第2話  噛ませイヌ

文字数 2,017文字

噛ませイヌ

 「そんなカードは無茶苦茶だ。斎藤が殺されてしまう!奴をかませ犬にする気ですか?」
 引退が間近なミドル級のボクサー斎藤ヒカル(34)に永らくついていたトレーナーの間柴が、会長に食ってかかった。
 「相手は、デビューしてから五戦五勝、しかも皆1ラウンドでKO勝利している化け物だ」
 ヒカルは、デビュー以来二勝十二敗一分け、戦績だけ見てもくすんだ存在だった。

 「奴は、前の戦いでナックルを痛めて少々ブランクがある。勝てないこともないさ」
 会長は、ニヤリと笑った。

 この業界にもジム間で暗黙のやりとりというものがあることは、間柴にも分かっていた。
 しかし、生命に危険のあるリングに選手を送るのは、あまりにも忍びなかった。

 間柴は、断腸の想いでサンドバッグを無心に打ち続ける斎藤に近付いた。
 「なあ、斉藤君。次の対戦相手が決まったよ」

 「誰ですか」
 斎藤は、揺れるサンドバッグを静止して間柴を注視した。額の汗が、無駄に痛々しい。

 「ダイナマイト橘君だ」
 間柴は、死刑宣告をするかのように厳かに伝えた。

 「僕は、リングの上で殺されてしまうかもしれませんね」
 実際、ダイナマイト橘の右ストレートは200kgの衝撃力があり、その必殺のパンチがモロに当たれば、老齢のボクサーが生命を失うことも充分にあり得た。

 「少し考えてみればいい。断ることもできるんだから」
 間柴は、重病人に手術を薦める医師の如く、思いやりをもって接した。

 「家族と相談してみます。女房の意見も聴かないと..返事はそれからでもいいですか」
 ヒカルは、間柴の目を見つめた。

 「勿論だ」
 間柴は、視線をそらすように床を見つめた。

 家庭での団欒、夕食のテーブルについたヒカルが何かに悩んでいるように見えたので、妻の苗子が声をかけてみた。

 「どうしたの?試合決まったんじゃないの」

 「決まったんだが、実は断ろうと思ってるんだ。相手は、若いハードパンチャーだから殺されるんじゃないかと思って...怖いんだ」

 五歳になる息子は、熱心に苗子が作った甘口カレーを口に運んでいる。
 苗子が、息子のコップにミネラルウォーターを注いだ。
 
 苗子は、ヒカルがリングを愛しており断れば後々まで後悔することを知っていた。

 「じゃあ、リングの上で華々しく散っちゃえば。アンタが亡くなったら、実家のお寺に墓地を作ってもらうから、死んでも行き場のないホームレスの幽霊にはならないから安心して」
 苗子が明るく笑った。

 「死んでも迷うことないか、そうだな...ははは、ははは。苗子の実家はお寺だもんな」
 夫婦して、笑い合うとヒカルから恐怖心が消えて代わりに闘争心が蘇った。

 「橘君との試合、受けさせて下さい」
 ジムに帰ったヒカルから、そう言われた間柴は以外なことに余り驚きの表情は見せなかった。

 「おまえなら、そういうんじゃないかなと...やるんなら、勝ちにいくぞ。いいか、ヤツのフィニッシュは右ストレートだ。だが勝機もそこにある。奴が距離をつめてきたら、左のショートフックをボディーに打って、ガードが下がったら返しをジョーに打ち込め。接近戦しか勝機はない」

 それからヒカルは、毎日ショートフックの練習に明け暮れた。
 「やらねば、やられる。生命はない」

 カーン!
 ついにヒカルの生命をかけた試合が始まった。

 試合早々、相手のフリッカージャブを顔面にもらうヒカル。デトロイトスタイルが板についている。

 フリッカージャブが鞭のようにヒカルの顔面を捉えて、ヒカルの左目蓋が切れタラタラと出血し始めた。

 「ヒカル!足を使え!相手の右を貰うぞ!」
 絶叫する間柴、既に1ラウンドから白いタオルを握りしめて居る。

 遂にダイナマイト橘の右ストレートがヒカルの顔面にグリーンヒットし、ヒカルはコーナーに追い詰められて次第に意識が朦朧としてきた。

 「こっ、殺される」
 仕留めようと距離を詰めて、ガードの上からも左右の連打を浴びせる橘。

 ヒカルは、クリンチの膠着状態から橘の右脇腹が一瞬空いたのを見計らい左のショートフックをボディーに叩き込み、右のガードが若干下がった瞬間にジョー目掛けて左フックを振り抜いた。

 それは、カッというチンをかすったようなパンチであったが、脳が揺れて橘はどうっとキャンバスに沈んだ。

 橘は白眼を剥き、ヒカルが流した血の中でテンカウントを聴いても起き上がることは無かった。

 噛ませイヌが番狂わせを演じた瞬間だ。

 試合後、間柴にバンデージを解かれるヒカルの控え室に会長が極上の苺ショートを持って現れた。

 「今日だけだぞ。次の試合の為に減量もあるだろうから」

 ヒカルは、天に感謝した。
 
 
 

 
 
 

 
 



 
 
 
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