第1話 Bandage
文字数 2,974文字
Bandage
「もう、いいんじゃないのか。充分にやりつくしたろ」
ジムのトレーナーにそう言われると辛い。
私は、引退の瀬戸際に立った四回戦ボーイのボクサー、四回戦ボーイといっても毎回試合前に自らの拳にバンデージを巻く度に胸が熱くなるから、才能は別としてこれが男の天性なんだろう。
男は、家庭の安寧を求める一方で、荒野で闘いを求めるアンビバレンツの中で生きている、一種奇妙な生き物だ。
しかし、そんな私も今年で早三十七歳になる。ボクシングコミッションから肩を叩かれるのは必死だ。ジムのトレーナーがいい加減にしろと愁眉の顔を見せるのもやむなしか。
「ふーっ、いい加減にしないといまに大怪我しますよ」
試合後の顔面崩壊寸前を治療してくれる担当医の町医者がいつも嘆息するので、引退の二文字がチラつく瞬間だ。
一応はプロのライセンスを持っているので、リングに上がれば幾ばくかの雀の涙程のファイトマネーが入るのだが、試合の度に顔面崩壊直前まで殴られるので、治療費を差し引くといつも赤字だ。
「すいません。持ち合わせがないので、いますぐにATMまで行っておろしてきます」
「次来たときでいいから」
初老のインテリ然とした下町の赤髭は、こちらの懐具合を見透かしたように暖かく見守ってくれる。
治療費に困る自分が情けない。
「お父ちゃん。可哀想」
試合後の膨れ上がった顔を五歳になる娘が不思議そうに触る。
それを見かねてか、
「お父ちゃんはね、将来世界チャンピオンになるんだよ」
「わーい。世界チャンピオン!」
娘と女房が無理に盛り上げてくれるのが。私には、辛く痛い。
私には、実は妻と五歳の娘がいる。当然、家計を助けるためにバイトをしているが、妻が派遣の仕事で応援してくれているので、リングに上がれるのが現状だ。
「家計が、苦しいんじゃないのか。娘も来年小学校にあがる歳だし」
「ううん、大丈夫」
コロナ禍で時短なんだろうに気丈に振る舞う女房の笑顔が、有り難くも痛い。
私のこれまでの戦績は、一勝八敗。この一勝も判定でやっとこさ勝った、どちからが勝ったのかも怪しいような勝ちだった。
「おい。鼻が曲がってるぞ」
試合後にも鼻血が止まらず、医者に駆け込んだ時には鼻骨が折れていた。相手のジャブをもらい過ぎた顛末だ。
最近は、私がジムに顔を見せるとトレーナーなどのスタッフは複雑な表情をする。ミットを構える姿勢にも何となくやる気が見られない。
「もうオジんだし、勝てないんだから辞めたら」というのが、本音だろう。
私は、周囲のそのような空気を充分に察知している。なので、次の試合はできればKOで勝ってボクサー人生を終いにしたいのである。勢い、ワンツーにも気合が入る。
しかし、どうしたら勝てるんだろう。
「左は世界を制す」というように左ジャブは腐る程シャドーしたし、フックだってストレートだって悪くないはずなのに勝てない。戦術的なものなのか、それともフィジカルなものなのか。
会長が、ふいに練習中のジムに現れた。
「柳さんとワシは旧知の間柄でな...若い頃はリングで凌ぎを削ったことも...東洋太平洋チャンピオンのベルトを奪って..日本には2、3週間滞在して..いい機会だから練習を見てもらえるといい」
私は、会長の話がなぜか遠くで響いている様に聴こえて、ジムの窓から見える通りの向こうの公園で遊ぶ子供達を見ていた。子供達は、無邪気に砂場や遊具ではしゃいでいる。
「チョット、パンチミテアゲルヨ」
柳さんは、お腹がぽこんと出ている柔和そうな韓国の招き猫みたいな人だった。ボクシングをやっていなければ、焼肉屋のオヤジみたいな人だ。階級は、若い頃はバンタム級くらいか。
ワタシは、まずやや自信のある左ジャブを打ってみせた。
柳さんは、じっと見つめると、
「ミギストレートヲミセテ」と言い、
またワタシの右を見つめると、
「アー、ダメダヨ。キレイスギルヨ。
バカショウジキ、ソンスルネ」と
眉をひそめて笑った。
ワタシのパンチは、ジムに教えられた教科書通りのものである。それが、駄目なんて。皆目検討もつかなかった。
「テキガウッタラネ、ソノウデニカラミツク、ヘビミタイナパンチ。ストレートデモナク、フックデモナク、ミカヅキパンチダヨ」
柳さんが教えてくれたのは、伝説のパンチ「クロスカウンター」であった。
「そんな高等技術、四回戦ボーイの私にもできるものでしょうか?」
率直な疑問を柳さんにぶつけてみた。
「ミカヅキパンチ、ギジュツジャナイヨ。ココダイジ」
柳さんが、拳でドンと私の胸を突いた。
「アナタ、ツギガサイゴ。キモチアレバ、カテル」
肉を斬らせて、骨を絶つ。そうだ、もう玉砕戦法しかないんだ。
それからの試合当日まで、ワタシは柳さんが構えるミットに必死でこのミカヅキパンチを撃ち込んだ。
「ソウソウ、ソレシカナイヨ」
柳さんは、顔は笑っているが目は笑って居なかった。
後楽園ホール、最後の試合当日、セコンドには柳さんがついてくれることになった。
控室でバンデージを巻いてもらう間、これまでの負け試合が走馬灯のように脳裏を駆け巡ったが、気持ちは昂り高揚してきた。
柳さんは、ワタシの拳にバンデージを巻く間、終始無言で神妙な表情であった。そして、巻き終えると、ドンと拳でワタシの胸を突き、親指を立ててみせた。
カーン!
ついに試合のゴングが鳴った。ワタシの最後の試合が。
第一ラウンド、サウスポーの相手が放つ右ジャブが早すぎて動体視力がついていけず、鼻柱にもらい過ぎ、鼻血がタラタラと流れた。
第二ラウンド、目が慣れてきて相手の右に左のクロスがヒットするようになった。相手がイライラするのが、手にとるように分かる。相手も鼻から出血した。
第三ラウンドの中盤、業を煮やした相手が放った左ストレートに右のクロスを合わせると、ガスっという手応えとともに相手はどうっとキャンバスに沈んだ。
レフェリーのテンカウントを聴いた時、全てが終わったと思った。
控室に戻り、柳さんにバンデージを解いてもらっている時、ハラハラと大粒の涙が出てきて何か気恥ずかしかった。
負けても出なかった涙が、最後の試合に勝って出るなんて、やっぱりボクサーは珍人類だ。
「アシタ、カンコクカエルヨ」
バンデージを解き終えると、柳さんは静かに笑った。
遠い日、修学旅行の奈良で、大仏が渡来人のもたらした製銅の技術によって落成したことを思い出した。きっと、その渡来人は柳さんみたいな人だったのに違いない。
今年のクリスマスは、大きめのクリスマスケーキを予約して、妻と娘とともにクリスマスケーキを分かち合い食べてみよう。
そして、思い切ってシャンパンも飲んでみよう。これまでは、水でさえ減量で口には出来なかったのだから。
そして、普通の市民生活をしてみよう。
もう拳闘という熱病から醒めたのだから。
(拙文)
「もう、いいんじゃないのか。充分にやりつくしたろ」
ジムのトレーナーにそう言われると辛い。
私は、引退の瀬戸際に立った四回戦ボーイのボクサー、四回戦ボーイといっても毎回試合前に自らの拳にバンデージを巻く度に胸が熱くなるから、才能は別としてこれが男の天性なんだろう。
男は、家庭の安寧を求める一方で、荒野で闘いを求めるアンビバレンツの中で生きている、一種奇妙な生き物だ。
しかし、そんな私も今年で早三十七歳になる。ボクシングコミッションから肩を叩かれるのは必死だ。ジムのトレーナーがいい加減にしろと愁眉の顔を見せるのもやむなしか。
「ふーっ、いい加減にしないといまに大怪我しますよ」
試合後の顔面崩壊寸前を治療してくれる担当医の町医者がいつも嘆息するので、引退の二文字がチラつく瞬間だ。
一応はプロのライセンスを持っているので、リングに上がれば幾ばくかの雀の涙程のファイトマネーが入るのだが、試合の度に顔面崩壊直前まで殴られるので、治療費を差し引くといつも赤字だ。
「すいません。持ち合わせがないので、いますぐにATMまで行っておろしてきます」
「次来たときでいいから」
初老のインテリ然とした下町の赤髭は、こちらの懐具合を見透かしたように暖かく見守ってくれる。
治療費に困る自分が情けない。
「お父ちゃん。可哀想」
試合後の膨れ上がった顔を五歳になる娘が不思議そうに触る。
それを見かねてか、
「お父ちゃんはね、将来世界チャンピオンになるんだよ」
「わーい。世界チャンピオン!」
娘と女房が無理に盛り上げてくれるのが。私には、辛く痛い。
私には、実は妻と五歳の娘がいる。当然、家計を助けるためにバイトをしているが、妻が派遣の仕事で応援してくれているので、リングに上がれるのが現状だ。
「家計が、苦しいんじゃないのか。娘も来年小学校にあがる歳だし」
「ううん、大丈夫」
コロナ禍で時短なんだろうに気丈に振る舞う女房の笑顔が、有り難くも痛い。
私のこれまでの戦績は、一勝八敗。この一勝も判定でやっとこさ勝った、どちからが勝ったのかも怪しいような勝ちだった。
「おい。鼻が曲がってるぞ」
試合後にも鼻血が止まらず、医者に駆け込んだ時には鼻骨が折れていた。相手のジャブをもらい過ぎた顛末だ。
最近は、私がジムに顔を見せるとトレーナーなどのスタッフは複雑な表情をする。ミットを構える姿勢にも何となくやる気が見られない。
「もうオジんだし、勝てないんだから辞めたら」というのが、本音だろう。
私は、周囲のそのような空気を充分に察知している。なので、次の試合はできればKOで勝ってボクサー人生を終いにしたいのである。勢い、ワンツーにも気合が入る。
しかし、どうしたら勝てるんだろう。
「左は世界を制す」というように左ジャブは腐る程シャドーしたし、フックだってストレートだって悪くないはずなのに勝てない。戦術的なものなのか、それともフィジカルなものなのか。
会長が、ふいに練習中のジムに現れた。
「柳さんとワシは旧知の間柄でな...若い頃はリングで凌ぎを削ったことも...東洋太平洋チャンピオンのベルトを奪って..日本には2、3週間滞在して..いい機会だから練習を見てもらえるといい」
私は、会長の話がなぜか遠くで響いている様に聴こえて、ジムの窓から見える通りの向こうの公園で遊ぶ子供達を見ていた。子供達は、無邪気に砂場や遊具ではしゃいでいる。
「チョット、パンチミテアゲルヨ」
柳さんは、お腹がぽこんと出ている柔和そうな韓国の招き猫みたいな人だった。ボクシングをやっていなければ、焼肉屋のオヤジみたいな人だ。階級は、若い頃はバンタム級くらいか。
ワタシは、まずやや自信のある左ジャブを打ってみせた。
柳さんは、じっと見つめると、
「ミギストレートヲミセテ」と言い、
またワタシの右を見つめると、
「アー、ダメダヨ。キレイスギルヨ。
バカショウジキ、ソンスルネ」と
眉をひそめて笑った。
ワタシのパンチは、ジムに教えられた教科書通りのものである。それが、駄目なんて。皆目検討もつかなかった。
「テキガウッタラネ、ソノウデニカラミツク、ヘビミタイナパンチ。ストレートデモナク、フックデモナク、ミカヅキパンチダヨ」
柳さんが教えてくれたのは、伝説のパンチ「クロスカウンター」であった。
「そんな高等技術、四回戦ボーイの私にもできるものでしょうか?」
率直な疑問を柳さんにぶつけてみた。
「ミカヅキパンチ、ギジュツジャナイヨ。ココダイジ」
柳さんが、拳でドンと私の胸を突いた。
「アナタ、ツギガサイゴ。キモチアレバ、カテル」
肉を斬らせて、骨を絶つ。そうだ、もう玉砕戦法しかないんだ。
それからの試合当日まで、ワタシは柳さんが構えるミットに必死でこのミカヅキパンチを撃ち込んだ。
「ソウソウ、ソレシカナイヨ」
柳さんは、顔は笑っているが目は笑って居なかった。
後楽園ホール、最後の試合当日、セコンドには柳さんがついてくれることになった。
控室でバンデージを巻いてもらう間、これまでの負け試合が走馬灯のように脳裏を駆け巡ったが、気持ちは昂り高揚してきた。
柳さんは、ワタシの拳にバンデージを巻く間、終始無言で神妙な表情であった。そして、巻き終えると、ドンと拳でワタシの胸を突き、親指を立ててみせた。
カーン!
ついに試合のゴングが鳴った。ワタシの最後の試合が。
第一ラウンド、サウスポーの相手が放つ右ジャブが早すぎて動体視力がついていけず、鼻柱にもらい過ぎ、鼻血がタラタラと流れた。
第二ラウンド、目が慣れてきて相手の右に左のクロスがヒットするようになった。相手がイライラするのが、手にとるように分かる。相手も鼻から出血した。
第三ラウンドの中盤、業を煮やした相手が放った左ストレートに右のクロスを合わせると、ガスっという手応えとともに相手はどうっとキャンバスに沈んだ。
レフェリーのテンカウントを聴いた時、全てが終わったと思った。
控室に戻り、柳さんにバンデージを解いてもらっている時、ハラハラと大粒の涙が出てきて何か気恥ずかしかった。
負けても出なかった涙が、最後の試合に勝って出るなんて、やっぱりボクサーは珍人類だ。
「アシタ、カンコクカエルヨ」
バンデージを解き終えると、柳さんは静かに笑った。
遠い日、修学旅行の奈良で、大仏が渡来人のもたらした製銅の技術によって落成したことを思い出した。きっと、その渡来人は柳さんみたいな人だったのに違いない。
今年のクリスマスは、大きめのクリスマスケーキを予約して、妻と娘とともにクリスマスケーキを分かち合い食べてみよう。
そして、思い切ってシャンパンも飲んでみよう。これまでは、水でさえ減量で口には出来なかったのだから。
そして、普通の市民生活をしてみよう。
もう拳闘という熱病から醒めたのだから。
(拙文)