呪術医 

文字数 1,087文字

 洪庵(こうあん)は、山あいの谷間を抜けた裾野にある小さな村の医者である。医者といっても症状を診て治療を行う正式な医者ではなく、呪術医である。

 洪庵は木枯らしが吹きはじめた日に、何の前触れもなく、よその村からこの小さな村に、少しだけの荷物とハチという名の秋田犬のような飼い犬を一匹連れて移住してきた。村の人達には自分は医者だと紹介した。村の誰もがここには医者がいないため大変歓迎したが、実は洪庵が呪術医だと知ると途端に態度が変わった。『今時、呪術医なんてねぇ……』という声がそこかしこで聞こえはじめ、診療を頼みにくるものが一人としていなかった。
 以前とは違い、今は外国の実用的な医学、医術が国内に持ち込まれ、このような小さな村でも呪術医を信じるものはいなくなっていたのである。
 
 しかしある日、洪庵のそんな状況が一変した。
 洪庵の診療所の近くに住んでいる喜助(きすけ)夫婦が洪庵を訪ねてきて、
「息子の太助(たすけ)が高熱をだし、一昨日から苦しそうに床に臥せっているので診てもらえないだろうか」と本意ではない様子で頼みにきた(太助はまだ二歳になったばかりの男の子である)それでも洪庵は、唯々としてすぐに喜助の家に診察に伺うと快諾した。
 喜助夫婦は呪術医というからには、施術は儀式のような大変仰々しい形式的なものを必要とし、時間のかかるものだろうと想像していた。しかし、実際は洪庵が太助の喉、額、頬、胸等に軽く手を当てて、聞き取ることができない小さな声でぶつぶつと独り言のように呟くだけであった。そのため、短い時間で施術は終了した。
「これで大丈夫。きっと二日ぐらいですっかりよくなる」と疲れた様子もみせずに言った。
 母親のキヨは疑りの目を洪庵に隠そうともせずに
「本当にこれで大丈夫なんでしょうか?」
「安心しなさい、じきによくなるから」
 洪庵はことさらに笑顔で答えた。
 それでも喜助夫婦は疑心暗鬼な様子で沈黙していた。洪庵はおもむろに立ち上がり
「それじゃあ、私はこれで帰ります」と伝え、間口に向かうと、そこで座って待っていたハチを見つけた。
「ごめんなハチ、家に帰ろう」
 ハチは疲れたような目付きで洪庵を眺め、立ち上がって一緒に帰っていった。

 診察から三日が経った日、喜助夫婦が顔色の良くなった太助を抱いて洪庵を訪ねてきた。
「先生、ありがとうございました。本当に太助が元気になりました」と笑顔で洪庵に言った。
「そりゃよかった」
 洪庵は平生と変わらない調子で答えた。
 夫婦はその後もたくさんのお礼を述べ、少しばかりの治療費を払い帰っていった。
 この日を境に、喜助夫婦から洪庵の噂が広がり、診察に人が来るようになった。
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