第1話

文字数 2,074文字

「出て行ってしまうの? あなたはまだなにも得ていないのに」
 その言葉で武之内朱子は立ち止まった。いや、覚醒したのかも知れない。はっきりとした意識を取り戻して振り返るとそこに、幼い少女のセヴンスが立っている。
「なんて、チェシャ猫なら訊ねるかしら。でもわたしも賛成よ。その扉を開けてしまったら、あなたはきっとひどい夢を見るわ」
「ひどい夢? ――現実の間違いじゃなくて?」
「あなたにとってはそうかもしれないわ。ねずみの尻尾を追いかけるように、アヤコは自分が曖昧なままここから出て行こうとしたもの。きっと、あなたにはここが不自然な場所に見えるんだわ」
「ここはなんなの?」
「ここはね、夢が見ている夢の中なの」
「夢の中の、夢……?」
 そうよ、とセヴンスは言う。
「アリス・キャロルは夢を見せるんだよ。わたしは七番目だから、あなたのことも連れてくることができたの」
「……ごめん、よくわからないわ」
「ならそのあたりから思い出さなくちゃね」
 セヴンスが朱子の手を取って、扉とは反対のほうへとぐいぐい引っ張っていく。丸テーブルとアンティーク風の椅子に案内され、宙に浮いたティーポットに紅茶を勧められた。朱子は目を疑ったものの、どこかそれが当たり前の光景のようにも思えて、言葉にすることはやめておいた。
「もう一度あえてよかったわ、アヤコ。わたしのことはわかるかしら?」
「わかるって、セヴンスはセヴンスでしょ?」
 そうよ、とセヴンスが微笑む。
「わたしはアリス・セヴンス・キャロル。悪い人に追われているところをあなたに助けてもらったの」
「そんなに悪い人とは思えなかったけど。けっきょく追ってこなかったし」
「いいえ、悪い人よ! わたしが楽しみにして買ったシナモンロールをおもしろがって取り上げるような野蛮人だもの。いい人なわけがないわ」
「ああ、それは悪い人だわ」
「でしょう! あなたならわかってくれると思ったわ。だって三日前もわかってくれたものね」
「三日前?」
「そう。わたしとあなたが出会った日よ」
「それからもう三日? ずっとあなたと一緒にいたってこと?」
「ええ、楽しかったわ。あなたもそうでしょう?」
 セヴンスの言葉に、朱子はどう返せばいいのかわからなくなった。楽しかったか楽しくなかったか、すぐに出てくるはずの答えがまったく口から出てこない。
 思うにこの幼女は生意気で、騒がしくて、朱子とはまったく性格が合わない。十四歳の少女の多感さには持て余す爆弾だ。この短いやりとりで確信に至るほどにそれがわかる。あるいは記憶以外にこの幼女とのやりとりが染みついていて、それを判断基準に据え置いているのか定かではないのだけれど。
 ともあれ朱子は、アリス・セヴンス・キャロルと名乗ったこの幼女について、その名前以外の一切合切を忘れているらしいのだ。
「ごめんなさい、憶えてないわ」
 そう答えたことに、朱子はひどい罪悪感を憶えた。自分の口から出た声を耳で聞いたときに、言いようのない感情が喉と胸のあいだでうごめくのを感じた。
 何故なら、その言葉を聞いたセヴンスの顔を見てしまったからだ。感情を押し殺した顔だった。いっそ見た目どおり駄々をこねてくれればいいのに、セヴンスは努めて表情を動かさないようにしている。目は大きく、輪郭も丸い。いずれ美人になることが約束されているような人形じみた造形美。その美しさが無で塗り固められたときの醜悪さときたら、胸を締め付けられるような衝撃だった。
「そう。……そうよね、仕方のないことだわ」
「ごめんなさい」
「いいの。これはわたしが見た夢なんだわ。あなたを巻き込んでしまったのだから、謝るのはわたしのほうなの。だから――」
 セヴンスはきゅうにうつむいてしまった。
 指通りの良さそうな金糸の髪がぱらぱらと垂れる。その奥にしまい込まれた顔が、きっと泣いているのだということを悟った。すぐに席を立って駆け寄る。小さな膝の上で、握りしめられた拳が震えていた。
「セヴンス?」
 背中に手を回してやると、彼女は嗚咽交じりに謝りはじめた。二度、三度と、止むことなく。
「どうして謝るの? ねえ、セヴンス。わかるように言って」
「アヤコ。わたし、あなたが好きよ。ほんとうに大好きなの。でも真実を知ったら、あなたはきっとわたしを憎むでしょう。それがいま、怖くてしかたない。……でも言わなければいけないの。だって――」
 その先を聞いてはいけない気がした。同時になんとなく理解してもいる。これはエピローグなのだ。すべてが終わったあと、世界が元通りの日常に溶け込んでいけるよう、そんな願いをこめて紡がれる祈り。
 だから終わるのだろう。
 その言葉を聞いたとき、武之内朱子という名の物語が。
「だって、なに?」
「ああ、残酷な人。薔薇の法廷に立たされてわたしは裁かれるのね。神さま、わたしはいま懺悔します。女王にこの首を差し上げます。何故ならわたしは――」

「――わたしは、アヤコを死なせてしまったのだから!」
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