第3話

文字数 2,489文字

     2

「とはいえまずいわよね」
 飲み干したコーヒーはまったく味がしなかった。こんな状況でももりもりとシナモンロールを食べられるのだから、羨ましいやら恨めしいやらで頬のひとつでもつねりたくなる。
「むー、むー」
「よくもそんな幸せそうな顔でいられるわね。あなた、ホルマリンに漬けられて永久保存されちゃうかもしれないのよ」
 バッと私の手から逃れたアリスは、削岩機のような勢いで口に詰め込んだものを咀嚼する。細い喉が上下したあと、きょとんとした顔でホルマリンってなに? と訊ねてきた。
「狙われてるって自覚はないのね」
「狙われるってどうして? アリス・キャロルが何か悪いことをしたのかしら」
「悪いことはしてないわ。アリス・キャロルってだけで、あなたの体を欲しがる変態どもが世界中にいるってだけよ」
「まあ、人気なのね。うれしいわ」
「そのほとんどが観賞用か愛玩用か、そうじゃなくても似たようなもので、アリス・キャロルの生態を解剖実験しようって輩ばかりよ」
「うれしくないわ」
「……あなた、ほんとになにも知らないのね」
 アリスは真っ赤な舌で指先をちろちろと舐めている。物足りなそうに空になったバスケットを見る目は幼い。こんな子が、まさか悲劇の代名詞と呼ばれるような家名を継ぐ存在であるとは考えもつかない。
 たしかに浮世離れしているとは思う。言動もそうだが、あまりに世間というものに疎すぎる。一番驚いたのは、チェシャ猫を知っているくせに猫を見たことがないと言ったことだ。
 無菌室で育ったような子どもだった。
 それゆえに、この子の生きる姿はとても危うい。
「知らないわ。わたし、夢だけしか見てこなかったもの」
「それは、アリス・キャロルの言う<孔>と呼ばれる門の向こう側のこと?」
「あなたの読んだ本にはそう書いてあったの?」
 ええ、と応えた。なんだか少し、ばつが悪い。アリスはそう、といつになく静かな声で言った。
「わたしの意識が生まれたのは、お婆さまの言葉が正しければ、夢の中だった。現実だと言われたこっち側ではじめて鏡越しに目にした自分は、もう二本の足で立っていて髪の毛も腰まで伸びていたわ」
「人の意識が、夢の中で生まれた……?」
 笑いながらアリスは言うが、その内容はとてもじゃないが信じられないことだった。おそらくアリスの言っている意識というのは、彼女が憶えている一番古い記憶が夢の中のものだったということに近いとは思うけれど、それにしたっておかしい。夢での出来事は普通ならそこまで長く憶えていられない。必ず現実での記憶に塗りつぶされるはずだ。何故ならそこには、現実なら存在している様々な要素が抜け落ちているから。それは匂いであったり感触であったりするが、ともかく夢の中とは現実にある感覚がいくつか欠けているのだから、より情報量の多い現実での記憶を差し置いて残るはずがない。
 アリスが続ける。
「ふつう人は、夢と現実の区別が付くでしょう。現実にいるあいだはともかく、夢の中にいても、ときおりそれが夢だということがわかることもある」
「明晰夢ね。覚醒と微睡みのほんのわずかな時間にあるかげろうのようなもの」
「素敵よユカリコ。わたし、そのたとえが好きだわ」
 どうも、と相づちをうつ。そして、彼女がなにを言おうとしているのかに気がついた。
 夢と現実の差異は情報の質量。だからこそ夢の中でそれらの情報に欠陥を見つけさえすれば、私たちはそれが夢だと認識することができる。
 では、その差が限りなくゼロに近ければどうだろう。
 あるいは、まったくそこに差異が存在しないとすれば。
 その答えが、いま目の前にある。
「あなたは違うのね、アリス」
「そうよ。わたしはいまこの瞬間ですら、自分がどちらにいるのかがわからない」
 ううん、とゆるく首を振る。
「自信が持てないの。これが現実なのか、わたしが見ている夢なのか。それくらい、わたしはほとんどの時間を夢の中で過ごしてた」
 想像するしかないけれど……。
 それはきっと、ただ受け入れるだけの世界だ。肯定も否定もなく、善も悪もなく、混沌も秩序もない。かといってそれらの境界上にあるわけでもない。すべてがあやふやで、一秒前の現象はなにも存在せず、その瞬間ごとにあらゆるものが生まれ変わる。それは誰でもない、自分の頭の中だけに在る世界。自分から生まれたのだから肯定もできない、否定もできない。ただ流れていくだけの思考のバグを、ありのまま受け入れるだけの世界。
 それが、アリスのいる世界。夢も現実もわからなくなるくらい夢の中で育った少女が見ている、たったひとつの世界なのだ。
「なら夢の中での体験も現実のものになるのよね? あなたは生まれてから一度も現実で立ち上がっていないのに、夢から覚めてすぐに立って歩くことができているもの」
「――ええ、そうよ」
 一瞬、アリスは言葉を詰まらせた。
「そんなだから、わたしは危機感なんて持てないわ。だってすべてはけっきょく、わたしが見ている夢なんだもの」
 わたしの頭の中の出来事なんだもの。アリスの言葉はそう言っているように聴こえた。
 アリスはぼんやりと空を見上げる。甘い匂いに混じって、ほのかに別の匂いが漂ってくる。ほどなく雨が降るだろう。傘を持ってくるのを忘れたからあとでどこかで調達しておこう。
 そう思いながら、私もアリスの視線を追う。空に広がる雲は次第に厚さを増していく。蓄えた水量が限界を迎えれば、それが雨となって地上に降りてくる。
 アリスの夢の中では、違うのだろうか。雨の降り方ひとつをとっても、もしかしたらまったく異なる法則が存在するのかもしれない。そもそも空から降ってくるようなものでもないのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、おそらく彼女にとっては区別するようなものではないのだ。
 すべて、彼女にとっては夢なのだから。
「アリスは、どっちのほうが楽しいの?」
 たしかに聞こえていたはずの私の問いかけに、アリスは長い沈黙をもって応えた。
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