(結)

文字数 2,170文字

昨晩はかなり遅くまでユイナさんと今日の打ち合わせをおこなった。約束通り、僕は学校が体調が悪いと部活を休み、私鉄の電車に乗って隣の市ではあるが県境を越えたところにある音楽大学に向かった。校門の前に着き辺りを見回すと、丁度道道路を挟んだ向かいにバス停があり、そこにあったベンチに移動すると腰を下ろした。そして囁くような声でユイナさんに話しかけた。
「ユイナさん、いるんでしょう?この場所で待てばいい?」
姿は見えなかったがすぐに耳元で応える声が聞こえた。
「ええ。彼は教室に居たわ…ありがとう約束を守ってくれて。」
僕は返事をする事が出来なかった、心の中がひどく乱れていた。彼女の願いは叶えてあげたい、でも願いが叶うと彼女は黄泉の国へ旅立ってしまう。霊とはいえ異性と心を通わせたのは初めての事だった。彼女とのこのつながりを消してしまいたくはない。でも恩空さんに彼女とのこの不思議関係を続けることは自分の命を削ることだと言われてから、実感はないものの漠然とした大きな恐れもあった。
「彼が来たわ。」
耳元でユイナさんの囁きが聞こえた。まとまらない考えを巡らすうちに時間が経ったのか辺りは暗くなっていた。見ると校門から一人の男性が出てくるのが見えた。僕は急いで道路を横切り男性に声をかけた。
「武田さんですか?」
「?どなたですか、どこかでお会いしましたか。」
「突然すいません、僕は飯田と言います。ユイナさんに頼まれてここにいます。」
ユイナさんの名前を出すと武田さんの表情は悲しみで歪んだ。
「ユイナ君は交通事故で亡くなったよ。君は誰なんだ?」
「信じてくれないと思いますが、ユイナさんは霊となってしまいましたが僕の隣にいます。」
「君は僕をからかってるのか?亡くなった人の名前を使って人をからかうなんて許される事じゃないよ。」
なんとかユイナさんの願いを叶えなくては。僕は必死に訴えた。
「武田さん、初対面の僕を信じてくださいとはいいません、でもユイナさんは信じてるでしょう?お願いです。ユイナさんの最後の願いを聞いてください!」
僕はそう叫ぶと勢いよく、そして深々と頭を下げて武田さんの返事を待った。
「…飯田君と言ったね、ユイナ君の最後の願い…聞かせてくれないか。」
僕は顔を上げると武田さんが静かな目で僕を見つめていた。
「ユイナさん、武田さんにピアノの演奏を聴いてほしいそうです。」
「霊になったレイナがピアノを弾くっていうのか?」
武田さんはやっぱりからかわれたと思ったのか声に怒気が加わった。
「レイナさんが僕に憑りついて、いえ僕の指を操って弾くんです。」
武田さんが僕の瞳を凝視する。僕はその視線を受け止め、視線を逸らすことなく武田さんを見据えて訴えた。
「ユイナさんは僕に言いました。私が弾けば武田さんなら判ってくれると!」
数秒の沈黙の後、武田さんの目から怒りの感情が消え、代わりに深い悲しみの色が浮かんだ。
「分かった、ピアノを聴かせてくれるかい。おいで。」
そう言うと武田さんはキャンパスの中に戻っていった。僕は武田さんの後を追った。

武田さんについて校舎の中に入っていくとある部屋の前にたどり着いた。ポケットから鍵を取り出すとその部屋のドアを開けた。武田さんは何も言わなかったが僕は武田さんの後に続きその部屋の中に入った。照明をつけると小さな部屋に大きなグランドピアノが1台置いてあった。武田さんは鍵盤蓋を開けると鍵盤の前から離れピアノの横に移動して言った。
「どうぞ。」
僕はピアノの前の椅子に座った。そしてユイナさんに話しかけた。
「ユイナさん、準備はいい?」
そして僕は目を閉じると大きく深呼吸した。なるべく少しでもリラックス状態が深くなるようにイメージを広げていった。そして急にそのイマージの中に温かい光が差し込んできた。前にも感じた〝同化〟が始まった。その光はだんだん大きくなり、気が付くと僕は目を開けて自分の指を見つめていた。これはユイナさんの意図する動きで僕はそれを見ているだけの状況になっていた。ユイナさんは武田さんの顔を少しの間見つめた。ユイナさんの切ない気持ちが伝わってくる。
「ヒカル先生、先生から最初に教わった曲、そして私に取って一番大切で、大好きな曲。」
そういうとユイナさんは鍵盤に視線を移した。ユイナさんに操られる僕の指が静かに鍵盤の上に置かれ、静かに演奏が始まった、あくまで静かにそして抒情的に。
その曲はとても有名な曲で僕は曲名は知らなかったがよく耳にする曲だった。
「…トロイメライ…」
武田さんがつぶやいた。演奏しながらユイナさんは時々武田先生に視線を送った。武田先生はとても驚いた表情をしていた。ユイナさんは視線を鍵盤に戻し演奏は続いた。ゆったりとした演奏の中でいくつもの情景が僕の心に次々と流れ込んでくる。武田先生がユイナさんにピアノのレッスンをしている情景が多かったが、二人で遊園地に行った時のものやプラネタリウムに行ったものもあった。どの情景でも武田さんがユイナさんを見る目はとても優しく、友愛に満ちていた。
演奏が静かに終わった。最後の音がまだ室内に余韻を響かせる中、武田先生の嗚咽が聞こえた。
「…この演奏はユイナ君の演奏、本当にユイナ君なのかい?」
ユイナさんが武田さんに視線を送った。ユイナさんの想いが僕の目から涙となって流れ落ちるのを感じた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み