第七話

文字数 6,764文字


マリアは夢を見た。一人の男の子が、ひたすらに虐げられていた。
偉ぶる大人たちに、理不尽に。彼の父は死んだ。母は廃人になってしまい、狂気の中やはり死んだ。彼は必死で逃げ続けた。何も悪いことをしていないのに。
彼が誰だか、マリアにははっきり分かった。

そのような夢を見た後なので、マリアは当然寝覚めが悪かった。他の少女たちはまだ寝ている。喉が渇いたので、水でも汲んで飲もうと、マリアは井戸のそばに来た。
早朝で、まだ日は昇りかけだ。空も、黒がうっすらと青になって来た程度にすぎない。出かかってきた光を頼りにマリアはつるべを落とし、くみ上げた水を直接飲み込んだ。
「おはよう」
声が聞こえた。例の男性だった。こんな早朝から、起きていたのだろうか?マリアは少し不審に思ったが「おはようございます」と返した。
「ヨセフの事を、知ったんじゃないのか?」
彼は唐突にそう言ってきた。マリアはぎょっとした。
「あの……」
「夢を見たはずだ。君は」
早朝の冷たい空気に、彼の声はよく響いた。マリアは思わず、うなずいた。
「全部、あったことだ。本当に」
彼は言った。東の空に赤い日が昇ってくる。マリアは少し非現実的な思いに浸って、彼の言葉を聞き続けた。
「君がもしも構わないならば」彼はマリアに語りかけた。「彼のそばに、これからもいてやりなさい。彼には、優しくされることが必要なんだ。特にマリア…君のような、優しい人からね」
マリアは静かにうなずいた。不思議と、考えたがりの彼女には珍しく、頭は空っぽのまま、首だけが動いた。

その朝はそれで終わった。
彼とはそれで別れ、水を飲んだマリアはまた眠り、結局他の少女たちと同じ時間に起床した。今度は夢など見なかった。
一回の睡眠をはさんでしまうと、あれが本当にあったことなのか、既に記憶もおぼつかなくなっていた。
だが、やはり頭のどこかにある気がする。朝焼けの赤い空気、冷たい中に響く、彼の低い、優しい声。そして、頭を引き裂くような、理不尽で悲惨な、ヨセフの夢……。
ヨセフには話さないでおこう。彼女はそう思った。もしもこれが、あのおぼつかない早朝の思い出の通り本当にヨセフの過去なのだとしたら、他人がむやみに掘り返すことじゃない。恵まれて育った自分では到底気持ちを想像できないほど辛く、痛々しい過去だ。忘れたいこともあるだろう。
とにかく、自分は今まで通り、ヨセフに接しよう。マリアはその朝、心からそう思った。

そして、その日はいつも通りにすぎていった。ヨセフはマリアが見たところ、何の変わりもなかった。
例の男性もやはり、樫の木の下に居た。そして、ヨセフに読み書きや歴史をマリアと一緒に教え、それが終われば今度はマリアも一緒に、彼の話に聞き入るのだ。


その日、とにかくヨアザルは気がくさくさしていた。朝からアンナスとカイアファに出会ってしまい、いびられたのが原因だ。
ヨアザルが成り上がり者でありながら、エリートであるアンナスと同じ立場、すなわち次期大祭司候補という立場にあることを、彼らが面白く思っていないからこそ自分をねちねちと攻撃してくるのだということはよく分かっていた。少しだけなら、彼らのことを逆に笑い飛ばすこともできたし、事実最初はそうしていた。
しかし、ここまで続くと腹に据えかねる。おまけに、確かに成り上がり者であることにヨアザルはコンプレックスを抱いていたのだ。それは、まぎれもない事実だった。アンナスとカイアファの前で自分に胸を張りきれない感情を、あの二人には見透かされているのだ。彼はそれをわかっていた。
彼はマリアのもとに行こうとした。だが、出てきたのはツェルヤだった。「あら、ヨアザル様!どうなさいましたか?」と、上品に、しとやかに話しかけてくる彼女すら、ヨアザルの心を波立たせた。彼女は、アンナスの娘だったからだ。
だがしかし、関係のない少女に八つ当たりするほど彼も幼くはない。「マリアがどうしているか気がかりになってな」彼は言った。
「あのヨセフとか言う大工の子供と、少しは距離を置くようになったか?」
マリアがその場に居ないのを見届けて、彼は適当な話題をふったが、ツェルヤから帰ってきた答えは「あら、どうしてですの?」だった。
「どういう意味だ?」
「あの二人、すごく仲いいですわよ」ツェルヤは言った。
「なに!?」
「ヨアザル様、彼がお嫌いですの?」ツェルヤはくすくすと笑う。「いい子ですよ。差し入れにお菓子なんか持っていくとね、すごく良い食べっぷりするんですから」
彼女の笑顔が、ヨアザルには少し不愉快だった。なんだか彼女にまで馬鹿にされているようだった。ツェルヤがいい娘なのには違いないが、彼女は少し垢ぬけていて大人っぽい。それはいいことには間違いないのだが、マリアと同じような朴訥な優しさは少し見出しにくかった。
「だが、君も知っているのではないか?」ヨアザルは言う。「いい年をして、教育もなっていないどころか、読み書きすらろくにできていない子供だ。自分が後見人として娘のように育ててきたマリアが、ろくでもない男にたぶらかされては困る」
ツェルヤはそんな彼に言い返す。「まあ……ヨアザル様は心配性ですのね」
「……で、マリアはどこに居る?」
「存じ上げません」ツェルヤはいった。「休憩時間中にどこに居るなんて、一々知りませんわ。申し訳ございません、ヨアザル様」
全くヨアザルに共感していないらしい彼女の言いぶりが、余計にヨアザルの癪に障った。彼女と話すだけ時間の無駄だった、と思った。

ヨアザルは結局悪い気分のまま、その場を離れた。マリアに一つ強く言ってやらねば、と彼は思っていた。

そのような気分になればなるほどマリアの事が心配になってきて、ヨアザルは彼女を探して回った。そして彼の脚は、彼女がそこにいたと確信していたわけではないが、裏口、井戸の近くの方に向かった。
マリアの声が聞こえる。あのヨセフも一緒だ。少し、二人そろって何か言ってやらねばと思っていた、ちょうどいいところだ、と考えヨアザルがその場に足を踏み入れたその瞬間、彼の目にはよく知っている二人ともう一人、見知らぬ男が映った。

旅人のようなみすぼらしい身なりをしている彼は、マリアたちと非常に親しく話していた。どこからどう見ても、さほどいい身分のものには見えない。ヨアザルは顔をしかめて「マリア」と言った。三人が、彼の方を振りかえる。
「あ、ヨアザルさん…」
「その方は誰かね?」
ヨセフがまず先に言おうとしたが、彼が喧嘩腰になるのを抑えようとしての事だろう。マリアが言った。
「あの……数日前から、ここに宿をとっていらっしゃる旅の方なんです」
「なに?神殿はそのような客を迎え入れた覚えはないが」
マリアは急にヨアザルに出てこられて焦ったのだ。全く正直すぎる回答をしてしまった自分に気が付いたが、もう取り返しもつかなかった。意外と、男性の方は全く焦る様子もなく、ぼんやりとヨアザルの方を見つめていた。
「あ、あの……」
「宿を取れもせず、ここに物乞いのように寝泊まりしていたというのか?」
その言葉を、マリアは肯定するしかなかった。事実そうだ。男性も、正直にその言葉に静かにうなずいた。
ヨアザルはその言葉を聞いて余計に頭に血が上った。口を酸っぱくしてろくでもない男にかかわるなと言っているのに、性懲りもなくこんな宿を取れもしないような外国人と仲良くしている。
もし彼が外国のごろつきで、売り飛ばされでもしたらどうなる。乱暴されるだけでは済まない目にあったらどうなる。この目の前の娘はそう言う危機感がないのかと思うと、彼は腹が立った。だが、マリア以上に、そんな物乞い同然の存在のくせに彼女になれなれしい、この初めて見る男に腹が立った。
「今すぐ立ち去れ、乞食が!」彼はきつい口調で言った。「ここをどこだと思っている、偉大なるイスラエルの神の神殿だ!貴様のようなものが足を踏み入れていい場所ではないわ、立ち去れ!」

その時だった。
ヨアザルは面喰った。マリアもヨセフも言葉を失った。
男性はヨアザルの言葉を受けて、怒るでも、悲しむでもなかった。穏やかにその言葉を受け止めるでもなかった。
彼は、笑った。それも声を上げて、げらげらと大笑いした。大人びていて落ち着いた彼の態度からはあまり考えられない笑いっぷりだった。
「なにがおかしい!」
ヨアザルは怒鳴る。彼は笑いを抑えて、言った。
「私に相応しくない……!?この場所が!?」
ヨアザルは彼の意外な反応にも負けず、彼を睨み続ける。先にペースを取り戻したのは、男性のほうだった。
「よろしい。お前がそう言うのなら、もう私はここには来ないとも。『私が足を踏み入れていい場所ではない』なら、しょうがないからな……はははっ!」
彼はサンダルの紐を結びなおして、すっくと立ち上がった。
「あ……」
「ちょ、ちょっと、おっさん!」
マリアとヨセフが声をかける。だが彼は二人の方を振り返ると「二人とも、楽しかったぞ。ここ数日、ありがとう」とにこやかな笑顔で言った。そして、すたすたとまっすぐ歩いて行った。彼の歩き方は早かった。そして、非常に速いのに足音一つ聞こえないほど、静かな歩き方でもあった。
「マリア。それに大工の少年。私はお前たちにこの際だから……」
ヨアザルがそう言いかけた時だった。ヨセフはすでにヨアザルなど気にせず駆けだしていた。そして、ヨアザルは驚いた。いつもなら素直に話を聞くマリアも、あわてて彼の後を追いかけたからだ。

その日、例の気のふれた老人は、神殿の脇で物乞いをしていた。
彼の目が、一人の男性を捕えた。旅人装束を来た男、足音一つ立てず、自分の前を通り過ぎて言った。一瞬だけ、ちらりと自分の方を見た。確かに彼は、その男性の目を見た。
彼は驚いて、後を追いかけようとした。しかし、それはかなわなかった。彼は非常に早く歩いて行った。


エルサレムの市街を出たはずれの農園地帯を、彼は歩いていた。麦の穂が青々と日に照っている。広々とした中、男性は悠々と歩を進めていた。
後ろから声が聞こえる。麦はたっぷり籾が付いた穂ばかりだ。今年は豊作だろう。
「待ってって、おっさん!」
ヨセフとマリアだ、ようやく追いついたのだ。
彼は立ち止って、振り返る。「おや、ヨセフにマリア」彼は言った。
「どうしたのかね?」
「ヨ、ヨアザルさんの言うこと、気にしなくても、いいですよ!」マリアは息も絶え絶えに言った。相当早く走って来ただろうから、息が上がっているのだろう。
「ちゃんと祭司の皆さんに掛け合えば、泊めてもらると思います。それに、その、ヨアザルさんはちょっと今日機嫌が悪くて、ついきついことを言っちゃったんです。本当は凄いいい人ですから、落ち着いて話して……」
「おっさん、あんな奴の言うこと聞くことねえだろ」ヨセフが言う。
「それより……俺は、おっさんともっと居たいんだ」
「わ、私もです!」マリアも続いた。「私も、貴方のお話ももっと聞きたいし、貴方と一緒に色々なことがしたいし、本当……まだいてもいいんですよ!本当です!あなた、すごくい人だから……私もヨセフも、貴方のこと大好きですよ!」
彼はヨセフとマリアの言葉を聞いた。そして、変わらない笑顔で笑った。
「ありがとう。君たちは、本当に優しいね」
彼は、ヨセフとマリアのもとに寄ってきた。そして、両手を伸ばして、二人の方を静かに抱き寄せた。右手でヨセフを、左手でマリアを、彼は抱きしめた。
マリアは思った。彼の笑顔は、父ヨアキムを思わせたが、彼の抱擁もまた同じようだった。たまに顔を見る父が自分にくれる愛情深い抱擁、彼の抱擁はまさしくそれを思い起こさせた。広く、暖かい胸の中に、彼女はヨセフとともに包まれた。
「覚えているかね?以前、私が言ったことを。私が、何故旅をするのか」
彼は、二人を抱きしめたままそう話す。彼の顔がすぐ上にあるのだと分かった。
「今回もそうだったのだ。人間が嫌になったんだ。うんざりしていたんだ。なんと醜くて浅ましい生き物が、この地上を埋め尽くしているのだと、そう思ったからこそ、私はイスラエルを訪れたんだ」
彼は笑っている。なぜか、それがマリアにはわかった。
「昔と同じだな」彼は言った。
「いくら人間が嫌になっても……君たちのような子がいるから、私はまだ、人間を、この世を、愛していける。本当に……本当に、ありがとう。ヨセフ。マリア」
そして、男性は彼らから離れる。陽光を背に受けた彼の顔は、確かに笑っていた。ここ数日で見てきた中で、いちばんきれいな笑顔だ、とマリアもヨセフも思った。
「変に心配をさせいてたのならば、すまないな。もともと、そろそろ帰る予定だったんだ。気にしないでいい。それと、あの男の事だが、むしろ君たちこそ彼をあまり責めないでいてくれたまえ。彼はね、マリア、君の事が心配だっただけさ。悪意と言えるような悪意はなかったんだ」
彼はあっさりとそう言った、そしてもう一度、ヨセフとマリアの目を眺めた。
「マリア。君は本当に優しい子だね。私にはわかるよ。君は誰にでも優しくできる。良い子だ。ヨセフにも、私にも、分け隔てなく優しくしてくれたのだからね……。君のそう言うところは、何よりも魅力的だよ。どうかこれからも、ずっとそうであっておくれ。ヨセフ。……覚えておいてくれ。誰が何と言おうと、君は偉いよ。君は、人間がどれほどひどいか、醜いか、知っているのに、それでも笑って生きている。それでも、ちゃんと人間を愛することができる。誰にでもできる事じゃない。君は本当に、強くて偉い子だ」
彼は最後にそう言いながら二人の頭を優しくなでた。そして、額にキスをする。夏の風が、緑の麦畑の、豊かに実った穂を揺らしていた。
マリアはその言葉を受け「はい」と笑った。すがすがしい気分だった。だが、ヨセフは違った。
彼は神妙な顔で暫くうつむいていたかと思うと、首に手をかけた。そして、首にかけていた指輪を取り出した。
「おっさん、これ、おっさんにあげる」ヨセフはそう、短く言った。強い日差しに、赤いルビーが輝いた。
男性も、さすがに驚いたようだった。
「なんだって?……これは、君の家族のものじゃないのかい?」
「おっさんは」ヨセフは食いつくように言う。「おっさんは、俺の家族……みたいなもんだから。おっさんといると……父ちゃんといる、みたいだったから」
彼はマリアとは逆だった。泣いていた。
自分と同じようにヨセフもまた彼の中に父親の面影を見ていたのだとマリアにはわかった。理不尽に殺されてしまい、離れ離れになった父親の面影を。
「あの、今度みてぇなことがあったら、あれだし……旅の足しにでも、してくれよ」
彼は必死でそう言った。指輪を差し出す手は、震えていた。
光のなか、右手が伸びてくる。そして、彼のその指輪をそっとつまんだ。
「ありがとう。ヨセフ。君の気持ち、確かに受け取ったよ」
男性の指の中で、赤い光が輝いていた。ヨセフはそれを見届け、強くうなずいた。彼は、泣くのをやめた。
「では、もう行こう。迎えも来ていることだしな……」
「え、迎え?」

ヨセフが意外そうな声を上げたその時だった。いつの間にか道の向こうから、一人の男がやって来ていた。
まるでいま空から降り注いでいる夏の日差しのような、眩しく輝く長い金髪の美男子だった。彼は将軍のような豪勢な装いをしている。そして彼は、隙のない速さで男性の前に歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「お迎えに上がりました……主よ」
「ああ。ご苦労」
マリアとヨセフは面喰った。
金のない流浪の物乞いかと思っていたのに、こんな見事な装いをこらした部下にかしずかれる立場の人物だったのか?と、一気に疑問がわいてきた。だが不思議と、その将軍に見つめられ「君たちが我が主を助けてくれたのか?ありがとう。感謝しよう」と手を握られると、そのことを問いただす気が失せてしまった。彼に圧倒されたのかもしれない。
「マリア、ヨセフ」彼は最後に、もう一度微笑みかけた。
「君たちといられて、本当に楽しかったぞ。……もしも差支えなければ、君たちのもとに、また訪れてもいいかい」
それに対する返答に、迷う必要などあるはずがなかった。マリアとヨセフは深くうなずき、彼に別れを告げた。彼は金髪の将軍と並んで、光に満ちた麦畑の向こう側に歩いていき、いつの間にか消えていった。マリアとヨセフは彼らに、ずっと手を振り続けていた。


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