(承)

文字数 2,323文字

  その日の目覚めは寝不足であまり良いものではなかった。時計を見ると9時に近かった。パジャマのまま居間に行くと母に『いつまで寝てるの!』と怒られた。『いいじゃないか日曜日ぐらい。』と心の中で反論しながら食卓に座り、遅い朝食を始めた。
「都庁の展望室、行ってみるかな。」
冷えたハムエッグを食パンに挟んで頬張りながら、僕はそう決心していた。
 服選びは普段より時間がかかってしまっていた。『デート』という言葉が引っかかっていた。朝食あとに飲んだ濃いコーヒーが効いてきたのか服を選んでいる間に頭ははっきりしてきた。着ていく服をパーカーに決めると、僕は普段履かないお気に入りのスニーカーを履いて家を出た。時刻は正午を過ぎていた。
 最寄りの私鉄の駅から僕は電車に乗り込んだ。駅に着くまでに周囲に人がいないタイミングを見計らってユイナさんに話しかけたが返事はなかった。しかし僕はユイナさんが現れなかったとしても都庁までは行くと心に決めていた。それはユイナさんが現れてくれないと、昨日の事が自分の中で整理できなくなるという恐怖からだった。新宿駅に着いた時、時刻は午後1時半を回っていた。
 新宿駅から歩いて都庁に向かった。今朝から一度もユイナさんの声が聞こえず、昨日の体験が現実だったという確信が揺らぎ始めていた。しかし都庁の入り口に立ち、このまま中に入るか迷った時、不意にユイナさんの声が耳元で聞こえた。
「私を信じてくれてありがとう。」
周囲を見渡したがユイナさんの姿は無かった。でももう僕は霊としてのユイナさんの存在を疑う必要はなかった。僕は自然と拳を握りしめた。ユイナさんの言葉が続いた。
「行きましょうリョウヘイ君。南展望室へ向かってくれる。」
「分かったよ、ユイナさん。」
僕はそう囁くと第一本庁舎の中に入って行った。
 1階にある展望室専用エレベーター前には人が並んでいて、乗れるまで少し待つことになった。45階まで上がると天気も良く、展望デッキからは東京の街が見下ろせた。僕は周りの人に気付かれないように小さな声でユイナさんに語りかけた。
「素晴らしい景色ですね。ユイナさんはこの景色が見たかったんですか?」
やはり姿は見えないがユイナさんが囁いた。
「東京ってこう見ると広いし結構緑があるのね。ここ、いつでも来れるって思っていたら結局生きてるうちには来そびれちゃった。」
「…僕もユイナさんが誘ってくれなかったらこの先も来てないかも。」
その時、展望室の中にピアノの音色が響き始めた。見ると黄色い装飾を施したピアノで年配の男性が演奏していた。どこかで聞いた事のある曲だった。
「『Merry Go Round of Life』いい曲よね。リョウヘイ君は〝ハウルの動く城〟って映画、観た事ある? 」
その言葉が記憶を呼び覚ました、ジブリの映画で変な形の城がぎくしゃくと動く映像。僕は静かにうなずいた。しばらくその演奏を聞き入っているとユイナさんが続けた。
「ごめんねリョウヘイ君、昨日『私の願い』の話をしたでしょう。その願いが叶えられるのかここで試したいの。」
「試すって何を?」
「ピアノの演奏ができるかどうか。霊が生きている人の動作に影響を与えるという意味で『憑りつく』という言葉があるの知ってる?」
「あまりいいイメージのない言葉なんですが…」
「リョウヘイ君、私、昨日あなたと会った時に憑りついたの。大丈夫、私には悪意はこれっぽっちもないから。ただ…私を信じてあなたの体を使わせて欲しいの。」
「えぇ!?」
僕は驚いて思わず声を出してしまった。ユイナさんは優しい声で続けた。
「大丈夫、私を信じて。演奏の5分間だけでいいの、私にあなたの指を操ってピアノが弾けるか試させて欲しいの。それが出来ると判ったら私の願いをリョウヘイ君に話すわ。」
「でも僕はピアノなんて全く弾けませんよ。操ると言ったって…」
「大丈夫、ただ私を受け入れてくれればいいの。あなたがリラックスしてくれればくれるほど一体化はスムーズにいくわ。」
「要は何も考えずにリラックスすればいいということですね。」
「そう、体が勝手に動き出してもびっくりしない事。私の演奏、じっくり聴いてみてくれる。」僕はうなずくと演奏を待つ列に加わった。
 しばらくすると自分の順番が回って来た。簡単な注意を受けるとピアノ前に置かれた椅子の前に進み出た。僕は椅子に座ると大きく深呼吸をしてリラックスする事に努めた。数秒ののち今まで体感したことのない感覚を僕は味わっていた。甘く暖かいものが意識を包み込み、うたた寝するような気持ちよさを感じていた。不意に僕の両手が鍵盤に添えられ、胸を大きく膨らませて酸素を肺に取り込まれた。僕の意志に関係なく体が動いている。そして演奏が静かに始められた。
 演奏は心に沁みてくるものだった。グランドピアノの目前で聴く演奏はこんなにも人の心を揺さぶるものなのかと心が震えた。ユイナさんの腕前も相当なものなのだろう。黄色いピアノの周りで立ち止まる人が増えてきた。スマホで動画を撮っている人もいた。そのような状況の中、演奏はやや激しいサビと思われる曲調を過ぎ、エンディングと思われるスローな最初の曲調をなぞるものに変化していた。ユイナさんの感情が僕に伝播しているのだろうか、僕は深い感動と満足感を感じていた。ピアノが最後の音を奏で、余韻が展望室に広がった。少なからず演奏に感動した人からの拍手が起きた。その時だった。僕の中に満ちていた暖かい感情が一瞬で引いて行った、と同時に体のコントロールが急に僕に戻った。不意打ちを食らったように一瞬体のバランスを崩しかけたがなんとか転ばずに耐えた。周りに一礼すると僕はピアノの前を離れた。



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