Episode1 街と歌 §1
文字数 4,665文字
「……」
鼻をつく焦げた臭い。永い眠りから目覚めたように彼女は何度も瞬きをする。
淡い桃色の髪が揺れる。しかしその身には埃のひとつもついていない。
長く眠っていたと感じながら、どうやらここに来たのはつい最近のようだった。
「……っ」
目を醒まし身を起こした彼女は同時に自身の使命を認識した。
説明のできない感覚。それは例えるなら、
――世界から悲鳴が聞こえる。
彼女は声に応えるように立ち上がった。
まだ、自分の名前すらわからない。けれど彼女は理解する。
世界が望み、どういうわけかそこにあった何処か遠くの英雄譚の因子が応えて“
イストリアスは物語の守護者。すぐに世界を脅かす気配を感じる。
覚束ない足取りで瓦礫を避けながら廃墟と化したビルを出て灰色の空を見上げると思わず咳をした。
見渡せば黒煙を噴き上げ、そうでなければ煤けた傷つけられた建造物が目に入った。
「ひどい……」
ふらつく足を叱咤し少女は歩き出す。
アスファルトは捲りあがり、穴が空きただ歩行するだけでも難しかった。
宛処なく彷徨うようにして進むと数人の男女が慌てた様子で走り抜けていくのが見えた。
「逃げろ!止まるな!」
「追いつかれる!追いつかれるゥッ!」
「待って!行かないでェ!」
悲鳴が上がる。その背を黒い獣の群れが追いかけていく。
「ひ……いぃ……!」
婦人が足をもつれさせ転んでしまう。
声も上げられず縋るように手を伸ばすが先行する者たちは振り返らない。
「た、たす……っ」
次の瞬間に自身に降りかかる災難を悟り、震える。
絞り出した声はとても届きやしない。無意識に頭を守り縮こまる。
こうなれば無抵抗の餌でしかない。
犬
が吼え一斉に獲物に襲い掛かった。「こンの……ッ、させるか!」
刹那、少女の足元が弾ける。
弾丸のように旋風を纏いながら駆け、飛び掛かった一頭にぶつかり吹き飛ばすと身を翻す。
同時に次の二頭を横凪にまとめて一閃。犬は煤のようになって霧散した。
彼女の手にはいつの間にか棘の付いた一振りの長剣が握られている。
「ケガはない!?」
恐る恐る守りを解いた女性はその声の主を見上げる。
「あ……あの」
「ケガ!」
「あ、ありません!」
少女の怒鳴り声に体を跳ねさせて返事をすると彼女は頷く。
「よしっ」
剣を正眼に構え瞳の奥で桜のような光彩がぐるりと犬を数える。
まだ少なくとも十数頭。人を守りながら単独で戦えるとは思えない。
何よりも彼女はまだ
寝ぼけていた
。剣に重みを感じる。
それは当然のことだが、
目覚めたばかりだからなのか、あるいは
「ここは任せて。なんとか引きつけて離れるからキミは逃げて」
「で、でも」
「さっきの人たちを追って!足手まとい!」
「っ!」
犬たちを切り伏せたことで獣は少女に釘付けになっている。
「……ありがとうございます!」
小さく掠れた声で礼を言うと女性は何度も挫けながら立ち上がり駆け出した。
(折角助けたんだから無事でいてよね!)
動きに反応して追おうと黒い獣の一匹が注意を移した瞬間、その体が真横に飛びそのまま転がる。いち早く気づいた少女が投げつけた剣が横っ腹に深く突き刺さっていた。
灰になり消えた体から投射された剣が地面に転がる落ちる寸前に滑り込んだ少女が剣を拾い上げると滑りながら身を翻し飛び掛かる群れを数頭まとめて切り払う。
(へえ、力、強いじゃん!ラッキー!)
剣は重いがそれでも振れるぐらいには筋力があることを自覚する。
片手で地面に指を立てて速度を殺すと振り返りながら剣を肩に担ぐようにして立ち上がる。
(でも長引くとまずいかな)
剣を構え、もう一度敵の数を数える。
「……はー?」
思わず声が出る。獣が次々に吼え、それに呼応するかのようにずらずらとどこからか獣が集まってきていた。
(引きつけるなんて言ったけどさ。普通に倒し切るつもりだったんですけど……?)
少女は人気のない道へ駆け出す。
その後ろを一匹残らず獣たちが追いかけてくる。数が多すぎて地響きが起き、まるで濁流のようだった。
「ちょっとちょっと!多すぎるんだけどーっ!?」
時々追い付いてくる獣を斬り伏せながらとにかく人通りや気配を避けて走る。
片手間で戦っていたのでは減るはずもない。
(なんで馴染まないの!?)
依然剣は重い。こんな状態で戦っていては体力が削れる一方だ。
本来であれば自身の得物は手足のように扱うことができるはずだ。
差支えあるほど重さの影響は受けないはずなのだ。イストリアスとして目覚めた彼女はそれを知っている。だが剣はまるで馴染まない。
それどころか走り続けているだけで疲労が蓄積していく。疲れ知らずというわけではないものの戦士として生み出されるイストリアスがこんな短時間で疲労に喘ぐこともないはずだ。
(ああ、もう!なんで!)
思わず舌打ちする。と、つんのめりながら彼女は急停止する。
嘘……。声が出る。ゆっくりと振り返る彼女の背には滑落した道路があった。
深く巨大な穴が進行を遮っている。その深さは底が伺えない程には深い。エラーだらけの状態で飛び込もうものならどうなるかわかったものじゃない。
「サイアク……っ!」
やるしかない。震える膝と腕を気合で抑えつけて構える。
(改めて……なんなのこの数!)
ざっと五十。どこもかしこも獣だらけで、獣臭さの代わりにその毛色そのままの煤の臭いが辺りを漂っている。
「やってやろうじゃない……!」
威嚇するように息を深く吐いて群れに飛び込む。
万全でなくともイストリアスだ。力任せに暴れまわり次々に獣を討ち倒していく。
何度も爪で引っかかれ、牙を立てられて傷を負いながら確実に数が減っていく。
それでもやはり数には敵わない。倒れないことが不思議だった。
(さすがに……限界……!)
足が絡まる。ステップが乱れる。腕が下がる。
呼吸もままならず眩暈がしてくる。
(目、覚めたばっかりなのになぁ……)
不意に背中に体当たりを受け、反射的に頭を抱えて守るが全身を地面に叩きつけられながら激しく転がっていく。剣が手を離れて群れの中に落ちた。
「っぅ……」
ふらつきながら体を起こして膝立ちになる。
右腕を掲げると光が集まり像となってやがて落とした剣の形となる。
「これは、できるのね」
群れの中からは離れたはずの剣が消えていた。
イストリアスの武器は彼らの手足だ。たとえ離れてもすぐに再召喚できる。
剣を杖にして立ち上がる。が、もう疲労と全身の痛みで立っているのがやっとだった。
「くっそぉ……」
群れの残りは僅か。少女は善戦した。
だが、間もなくその短い物語は終わる。自身の名も、自身の正体も、因子に向き合うこともできないまま世界からほんの少しの脅威を減らした程度の英雄譚を残して。
「悔しい、なあ……」
最後の力を振り絞ってほとんど上がらない腕で剣を構える。
せめて、あと少し。一秒でも長く生きるために。
獣が咆哮し一斉に突っ込んでくる。
少しでも多く、迎え撃つ。奥歯を噛んで大きく傷ついた足を踏み出す。
「させるかぁァ――――――ッ!」
そんな悲鳴に似た声を聞いた。
群れの奥から響く声。次の瞬間、閃光が閃いた。
爆音。小爆発が獣たちを吹き飛ばす。
「……っうううう!」
何が起きたのか理解ができない。
獣たちが爆ぜてできた空間。煤が舞う中、黒髪の少年……少女?が立っていた。
「いった――ッ!自分にも衝撃くるじゃんこれぇ!」
手を抑えてなにやら騒いでいる。
「手ついてる……?ついてる!よかったぁ……」
「え、えっと……」
少女は駆け寄ると、
「キミ無事!?逃げるよ!」
「ぶ、『無事?』はこっちのセリフなんだけど……ちょっ!」
急に腕を掴み少女は走り出す。
しかし走れるはずがない。倒れる!そう思ったが、不思議なことに満身創痍だったはずの体がすっと軽くなった。
「へ……?」
携えた剣から重みが消える。
直後。彼女の中に解き放たれたようになにかが込み上げてきた。
(これ……)
それは情報、物語、想い。彼女の中に眠る“因子”と呼ばれるもの。
彼女を構成するある種の在り方。
「うわ!」
声を上げて急に方向転換され意識が引き戻される。
腕を引かれるままついていくとその背中からまたわいてきた獣が群れに合流して追いかけてきた。
路地裏に逃げ込んで倒せそうなものを手当たり次第に引き倒し進路を妨害しながら二人はやがて開けた空間に出る。
「しまっ……!」
――行き止まりだ。
「使える
なにやら体をまさぐっていたが諦めたように放棄されていた鉄パイプを拾い上げる。
「あのさ」
「え、な、なに?」
「絶対に守るから」
少女はその言葉に目を見開く。
追いついた獣たちがじりじりと距離を詰める。
鉄パイプを握りながら深く腰を落として不器用に構える。
その姿だけで戦闘が不慣れなことが見て取れる。けれど一歩も退く様子はない。
「勝負だあああ!」
鉄パイプを振り上げて突っ込む。
振り下ろした一撃はわずかに獣を怯ませるがまるで効いている様子はない。
(この子、弱い!)
体当たりを受けて尻もちをつきその機を逃さずに畳みかけられる。
必死に抵抗するが鉄パイプも徐々にへしゃげていく。
「ば……!」
我に返り少女は剣を手に取ると鉄パイプを齧る獣を斬り飛ばす。
「ありがとう!」
「こ、この……!」
笑顔で礼を言われ面食らうと、次に怒りと呆れが湧いてくる。
肩を震わせながら敵に向き直る。
「ろくに戦えないのに、なんで……」
「戦えなくても囮にくらいにはなれるから」
立ち上がると歪んだ鉄パイプを構える。
少女は剣を強く握る。もう枷は感じなかった。
「ここは任せて」
「そんな……キミ、ボロボロじゃない!」
少女は首を振る。
「心配しないで。多分平気になったから」
「で、でも」
「それと、キミじゃないわ」
確かめるように目を閉じ、そしてゆっくりと開く。
全身が淡い輝きを放ち、まさに羽化するように少女の姿が変容していく。
その頭と背から蝙蝠のような翼が生え、するりと鋭利な尾が伸びる。
その姿はまるで悪魔のようだった。
「ルカは……」
群れに向かって突進する。先ほどよりも疾く強烈な風を纏いながら飛ぶように……いや、飛びながら軽々と剣を振り回し、血の代わりに黒い煤を辺りに散らしながら群れを蹂躙する。
打って変わって獣たちを圧倒していく後ろ姿に呆然とする。
ついに残りは一頭。慌てて逃げようとするその背中に投擲された剣が深々と刺さった。
少女は灰の山から剣を抜くと肩にかけ振り返った。
「ヴァルカメルガ・アストライザ。イストリアスだよ。キミもでしょ」
ヴァルカメルガ。それが自覚した彼女の名だった。
はっと我に返り慌てて名乗り返す。
「ぼ、僕はユア・フォーランド・イストリア」
ヴァルカメルガはユアの元に歩み寄ると手を差し出した。ユアもその手を握り返す。
「なんとなく感じてたけど、やっぱりキミもイストリアスだったん……ってなにしてるの」
気付いてユアは眉を寄せる。
ヴァルカメルガはユアのつま先から頭まで品定めするように見回していた。
しばらくして手を放し、そしてほうとため息をつく。
「えっと……?」
「ふふ。なんでもない。それより」
「へ?」
訝しむユアにヴァルカメルガは顔を寄せる。それから。
「これからよろしくね、ダーリン!」
そう言って彼女は笑った