第2話

文字数 10,849文字

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 十文字家の玄関前に立ってチャイムを鳴らすと黒縁の眼鏡を掛けた女性が姿を現した。ロングヘアを三つ編みにしてくくり左肩から胸へと垂れさせていて 目鼻立ちははっきりしており、美人と表現しても差し支えない、と神林は思った。
 「大濱双葉様、ようこそお越しいただきました。」
 女性は深々と頭を下げる。
 「小林さん、お久しぶりです。」
 大濱も軽く頭を下げた。
 「こちらお話していた葉山久留米さんとその助手の神林君です。」
 「葉山です、急な申し出にも対応して頂きありがとうございます。」
 葉山が微笑みながら小林に言った。
 「こちらは小林絵理香さんです、十文字先生の秘書をされています。」
 大濱が簡潔に小林の紹介を済ませた。
 「小林です。先生も葉山さんが来られるのを楽しみ待っておられました。こんなところで立ち話は躰も冷えてしまいますのでどうぞ中へ。すぐに温かい飲み物をご用意します。」
 そう言うと小林は神林たちを応接間へと案内した。玄関ホールから廊下を奥へと進んでいく。
 「今日、私達以外にもお客さんが来られるのですか?」
 廊下を歩きながら大濱は小林に尋ねる。
 「はい、大濱様以外にも他の出版社の方にご足労いただいております。」
 応接間へのドアに手を掛けながら小林は答えた。
 「中谷哲哉様、出口詩織様、池田多恵様に河邑モニカ様が すでにご到着されています。」
 応接間へと足を踏み入れると神林は視線が向けられているのを感じた。マントルピースの前に男性が一人、ワインレッドの3人掛けのソファに短い丈の黒いワンピースを着たショートカットの女性が一人、栗色のセミロングの女性が一人、思わず二度見をしてしまうアフロヘアの女性が一人いた。
 「大濱双葉様とお連れの葉山様、神林様がお越しになられました。」
 「へえ、やっぱりね・・・、僕よりも先に出口君がいたから何か嫌な予感はしたんだけれどやっぱりそうか・・・。」
 ぱっちりとした目の中谷は半ば落胆したようなトーンで言った。
 「あちらのビーバーみたいな男性が中谷さんです。」
 大濱が囁くような声で紹介してくれる。
 「ソファの奥から出口さん、池田さん、そしてアフロヘアの印象的な女性が河邑さん。」
 「確か大濱さんってS社だよね? こりゃあ厳しい闘いになるかもしれないなぁ・・・。ノンシリーズしか出していない出口さんのK社や日記だけの河邑さんだけだったら勝算は8割以上あったのに。」
 中谷は頭を掻きながら言った。
 その言葉に反応するようにあからさまに聞こえるような音で出口が舌打ちをした。
 「自社で出した作品が映画化されたからと言って調子に乗らないでもらえますか。」
 音を立ててハードカバー本を閉じると出口は中谷を睨んだ。
 「おお怖い・・・。」
 半分ふざけながら中谷は自分で自分を抱くように腕を回すと震えてみせた。
 「やっぱり今回、普段から縁のある編集が集められたのは例の話なのでしょうか?」
 大濱が質問を投げかける。
 「ま、十中八九そうじゃない? 十文字晴信、最後のシリーズをどこから出すのか。それ次第で僕たちの人生設計も大きく左右してくる。すでにヒットシリーズ、2作品を出しているのだから大濱さんのところが辞退してくれると僕的には有難いのだけれどさぁ・・・。」
 「そういうわけにもいきませんよ。」
 大濱は笑いながら言った。
 「それにしても大人数なんですね、大濱さん。」
 組んでいた脚を組み替えて出口が言った。どことなく妖艶な雰囲気のある女性だと神林は思う。モデルのような綺麗な顔立ちをしているが彼女に見つめられると自分が蛇に睨まれたカエルのように萎縮しているような気すら覚える。
 「以前、先生に私立探偵の知り合いがいるとお話をしたら是非、会ってみたいとおっしゃられていたのでこの機会にご紹介しようか、と思いまして。」
 「私立探偵?」
 つけ睫毛を何度か瞬かせて池田がまじまじと葉山と神林を見た。
 「作品の中ではよく会う職業だけれど、こうやって実際に私立探偵をしている人に会うのは初めてだなぁ。」
 中谷が感想を漏らす。
 「点数稼ぎのつもりかしら?」
 出口が嫌味たらしく言う。
 「そういう出口さんところも取材旅行や言うて、先生とフランスまで行ったんですよね?」
 アフロの河邑が言った。
 「うちの業績に貢献していただいた御礼を兼ねていたんです。」
 出口が頬を膨らませて言った。
 「探偵さんって 今まで不可解な事件に遭遇したことがあるんですか?」
 気まずい空気を払拭するように池田が明るく尋ねた。
 「いえ、主な仕事は素姓調査や浮気調査、たまにペット捜索ですね。」
 葉山が苦笑しながら答えた。理想と現実のギャップが激しい職業一位はおそらく私立探偵だろうと神林は思っている。葉山に雇われる前まで神林も中谷と同じような事を考えていた。警察も手を焼くような怪事件を一刀両断のもとに真相を究明し、犯人を捕まえる。はたまた謎の怪人の魔の手から深窓の令嬢を守る、と言った劇的な依頼は未だにお目に掛かったことがない。あるのは芸能記者のように時には同じ場所で何時間も張り込み、尾行対象者をカメラで撮影するといった地味な仕事ばかりだ。
 「僕も昔は一度、憧れたものですよ。」
 中谷は初めて会う私立探偵に興味津々で主に葉山にずっと話しかけていた。
 「他はどなたが来られるのでしょうね?」
 大濱が出口や池田、河邑に話しかけていた。
 「あとA社は横山君よね、きっと。」
 出口が左手の人差し指を立てた。
 「そういえばここへ来る途中に横山さんらしき人を追い抜きました。私は直接、顔を確認したわけじゃないんですけど。」
 「車は? 黒の国産?」
 河邑が身を乗り出すようにして言った。
 「多分、黒だったと思います、暗くてはっきりとはわかりませんでしたけど。」
 大濱は自信無さそうに答えた。
 「黒でした。しかもかなりの高級車です。」 
 神林が代わりに口を挟むように答えた。
 「それ絶対に横山だよ、担当している新人作家が全員、そこそこ売れていて羽振り良いらしいのよ、アイツ。あそこは映像化に強い作品ばかり狙って売っているからね。」
 出口が忌々しそうに言った。
 「やっぱり次のシリーズはうちで書いてもらって映像化狙うしかないわ。」
 銀色のワゴンを押して小林が応接室に現れた。ワゴンの上にはティーポットが二つと見るからに高そうなカップが人数分。
 「お飲み物を用意しました。皆さまもおかわりは?」
 「私は大丈夫。」
 「僕はコーヒーをもう一杯頂こうかな。」
 中谷が自身の持っていたカップを上へ掲げて言った。
 神林はコーヒーを貰った。ここが山頂の付近のためか、それとも原因が雨のせいかはわからないが温かいコーヒーが躰の中に染み渡るように美味しかった。
 「ねえ、小林さん。」
 カップに紅茶を注ぐ小林に中谷が話しかける。
 「十文字先生は? まだここへ来てから先生の姿をお見かけしていないのだけれど。」
 「先生は今、書斎に籠られて執筆中です。」
 小林の回答に 編集者たちが色めきたった。
 「もしかして次のシリーズの?」
 「私にはお答えいたしかねます・・・。」
 小林は肯定も否定もしなかったが あの答え方は肯定しているのとほぼ同意味ではないだろうか、神林は思う。それにしても・・・、神林は自分の腕時計で時間を見た。出口たちの話にも出てきた先ほど道中で追い抜いた横山はまだ来ないのだろうか、十文字が時間に煩いと教えてくれた横山自身がまだ姿を現さないのが不思議だった。
 訪問者が現れたことを告げるチャイムが鳴った。小林が玄関へと向かう。コーヒーを飲んでいると彼女がさきほど道中で見かけた男を連れて戻ってきた。
 「横山龍一郎様がご到着です。」
 「あれ、皆さんもお揃いのようで。ひい、ふう、みい、知った顔が五人に初めましてが お一人ですね。」
 横山はそう言うとまず葉山へと近づいた。
 「はじめまして、A社で十文字先生の担当をしている横山です。」
 彼はそう言うと名刺をすっとジャケットの内ポケットからマジシャンのような手つきで出して葉山へと手渡した。
 「葉山と申します。雨ヶ崎で私立探偵をしております。」
 「美人女性探偵現る、ですね・・・、もしかして先生の次作のモデルに?」
 「いえ、大濱さんの付き添いという形でやってきました。」
 「職業柄、探偵とはよく知り合うのですけど 世の中には本当にこんな美しい探偵が存在するんですね。」
 横山は白い歯を見せて微笑んだ。
 「ありがとうございます、褒められて悪い気はしません。」
 葉山が答えた。
 「それと先ほどは気にかけていただきありがとうございました。大濱君は運転をしないし、彼は助手席から現れたから運転手は貴女なのでしょう?」
 横山は神林のほうを一瞥して言った。
 「いえ、当然のことです。」
 葉山が答えた。
 「本当はね、もっと早くに到着してもよかったんですよ。でも、追い返されましてね。仕方なく時間を潰していたというわけです。」
 「追い返されたんですか?」
 大濱が驚くように言った。
 「ええ、けんもほろろに。しかも相当、先生を怒らせてしまったみたいですね。」
 「横山さん、何をしたんですか?」
 他人の災難を喜ぶように池田がにやけながら言った。
 「何もしていませんよ・・・、言ったでしょう?ただ時間よりも早く到着してしまっただけです。」
 横山がそんな中谷に呆れるように言った。
 「大事な時期に先生の心証を悪くされたんじゃありません?」
 出口も嫌味たらしく言った。
 「ええ、それについては上からもこっぴどく叱られましたよ。編集者たるもの約束の時間よりも早く訪ねてどうするんだ、とね。」
 「駄目なのですか?」
 神林は尋ねる。社会人たるもの時間を厳守するのはマナーの一つだと思っていた。確かに遅刻は責められるべきだろうが、早く到着をして怒られるというのは納得がいかない。
 「作家さんや、漫画家さんは締切ギリギリまで仕事をしている方が多いですからね、時間よりも早く現れるというのは嫌がらせと思う人もいるんですよ。」
 中谷が教えてくれた。
 「今回はプライベートな集まりだと思っていて油断しましたね。君は大濱君の次だ、と言われてあげてももらえませんでしたよ。でも、この辺りは時間を潰すようなところもないし、麓まで降りてまた戻ってきたというわけです。まあ、新しいラーメン屋を開拓できた事だけが救いですね。」
 横山は軽く肩を竦めた。
 「小林さん、先生の機嫌はまだ悪いかな?」
 「私には分かりかねます。」
 小林は小首を傾げて答える。
 「参ったよなぁ・・・、難しい人なんだ・・・、あ、ここはオフレコね。」
 両手の人差し指でバツ印を作りながら横山は苦笑いをする。
 「これで全員が揃ったんですよね?」
 池田が一同の顔を見まわした後で小林に言った。
 「はい、食堂でパーティの準備が出来ておりますのでどうぞそちらの方へ皆さま、移動をお願いします。」
 小林が頭を下げた。
 「パーティ?」
 中谷が驚いたように言って出口や池田、それに河邑を見る。しかし三人とも首を横に振るだけだった。何も聞かされていなかった、ということだろう。
 「えっと先生の誕生日だったっけ?」
 横山がスマホを片手に小林に尋ねた。おそらく十文字晴信の誕生日を調べているのだろう、と神林は思った。
 「十文字先生の誕生日は十二月二十三日ですので違いますね。」
 横山の問いに答えたのは意外にも葉山だった。
 「ですよね、少し焦りました。」
 横山は歯を見せる。
 「でも、よく知っていましたね、葉山さんは十文字先生のファンですか?」
 「いえ、訪問する方のことを調べておくのは基本ですから。とは言っても著作のプロフィール欄に書いてあったことを憶えていただけですけど。」
 葉山は事もなげに言った。
 「大濱さんのところの主催?」
 出口が聞く。 
 「いえ、うちも違います。三十周年記念の企画はしていましたが・・・。」
 大濱も困惑しているようだった。
 「お祝いを何も用意していないんですけど、誰か持ってきてはります?」
 河邑が聞いた。彼女の質問には皆が首を横に振った。その結果で全員が安堵する。
 「だったら一体、何のパーティなんでしょうね・・・?」
 池田が呟いた。
 「まあ、ここで考えていても仕方がないし、会場である食堂にいけば何かわかるでしょう。」
 中谷が楽観的に言った。
 確かにそうなのかもしれない、神林は思った。ここで悩んでいても訪問前から時間をやり直せはしないのだから考えていても仕方がない。それに元々は部外者なのだから大濱達のように余計な気を使う必要がない分、神林や葉山は楽な立場だった。
 応接室を出てパーティ会場と称している食堂へと向かう。突き当りの扉を抜けた先がダイニングとリビングが隣り合っている広い部屋だった。十人以上が囲んでもまた余裕のある長いテーブルの上には赤い液体の入ったワイングラスが十名分用意されていた。小林はパーティと言っていたがテーブルの上にはグラスに入った飲み物だけで食事は一切、用意されていなかった。これから運ばれてくるのだろうか、神林は思う
 中谷がグラスを見て口笛を軽く吹いた。
 「コンティですかね?」
 「私はラフィットだと思う。」
 「どちらにせよ、先生の秘蔵コレクションが飲めるのだから今日はツイていますよ。」
 中谷は出口と会話を交わしてにやける。
 おそらくグラスに入っているのはワインなのだろう、神林はグラスの形状から見てそう判断した。丸味を帯びたボディから一本の細い脚が伸びていた。注がれている量はグラスの三分の一にも満たない量。お酒を飲める年齢ではあるけれど普段、飲まない神林にとっては未知なる液体でどういう物か想像はつかなかった。ただ中谷と出口の反応を見る限りでは美味しいのだろうな、ということは分かった。
 扉が開く音が聞こえて全員がそちらの方を向く。緩やかな空気だった六人が一点して緊張感に包まれたのが神林にも分かった。現れた人物は額が広く大きく目が開いた気難しそうな人物だった。細身の躰にシャツを着てその上に黒のカーディガンを羽織っている。作品を読んだことはないがそれが十文字晴信だと神林にもすぐに分かった。
まっすぐにテーブルの上座へとその男性が着席すると ばらけて立っていた大濱を始めとする六人の編集者がまるで最初から席が決まっていたかのようにテーブルを囲んで着席する。神林と葉山は十文字から一番遠い席に向かい合うようにして座った。
 「今日は遠いところ、しかも天候も悪い中、足を運んでもらってすまないね。」
 しわがれた声で十文字が言う。
 「いえいえ、何をおっしゃいますか、先生。先生が来いとおっしゃるのなら僕は例えそこが地球の果てでもすぐに参じますよ。」
 中谷があからさまなお世辞を言う。
 「君のそういうところは たとえ冗談であっても嬉しいものだね。」
 十文字が目を細めた。
 「冗談ではなく真剣です。玉稿を頂けるのなら たとえ火の中、水の中でも僕は命を賭けますよ。」
 「さて今日は私のたっての希望で特別なゲストをお招きしている。」
 十文字がテーブルの端に座る葉山と神林を見た。
 葉山が椅子から立ち上がってお辞儀をする。神林も彼女に倣った。
 「葉山久留米と申します、こちらはアシスタントの神林です。」
 「はじめまして、十文字です。今日は顔見知りばかりの気心のしれた集いですので そう緊張されませんように。また後程にでもお仕事の話など聞かせてもらえると大変ありがたい。」
 「お役にたつかわかりませんが是非。」
 葉山はそう言うと再び椅子に着席をする。
 「それではみんなとの久しぶりの再会、そして初めての方との出会いを祝して乾杯しようか。」
 十文字が誰よりも先にグラスを手に取った。その後で全員がグラスを手に取る。
 「乾杯。」
 静かだがよく通る声で十文字はそう言うとグラスを少し上へと掲げた。スワリングをして香りを楽しむ者や口に少し含んで鼻に抜けるワインの香りを楽しむ者と味わい方は様々なようだ。神林はワインを嗜んだことがないので乾杯の音頭のあとで 恐る恐る口に赤い液体を含んだ。なんとも表現のしようのない香りが鼻に抜ける。葡萄酒はブドウジュースの延長線上にあるものだと勝手に決めつけていたが似ても似つかない。苦味にも似た渋さだろうか、とりあえず美味しいと思えるものではなかった。ただ自分を除く全員が口々に樽香がどうだとか、テロワールだとか聞いたことのない言葉で褒めちぎっているのを聞いてこんなものなのだと理解した。
 小林が円形の大きな皿の上に小さな料理を乗せて運んできた。クラッカーの上にチーズとキャビアらしき黒い粒粒が乗っているものや、サーモンが乗っているものだった。どれも一口で終わりそうな物ばかりだ。適度な塩気があって味付けは美味しいとは思うがワインに合うのかどうかはわからない。とりあえず自分に注がれた分のワインだけは飲み干してあとはソフトドリンクでも貰おう、そう考えて神林はグラスの中の液体を一気に飲み干す。
 暫くは十文字を中心に雑談に終始していた会話だったが空になったグラスを置くとおもむろに彼が口を開いた。
 「さて・・・。」
 十文字はテーブルにつく全員をゆっくりと見回す。
 「今日、ここに集まってもらったのは他でもない・・・。」
 「先生、もしかして新作の構想が・・・?」
 中谷が例の噂を払拭させるかのようにお調子者らしく言った。そんな彼を十文字は視線だけで黙らせる。
 「みんなも聞き及んでいるとは思うがそろそろ私は引退をしようと思う。」
 六人の編集者の間にどよめきが起こった。ウェブ上の日記にもすでに書かれていたとはいえ、やはり当人の口からその言葉が出るというのは やはり衝撃的なのだろう。
 「理由を聞かせていただいてもかまいませんか?」
 横山が低姿勢で尋ねる。
 「もともと小遣い稼ぎが出来れば良いと始めた仕事だったが自分でも予期せぬくらい充分すぎるくらい稼がせてもらった。それもひとえに私を支えてくれた君たち編集者や 拙い私の作品を読んでくれた読者の皆のお陰でもある。だからこそここ数年はその恩返しも兼ねて仕事を続けてきたが もうそろそろ充分に恩を返せたように思う。あとはゆっくりと余生を過ごしたいのだよ。」
 「勿体ないですよ。」
 池田が言う。
 「十文字晴信の作品は広い層に支持されています。実際に私が編集者になったのも先生の作品を学生時代から読みふけっていたからです。引退するなどと言わないでください。」
 「ありがとう池田君。しかしもう決めたことだ。君もよく知っているだろう、私は私の予定を狂わされるのが嫌いだということを。」
 十文字は孫娘のように歳の離れた女性を優しく、だが有無も言わせない口調で諭した。
 池田もそれを察してかそれ以上は何も言わなかった。
 「しかしまだ連載中のエッセイがあります。」
 出口が言う。
 「うむ、契約はまだ数か月は残っているね。もちろん今すぐに連載終了というわけにもいかないので期間満了まではその仕事も続けるつもりだし、もともとその後、書籍化もする予定になっているのだから正式に引退は二年後を目途としている。今後 新しい仕事などは受けないつもりでいる、ということをみんなには先に伝えておきたかったのだよ。もちろん勝手な言い分であることは承知している。だから君たちにはささやかなプレゼントを私から用意しておいた。」
 「プレゼント・・・ってまさか・・・?」
 想像がついているのに中谷は敢えて惚けた様に言った。思惑通りに事が進んで嬉しいのか白い歯が見えていた。
 「私の作家人生の集大成となるシリーズとなるだろう・・・、まあお気に召すかはわからないけれどね・・・。さきほど書き終えたところだ。」
 6人から感嘆の声が漏れた。
 「シリーズと言われるからには何作品か書かれるつもりなのですね?」
 出口が色めきたった。
 「すでに10作品書き終えたところだ。ここ数か月でかなり筆が進んでね。一気に書き上げてしまった。」
 十文字ははにかむ。
 「是非、拝読させてください。」
 池田が請うように言った。
 「私もお願いします。」
 河邑も負けじと言う。
 「もちろんまずは読んでもらう必要はあるし、それが商品として成り立つのか見極めてもらわなくてはいけないけれどね・・・。困ったことに渡せるのは6人の中のたった1人という点なのだよ。もちろん全員にはお世話になっているが全員に渡すというわけにはいかない、なにせシリーズ物だからね。だからゲームをしようと思う。今から行うゲームの勝者にその作品を渡す。それで構わないだろうか?」 
 十文字はゆっくりとその場にいた全員を見回した。
 「ゲームですか・・・?」
 中谷が恐る恐る聞き返した。
 「ああそうだ。私は自分の遺書とも呼べる最後の作品を心から私を愛してくれるビジネスパートナーに託したい。」
 「もちろん僕は先生を敬愛していますよ、ここにいる彼らもおそらく僕には劣るが先生や先生の作品を心から愛している者ばかりです。面白いじゃないですか、先生の最後の作品を賭けてここにいる6人でゲームをする。もちろん得手不得手はあるでしょうけれど じゃんけんで決めるよりはスリリングだ。それで一体、どんなゲームで決着をつけさせようというのですか?」
 「なぁに簡単なことだよ、私の書斎にある金庫、その中にある原稿を先に手に入れた者にそれを進呈しよう。」
 「金庫を開けるだけ・・・?」
 中谷が呟いた。
 「つまりその金庫を開ける番号を手に入れて原稿を手にした者が勝ちというわけですね?面白い、やる気が出てきましたよ。」
 「それでその金庫の番号というのはどこにあるんですか?」
 河邑が尋ねる。
 「それを探し出すのが君たちに課せられたゲームだよ。」
 十文字が言う。
 「制限時間は残り1時間というところだろうかな。」
 大作家は人差し指を一本立てて言った。
 「制限時間まで設けるのですか? もし誰も手に入れることが出来なかったら?」
 大濱が聞いた。
 「ここにいる全員が死ぬことになるだろうな。」
 「まあ、ある意味そうですよね・・・。」
 池田が引きつったように笑った。
 「いや、文字通りの意味だよ、池田君。さきほど飲んだワイン、そのグラスに毒を仕込ませてもらった。即効性ではないが解毒薬を飲まなければ確実に死ぬ。」
 「嘘・・・ですよね・・・?」
 河邑が聞く。
 「残念ながら本当の話だよ、河邑君。」
 「ちょっと待ってください。そんな事、許されるわけがないでしょう?」
 大濱が叫ぶように言った。
 「もちろん許しを請うつもりなどない。私はね、その作品の中でたくさんの人を殺してきた。だが書けば書くほどその説得力の無さを自分自身で痛感したのだよ。人を殺したことのない私の書く文章には説得力はない・・・、書けば書くほど嫌になってくる・・・。」
 「だから引退しようとしていたわけですか?」
 葉山が落ち着き払った口調で言った。
 「ああ、その通りだ。もちろん君たちだけを死なすことは絶対にしない。君たちが助からなかった時は私も一緒に死ぬ。もし君たちが助かったのなら私は人を殺そうとした経験をもとにもしかしたら 今以上の作品を造り上げることが出来るかもしれない。そうなれば引退も考え直すかもしれないね。君たちにとっては喜ばしいことだろう?」
 十文字は無邪気に微笑んだ。その狂気にも近い彼の表情に神林は恐怖を感じる。それと同時に毒と言われたからなのか、さっきよりも気分がすぐれない。こんな事なら自分を騙してまでワインなど飲むのではなかった。
 「そもそも解毒薬はどこに?」
 「原稿と一緒に金庫の中にしまってある。もちろん人数分あるので誰か一人だけ助かるということではないから安心したまえ。」
 「最悪・・・。」
 中谷が先ほどまで敬意を払っていた態度が嘘みたいに悪態をつく。
 「じいさん悪ふざけも大概にしろよ、とっとと解毒薬を出せ。」
 彼は掴みかからん勢いで十文字晴信へと近づいた。十文字の胸ぐらを掴もうとした中谷を横山が制止する。
 「追い込まれた時こそ人間はその本性を露わにする。そうだ、もっと私に上辺ではない、本当の君たちを見せてくれ。」
 恐れることもなく十文字は歓喜にも似た声で言った。
 「狂っている・・・。」
 出口が言う。
 「狂ってなどいない、私は至って正常だよ。」
 十文字が煙草を取りだして火を点けた。
 「僕らが失敗すれば先生まで死ぬのですよ?」
 横山が説得を試みた。
 「死ぬことなど怖くは無いな、ただ一つ残念なことは死の迫りくる感覚を言葉にして残してやれないという点だ。」
 十文字の言葉を聞いて横山が頭を振った。何を言っても無駄だと悟ったのかもしれない。
 「そんな事よりも早く金庫を開けなくていいのかな? 確実に君たちの命のタイムリミットは迫っているのだよ、ここで悠長に押し問答を続けている暇などないはずだ。まあもちろん私と一緒に死にたいというのなら話は別だけれどね。答を導き出す為に必要なものをすでに君たちは所持している。私から言えることは以上だ、諸君の健闘を祈る。そして出来るならば向こうでもまた私の道楽に付き合ってもらえると幸いだ。」
 十文字は煙草をくわえたまま喉で笑った。
 「とりあえず金庫へ向かいましょう。」
 狂気に飲み込まれて沈んだ空気の中で葉山が皆に言った。
 「私の経験上、金庫の番号は金庫と一緒に保管されていたりするものです。書斎はどこですか、十文字先生。」
 「書斎なら2階の東側の突き当りの部屋だ。階段を上がって右に曲がった先。まあ頑張りたまえ、葉山君。」
 「そうですね、まだ死にたくはありませんから、頑張りたいと思います。」
 葉山は呑気に答える。
 「それよりも先に救急車は? 病院に行けば解毒薬くらいあるだろう?」
 呑気にしている葉山に苛ついてか中谷が声を大にして言った。
 「ここまで麓から片道30分、往復にすると1時間は掛かる距離ですからね、先生の言う通りリミットが1時間なら救急車を呼んでも無駄です。搬送中に全員お陀仏でしょうね。それと解毒薬にしても私たちがどんな毒を飲んだのか分からない事には何を飲めば中和できるのかわかりません。やっぱり金庫を開けることが助かる近道かと。」
 「クソ、助かったら覚えていろよ、十文字。」
 中谷が我先にとダイニングを飛び出していき書斎へと向かった。彼が引っ張るような形でぞろぞろと小走りで出口、池田、河邑と続いていく。 神林も後を追おうと速足になると葉山が呑気に背後から言った。
 「神林君、激しい運動は血のめぐりがよくなるので早く死ぬかもしれないよ。」
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