釘付けになっていた。
「師よ!兄者よ!」
「おおメルキオール。貴様も見たか、あの星を!」
「はい、ですからここに駆け付けたのです」
「そうか、ならば話は早い」
宴会の上座に座るヘロデ王は不機嫌そうな顔をますます不快感に染めて言った。「占星術師の者共、何を話しておるのだ?」
「ヘロデ王、あなたには見えませぬか。あの燦然と輝いた星が」
カスパールは南の空に指を指した。
「あれが、なんだというのだ」
「あれこそ、王の星です」と、バルタザール。
「なに?」王と言う言葉に、ヘロデは反応する。「どういうことだ……」
「つまりですな、ヘロデ王」メルキオールが一番前に進み出て、険しい表情で怯えを隠すヘロデの内心を見透かすように、その美しい声ではっきりと告げた。
「救い主が、ユダヤの王となる方が、たった今お生まれになったのです」

「なんだと!?」ヘロデは顔を真っ先にし、金のカップをひっくり返して宴席から立ち上がる。
「ユダヤの王だと!?馬鹿な!私たちの家族に連なるもので、子が生まれたものはおらん!」
「誰もあなたの家系のものだとは言っておりませんよ、ヘロデ王」メルキオールは淡々と告げた。会場のものは皆、ぞっとする。だが占星術師たちは少しもひるむ様子はなかった。星を見通す彼らの目に、ヘロデの怒りなど、どうにも映っていなかったのだろう。ヘロデは滅茶苦茶に叫び散らした。
「ユダヤの王はこの私だ!私だけが、ユダヤの王だ!ローマ皇帝も認めていることだ!私以外、誰もユダヤの王になれるものか!なってはならん!この私が、そのようなこと、絶対に認めはせん!」
「それは結構なことですな」カスパールが厳かに言った。「しかし、あなたの思惑もローマ皇帝の思惑も、星空の示す定め、それを作った神の思惑からすれば、所詮は塵芥にもすぎぬものです」
「処刑しろ!」ヘロデ大王は宴会の場であるということも忘れて言った。「こやつらを今すぐ切り捨てろ!王の命令だ!」
「あなたに私達を処刑する権限などないはずです!ヘロデ大王、我々は失礼いたしますぞ。我々には、ゆくところがあります。救い主が現れたのですから」
「師、メルキオール、ゆきましょう。主が知らせてくださったその出来事を、我々は早く見なくては」
ヘロデ大王と、彼を急いでなだめる召使たちを尻目に、三人の占星術師たちはスタスタと出て行った。アンティパスは「お前も父上をおなだめしろ!」というアルケラオスの声を無視し、その後を一目散に追いかけた。
「待ってよ、メルキオール!」
彼は叫んだ。メルキオールは、止まってくれた。それにアンティパスはほっとする。彼は背の高いメルキオールをじっと見上げ、冷や汗をかきつつ微笑みながら言った。
「ねえ、行くのはいいよ。でも、二度と戻ってこないなんてこと、ないよね?」
彼は先ほどメルキオールが口ばしった言葉を、何より心配していた。
「また戻ってきて、僕を抱いてくれるんでしょう?僕は、あなたが出会った中で、一番美しい人なんでしょ?」
「……アンティパス」
メルキオールはそっと屈みこみ、彼の頬を、赤い唇を撫でた。
「そうとも、君は美しい。出会った時から私は、君のとりこだ。君は世界一美しいと、私は思っている」
「なら……」
アンティパスの声が輝いたのも、つかの間だった。
「だから、私は君に嘘など言わない。君ほど美しい人間に、何故汚い嘘など言えよう。私は戻らない。それは絶対に、覆らない。私はもう、救い主を見つけてしまったのだから」
その言葉を聞いて、アンティパスは打ちのめされたようにうなだれた。しかしそれでも、彼の顔に張り付いた笑みは、決して取れないままだった。
メルキオールも、確かに間違いなく彼を愛していたのだろう。彼を突き放しはせず、そこに居続けはしていた。
「いつなの」
アンティパスは震える声で、口をゆがませて笑いながら、猫目石の目と本物の目で美しいメルキオールを睨みつけ、言った。
「そいつが救い主だとしても、赤ん坊のころから人は救えないはずだ。……いつになったら、そいつは、人を救い始めるの」
メルキオールはしばらく南空の星を見ていたが、やがて口を開いた。
「ざっと、三十年後……」
「三十年……そう」
アンティパスは、じっとメルキオールを見つめた。そして、彼に抱きついて言った。
「ありがとう……貴方が来てくれて、この目をくれて、本当にうれしかったよ。ありがとう……」
「どういたしまして」メルキオールはそっと細い指で、アンティパスの顎を持ち上げる。「私が人間のうちで最も愛した、アンティパス」
そして彼はアンティパスの真紅の唇に、最後の口づけを落とした。アンティパスの涙を去りぎわにそっと拭い、「さようなら」と言い残し、メルキオールは去っていった。
金髪の後姿を、アンティパスは笑い顔が張り付いたまま泣きつつ見送る。そしてその哀れな少年の姿を、じっとヘロディアが、その感情も何もたたえてはいないような目で見つめていた。

ベツレヘムの上空にその日輝いた星を、何人もの人が見た。貴族も、町人も、農民も、世界中の人々が見た。
だがその星が何のしるしであったかをその時知った人は、広い世界の中で、ごく少数であった。

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