ヤブ

文字数 1,896文字

 洪庵は泣いている赤子を抱き上げあやしてみた。すると赤子は安心したように眠ったので、そのまま家に帰った。家に連れ帰ったまではよかったが、これから一体どうすればよいのかわからず途方にくれてしまった。洪庵はまるで赤子を育てた経験がなかった。すると突如として、赤子に対してすまない気持ち、己に対する情けない気持ちが表出し辛くなった。しかしこのまま狼狽えていても仕方がないと懸命に気持ちをたてなおし、赤子をゆっくりと布団にねかせ、しばらく思案した。すると二ヶ月程前、喜助夫婦に太助の次子にあたる男の子が産まれたことを、はっと思い出した。洪庵は羞恥心を捨て、喜助夫婦を頼ることにした。喜助の家は洪庵の家の近くであったので、赤子を抱きすぐに向かった。喜助の家に着くと、開いている扉から奥の座敷にいる喜助夫婦の姿が見えたので、間口に入り、「喜助さん」と声をかけた。すると、喜助と妻のキヨが間口の方に振り返り、
「これは、先生。先生の方からたずねてくるなんて珍しいですね」と喜助が言うと、夫婦はそろって間口に出てきた。するとキヨがすぐに洪庵の抱いている赤子に気が付き、
「あれ!? 抱いているのはまさか赤子ですか?」と洪庵にたずねた。
「実は裏の山の竹やぶに捨てられていたのを拾ってきました」
 洪庵は恥じ入りながら言った。
「拾ってきた? どうするおつもりですか?」
「私が育てようと考えています」
「育てる? 先生、本気ですか?」と喜助が言うと、
「四十もとうに過ぎている独り身の自分が大変ばかげたことをしようとしているのは重々わかっています。でも何とかこの子を助け育てたいのです」
「母親抜きでですか?」とキヨはたずねたが、洪庵は
「そうです」と頷くだけであった。
 喜助夫婦は散々に辞めておく方がよいと諭したが、
「一人ではどうしようもないので、どうか力を貸してもらえないか」と洪庵は頭をさげて頼むのだった。あきらめる気配の全くない洪庵に対して、喜助夫婦は一度座敷に戻り二人で話し合った。話し合いが済むとまた間口にきて、
「そこまで頼まれては仕方ありません。太助を助けて頂いたご恩もありますからお手伝いいたします」
 喜助夫婦は洪庵の必死の頼みを受け入れた。洪庵は何度も何度もお礼を言った。
「しかし先生、なぜこんなに一所懸命になるんですか? 何かあるのですか?」と喜助はたずねた。洪庵も不思議に感じていたことなので、
「自分でもよくわからないのです」と答えた。
「わからない?」
 喜助は少しあきれるように言った。するとキヨがよこから遮るように、
「先生、私にも赤子を見せてください」と洪庵から赤子を抱き取り、顔を覗き込みながら
「可愛いらしい子ですね。男の子ですか? 女の子ですか?」と微笑みながらたずねた。
「女の子です」
「名前は付けましたか?」
「まだです」
「じゃあ、今、付けてあげませんか」とキヨは楽しげに言った。喜助もキヨに賛同した。洪庵はしばらく考えたあと、
「それでは、長生きしてほしいという願いをこめてヤブというのはどうでしょうか?」と言うと、キヨが
「医者の子らしい良い名前です」と言って喜助と共に大変に褒めちぎった。

 洪庵は毎日何度も、ヤブの授乳のために喜助の家に通った。時には真夜中に通うこともあったが、キヨは嫌な顔一つせず、次男の次三郎(ジザブロウ)と兄妹のようにヤブを扱った。喜助夫婦の扶けをうけヤブはすくすくと育ち、二歳になる前にはキヨのもとに通わなくてもすむようになった。
 それからヤブが四歳になると、太助と次三郎の兄弟とよく遊ぶようになった。村の子供達とも遊びはするが、太助兄弟とは一緒に育ったからなのか特に仲良く遊んだ。ヤブは時々ハチも一緒に遊びに連れていこうとするが、その度にハチは拒否して付いていかなかった。また、ヤブはハチと遊ぼうと何度も触りにいったり、抱きつきにいったりするが、ハチはヤブから離れ逃げていき、全く懐こうとはしなかった。ヤブはその度に泣いたり、悔しがったり、怒ったりしたが、ハチの姿勢が変わることはなかった。
 そんな冬の黄昏時、村で騒ぎが起こった。お七というヤブより一つ年上の女の子がいつまでも家に帰ってこず、行方がわからなくなった。一緒に遊んでいた子供達は一刻も前には家に帰っていたようであり、お七もその時に家に帰ったとのことであった。村中の者で捜索することになった。三日三晩、近辺の山や川等を捜し回ったが、どこにもお七の姿を見つけることができなかった。唯一、お七が履いていたであろう草履の片方が田んぼの水路に落ちていた。お七の両親は憔悴し、母親は床に臥せるようになった。村では神隠しにあったと噂した。
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