Prologue 過去か、未来か。
文字数 6,208文字
——過去か、未来か。
為す術なく世界が壊れていく。
広大な部屋を囲むように収められた無数のイストリアを記した書が、夜空を映す天窓が、部屋を照らす結晶の光が次々に抉れ、割れ、砕けて崩れ落ちる。
黒い木の根のようなものが至る所からあらゆる守りを突き破り急速に伸びて、蛇のように這いずり動くたびに築かれたものを蹂躙していく。
あまりに巨大で暴力的で。その進路に立っていたならこの体は跡形もなく擦りつぶされるだろう。
非力を嘆く余裕もないまま、ただ茫然と見殺しにするしかない。
強い力で腕を引かれて大きく後退したところで一瞬前まで立っていた場所を根が轟音を立てながら通過した。
「しっかりして!逃げますわよ!」
桜色の髪が揺れたかと思うと彼女にされるがまま引っ張られ、そこでやっと事態を理解した。
一度動き出せばあとは本能に従って足は動く。
駆けだした二人の背中を追い立てるように時に壁や地面に潜り突き出しながら黒い追跡者が迫ってくる。
彼女の足は随分早い。引っ張られる力を頼りに必死についていく。
何度ももつれそうになりながら、呼吸はまるでリズムなど無視して。息が肺から荒く抜けていくような感覚を覚えた。喉奥が甘く焼けるようで吐き出しそうだ。
唐突に少女が足を止め、つんのめる。その体を片腕で支えながら少女は青い瞳で天井を睨むと空いた手を突き出す。その手には宝石の刃を持つ剣。
直後刃が火花を散らした。決して長くはない刃が天井を突き破り落ちてきた根を滑らせるように防ぐ。細腕一本で受け流していた。
その光景はあらゆる理を裏切る常ならば成立しないもの。
だが、彼女は‟普通の女の子”ではなかった。
妹を支える腕の手の中には宝石。それは赤い光を放ち少女の力を増幅している。
彼女——ミスティー・クレイスのクラスは
所持している様々な宝石には魔力が込められ、彼女はそれを引き出し様々な現象を発動する魔法使いだった。赤い輝きはルビー。その魔力は筋力を強化する。
とはいえミスティーは元々腕力や握力が強いわけではない。思わず眉を顰める。やがて襲撃を防ぐ刃の切っ先が大きくぶれ始めた。
「……姉さんっ」
腕の中の少女は思わず声を上げる。心配させまいとミスティーの妹を支える腕の力が強まる。
応えるように少女もミスティーを支えるように踏ん張る。
なんとか堪える——ッ!
だが二人の想いも空しくその背中を貫かんと……いや、擦りつぶそうと根が伸びてくる。
『っ!』
衝撃を覚悟して二人は目を細める。
しかしそれは二人に届くことはない。
「エン・ファイアッ!」
少女の叫びと共に掘削音よりも巨大な音を立てて二人の周囲の根が爆発によって吹き飛ぶ。熱風が吹き荒び、収まると紫のローブがひらりと二人の前に舞い降りた。
「ミッティー姉様!ユア!」
「ダイスちゃん!ナイスですわ!」
ミスティーの妹、
「平気?」
「ええ、私もユアちゃんも無事ですわ。ダイスちゃんは?」
「大丈夫!おやつ邪魔されてちょっと怒ってるけど」
ミスティーに撫でられ、ダイスの猫科の耳がくすぐったそうに動く。
焼けた根が逃げるように元来た穴へと潜っていくのが見え、ミスティーはユア・フォーランド・イストリアを支えていた腕を離す。
「姉さん、あれ!」
ミスティーの腕から離れた妹、ユアはなにかに気づき指さして叫んだ。
そこには空間に浮かぶように出現した光を放つ裂け目。
「あれはお母様がおっしゃっていた……」
「第四世界に繋がる道……かな?」
二人は首を傾げる。しかし思考している暇はなさそうだった。
また次々に地面が捲りあがり根が伸びてくる。三人は慌てて裂け目へ駆けだす。
しかし行く手を縦横無尽に出現した根が格子状になり遮られ足止めを受けてしまう。
ミスティーが宝石剣を突き立てるが切っ先がわずかに沈んだだけでびくともしない。
ダイスも杖を振りその結晶から火球を出現させて叩きつけるが今度は退いてくれそうになかった。ユアも思い出したように懐から輝く紙片を取り出すが、
「そろそろ追いかけっこも終わりかしら?」
どこからか撫でるような笑みの混じった女の声が聞こえて僅かに躊躇う。
破壊の限りを尽くしている声の主は‟黒い女”と呼ばれ警戒されていた。
彼女が観測されたのはユアたちが生まれる前の話。それ故にそれが脚色などない伝え聞いた通りの脅威であったことを身をもって知ることになった。
気味の悪い優しい声は心臓を直接撫でるようで血の気が引き震えがくる。
力量など測るまでもなく圧倒的だ。まったく太刀打ちできない。
直感する。彼女は遊んでいるのだ。出現させた根は弄ぶように伸び、追い詰めはしているが致命傷にはならない。きっと本気で命を奪おうとしたならこんな戯れは一瞬で終わる。
「終わりにしましょうか。余興にしては物足りなかったけれど」
所詮はイストリアスね。彼女の声は続き、根は触手のように蠢いて聳え立つ。三人は釘付けになった。ミスティーとダイスも足が強張り動き出せない。
「あ……」
根が沸騰した。表面に腫瘍のようなものが現れ、それらは裂け開いていく。
目だ。赤い目が無数に根に現れ三人を睨む。声が出ない。
ミスティーの突き立てたままの刃が震え、傍らのユアはすっかり力が抜け紙片を取り落としてしまう。ダイスはそれでも杖を根に構えなおした。
「まだ、まだですわ……!」
ミスティーは口を結んで宝石を取り出すと傷ついた根に埋め込み、宝石剣で力任せに叩き斬る。宝石は一瞬赤黒い光を放ち収束すると爆発を起こす。しかし、それでもダイスの魔法に耐えただけあり小さな穴が開く程度に留まる。
「ダイスちゃん!」
「——うん!」
だがそれでいい。
宝石術の発動で放たれた魔力はダイスの杖の結晶に吸収され強い光を放っていた。
込められた魔力は杖を伝いダイスを通って増幅される。
スキル・
本命はこの一撃——!
「エン・ファイア!」
焔は竜巻のように逆巻いて格子ではなく聳え立つ触手を
拓けた視界の奥で黒い喪服の女が笑っていた。
「あら。やるものね。少し見直したわ」
“黒い女”が手を天へ翳すと地面からまた次々に根が現れる。
「……っ!」
「まだ出てくるの!?」
「ええ。まだまだ遊べるわよ」
根がうねり、しなり鞭のように襲い掛かってくる。
震える足を無理やり地面から引きはがしてユアは手のひらを迎え撃つように突き出す。
「ミスティー姉さん!」
「!ええ……!」
ミスティーはユアの呼びかけに察し、思わず口角を上げる。
ユアの肩に触れると先ほど取り落とした紙片が光を放つ。
「……へえ……!」
思わず女も三日月のように口許を歪めた。
根に白い光の根が絡みつき締め上げていた。
ミラー・ミラー。それは
「
しかし女は驚く様子もなくその手を振ると触手が膨れ上がり拘束を破ってしまう。
「いえ、イストリアスでもあるのね。お姉様のバックアップといったところかしら」
これだけ仕掛けて事態は好転しない。ただ手の内を明かすように促されその
用意された退路を使うこともできず状況も打開できない。進むも退くもない。だが手を尽くさなければ全滅だ。こんなにも絶望的な状況があるだろうか。
ストーリーテラーの権能を託されたといっても使える
虚数幻想は蹂躙し尽くされて発動に必要な救済力も
「もう終わりかしら?もう少し楽しませてくれると思ったのだけれど」
触手の壁の向こうでくすくすと笑って。目を細める。彼女の様子が伺えないのは幸いだったろう。その目はひどく冷め、その視線に射抜かれればなけなしの戦意も折られてしまっていただろうから。女が手を再び掲げる。
触手が蠢きその切っ先が三人に向けられる。
(あれの動きは単調。うまくすれば……)
ミスティーが一歩前に出て宝石剣を構え、ダイスとユアに背中を向けたまま言う。
「ユアちゃん、ダイスちゃん。
「ミッティー姉様……!?」
「姉さん……!」
「聞き分けてちょうだい。書斎が落とされた今、少しでも長く生き延びてせめて書斎連合にこのことを」
言い終わる前に触手が放たれる。三人に迫る触手にミスティーは宝石を投げる。
宙を舞うエメラルドが輝き突風が吹きその進路を僅かにずらす。いくつか突進の進路が外れるがミスティーを狙う一撃は彼女の丁度頭を目掛けて伸びてくる。素早く二つ目の宝石を足元に落とし、
(——ここ!)
両手で宝石剣を強く握ると態勢をぐっと低くして宝石剣を頭上に掲げるようにして構える。
受け流し
——!それは武器であえて受け、攻撃の流れをコントロールするアーツ。刃を滑るように太い木の幹のような触手がミスティーの頭上を通過して背後の格子を突き破る!「今ですわ!」
「姉様……!」
「ぐ……ぅ!」
格子が再生を始める。このままではミスティーの機転を無駄にしてしまう。促されるままダイスは向こう側へと転げ込む。はっと振り返ったダイスの前に人影が飛び込んできた。
それはユアではなくミスティーだった。ダイスが飛び込んだ瞬間にユアがミスティーを抱え投げ込んだのだ。
受け流しを解かれた触手は進路を変えて天井を突き破って消えていくがすぐに別の天井を破って戻ってくる。
「ユア!」
「あら、勇敢なのね。けれどその自己犠牲がもし貴方の性分なら直した方がいいわ。今まさにそこの二人の努力を徒労にするところよ」
「え——」
ユアを目掛け触手が放たれる。
速い……。こんなに速く、巨大な一撃をミスティーは躱し利用したというのか。
ユアは武器らしい武器を持っていない。彼女はストーリーテラーのバックアップであり、あくまで状況を把握し指示をする司令塔なのだ。戦力でいえば姉たちが遥かに上だ。彼女たちを生かし次に繋げようと咄嗟にミスティーを助けたことは本来は正しいだろう。
けれど彼女はそれ以上の意味を持っていた。彼女はそれを自覚していなかった。
故にこれは敗北。
彼女が失われた瞬間、書斎は真の意味で陥落する。
「——っ!」
ユアの体が浮き、吹き飛んだ。
けれどそれは覚悟した衝撃の何倍も小さい。閉じかけた格子を抜けてユアは二人の前に投げ出された。
三人はそれを見上げた。
その人影はユアに体当たりをしたのだろう。閉じた格子の前に体勢を崩し転がっていく姿が妙にゆっくりと鮮明に焼き付く。
「いけえ————ッッ!!」
人影が咆哮し、三人は我に返った。必死に裂け目に走る。その背をまた触手が追いかけてくる。
「……っ、お母様あ!」
「ママ様!」
裂け目に飛び込みながら一瞬振り返って叫ぶ。
灰色の髪の少女が背を向け、両手で触手を受け止めているのが見えた。
遅れてユアが飛び込み手を目いっぱい伸ばす。その手をミスティーとダイスがそれぞれ掴んで引くと触手を追い越し幾つかの光がユアの体を貫いた。それはユアに融け込んでいく。
裂け目は三人を受け入れると急速に閉じていき迫る触手の進行を阻んだ。
「母、さん……!」
ユアは自身に飛び込んできた光の正体を認識する。それは逃げる隙を与えてくれた少女——母の持っていた
遠く離れた場所にいるはずの母の声が
——これから貴方たちは第四世界へ落ちる。まずは仲間を集めなさい。第四世界はおそらくここと同じようにインテンスキャンサーによって世界が脅かされているはず。力を合わせて助けるの。そして、いつかここへ……っ——。
終始優しく語りかけていた母の声は一瞬上げられた呻き声と共に途切れた。
「……お母様!——っ!?」
ミスティーが目を細めたそのとき突然地面を踏む感覚が消え失せる。
水の中、あるいは空に放り出されたような感覚。行先もわからないまま三人は重力に引かれて光の中を落下していく。世界を渡ろうとしているのだ。
三人は咄嗟にお互いの手を取ろうと指先を宙に彷徨わせる。
「ぐ、う、ぅ……!」
ダイスは徐々に離れていくユアとミスティーに向けて必死に手を伸ばし、ミスティーの手を掴んだ。だが、
「もう……少し……!」
二人のユアへ精一杯伸ばした指が触れようとした刹那。
風に攫われるようにユアが離れ、やがて光の中に吸い込まれていった。
「そんな……!」
「ユア——っ!」
飛ぶように落ちていくとやがて光は晴れ、青空に投げ出される。
眼下には沢山の
街だ。だが、どこか様子がおかしかった。
地面に近づくにつれ所々で煙が上がり傷つき、崩れ、割れているのが見えてきた。
——ここと同じようにインテンスキャンサーによって世界が脅かされているはず。
母の言葉を思い出す。
ここは第四世界。母が観測し守護するはずの世界。
つい先刻まで平和だった街は全容が明らかになっていくにつれあるべき姿を失っていることに気づいた。
二人の体は転移の
やがて無残に破壊されたアスファルトに降り立つ。
「……お母様、ユアちゃん……」
足が地面に触れるとミスティーは崩れるように膝をついた。
「ミッティー姉様」
その肩をダイスが支える。辺りを見渡すと上空から見下ろしたものよりも酷い状況であることが分かった。道路に人の気配はなく乱雑に自動車が乗り捨てられている。目に見える範囲の建造物は窓が割れ、場所によってはつい先ほどまで激しく出火していたのか煙を吐き出し燻っている。
「ユア、きっと遠くに行ってないよ。探しに行こう」
「ええ……ええ……」
ダイスに促され何度も頷きながらミスティーもふらふらと立ち上がる。
「はあ……ありがとうダイスちゃん。しっかりしないとね」
肩に触れる手を撫でるとダイスは首を振った。
「ううん。しっかりはしなくていいよ。でも」
そっと肩から手を放してダイスは杖をぎゅっと掴み、落ちてきた空を見上げる。
青かった空は黒煙で重い鈍色になり寂れていた。あのとき助けに来てくれた母は無事ではないだろう。不安だった。けれど。
「何も終わってない。挫けるにはまだ早いよ」
「ええ、その通りよ」
まだ何も終わってない。ユアを見つけて母から伝えられた通り世界に起きている異変に立ち向かう。それはこんな事態が起きる前から彼女たち、
イストリアス
が教えられた使命だった。「行動しましょう。書斎を取り戻すためにも」
「うん」
ミスティーは服についた埃を払うとダイスと頷きあい、焦げた臭いの街をゆっくりと歩き出——そうとして振り返る。
「ダイスちゃんもしっかりしようとしなくていいのよ」
「……へへ」
ダイスは思わず泣き笑いの表情を浮かべ、今度こそ歩き出すのだった。