⒊ 最果てで見た現実

文字数 1,156文字

 入院して1週間が経ち、感染症対策の『ひきこもり』も解けたので、病室を出て共有スペースを自由に利用できるようになった。

 ホールには本棚があり、そこにJ・K・ローリング著の分厚い2部作を見つけて歓喜し、大きな窓から見える空を眺めながら1人で読みに行くのが日課になった。

 病室から出れば他の患者さんと触れる機会もあるのだが、私はとても自分から話しかけにいこうとは思えなかった。
 ひきこもり中に扉の向こうから謎の奇声、怒声、悲鳴、警報音がほぼ毎日聞こえていたのだ。どんな恐ろしい人たちがいるのかと怯えまくっていた。

 実際、自動販売機に飲み物を買いに行ったら見知らぬおじいさんに
「昨日はどうもね! ……あ、違う人か! 違う人だ! 失礼、昨日の人と間違えた! 私、○号室の〇〇と申します、よろしくお願いいたします!」
と急に自己紹介され始め、私が面食らって固まっていると見かねた看護師さんが助けてくれたことがあった。

 だから、なるべく他の患者さんと関わらなくて済むように、独り隅っこで本を読むヤツとして『話しかけないでねオーラ』をビシビシ出していたのだが、あまり効果はなかった。



 退職する間際まで関わっていた案件で、それが世間に出るのを待たずして入院してしまった心残りがいくつかあった。

 その中でも特に思い入れのあるものの発売をこの目で確かめたくて、親に頼んで取り寄せて病棟に届けてもらった。

 初めのうちは、無事に発売に至ったことへの感慨深さに喜んでいたのだが、この商品の開発関係者として自分の名前が表に出ない事実に向き合おうとすると、
「開発までの過程に確かにあった自分の存在が無かったことになってしまった」
「そうなったのも、やっと叶えた憧れの仕事を手放したのも、全ては自分の弱さのせいだ」
という思考で頭がいっぱいになり、気づいたら病室で声を上げて泣いていた。

 堪らず両親へ電話をかけ、その商品はナースステーションで預かってもらうことになった。

 その日から、働いていた頃や、上司と社長に叱られる夢を見るようになり、目が覚めて、もう退職していることに気づいてホッとするやら切ないやら、何とも言い表せない気分で泣きながら過ごすことが数日続いた。

 今でもたまに同じような夢を見て、自分の執着心と傷の深さに驚く。

 また、同時期に夢の中で家族や友人に
「私は死にたかったのに!!」
と泣き喚いて目が覚めることも多くなった。

 入院時点では希死念慮はほとんど無く、ここまできて危険な行為に手を出そうという気もないと自覚していたのだが、夢で見るということは深層心理ではまだ消えていないことの表れなのではないかと不安になり、そういう夢を見た日はお昼頃まで引きずった。

 最果てまで来たところで、憧れを自ら手放した現実からは逃げられるわけがなかった。
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