第2話

文字数 2,784文字

     モルフェウスの聖域

     1

「ユカリコは魔法使いなの?」
 アリスの質問に、私はいいえ、と答えた。
「じゃあどうしてそんな魔法に詳しいの? アリス・キャロルのことも、わたしたちより知っているわ」
「あなたたちのことを知っていたのはたまたまよ。そういう文献を前に読んだってだけ」
「え、わたしたちのことを書いてる本があるの?」
 ソファの上でバッと飛び上がって目を輝かせるアリス。是非見てみたいという顔をしているが、あいにくいま手元にはない。しかも相当前に目にした資料で、どこで読んだかもあまりよく憶えていなかった。
 それを伝えると、あからさまに落胆した表情でずるずるとソファに身体を沈めていく。
「なあんだ。曾お婆さまよりも前のアリスについてわかるかと思ったのに」
 無邪気な言葉だと思った。だから仮にその資料が手元にあったとしても、私が彼女にそれを見せることはなかっただろう。アリス・キャロルの名前は、こっちの世界ではどこにいっても扱いづらい。
「早く着替えなさい。いつまでそんな寝間着みたいの着てるのよ。出かけるわよ」
「寝間着ですって、失礼しちゃうわ。いままでもこれで出歩いていたじゃない。かわいいでしょう?」
「かわいい」
 ならあとは電気を消して戸締まりするだけだ。着ぐるみみたいな服を着たままアリスはさっさと玄関を飛び出していく。こんなに木枯らしが容赦なく吹いているのに寒くないのだろうか。見た目だけなら全身パーカーみたいなものだが、首元が冷えそうに思える。クローゼットの一番手前に引っかけてあったダウンをはおり、鍵を閉めて振り返ると、アリスがヘビを首元に巻いていた。いくらなんでもそれはない。
「え、これはマフラーだよ。あったかいよ」
 ……もういい、あきらめよう。
 必死になって手をつなぎたがるアリスを抑えつけて、街中の方へ向かう。一軒家が並ぶこの辺りの住宅地から街に出るにはバスを使った方が早いが、アリスは人が密集した空間にいると暴れ出すから歩いて行くことにする。
「もう、ユカリコってば乱暴なのだわ。穴に落ちちゃっても助けてなんてあげないんだから」
「穴に落ちたらどうなっちゃうの?」
「そんなの決まってるわ。楽しいお茶会にお呼ばれしたと思ったら濡れ鼠になって挙げ句の果てには首をはねられるのよ。身長だって伸びちゃうんだから」
「へえ、魅力的だわね」
「あなたってば変わり者ね」
 アリス・セヴンス・キャロル。本来見ず知らずであったはずのこの奇天烈な幼女と行動を共にするハメになったのはつい三日前からのことで、とある知り合いに「その子ども、目を付けられると面倒な人間に目を付けられているから、ちょっと三日ほどかくまってあげてくださいな」と軽いノリで頼まれたことがきっかけだった。なにが悲しくて魔女の卵のお守りをしなければならないのかと嘆きはしたが、この子にはなにかと助けられることもあったからこうして面倒を見てやっている。とはいえそれもおそらくきょうで最後だろう。ようやくこの小うるさいのから解放されると思えばうれしい気もするし、ほんの少しだけ離れがたいような気もする。なんだかんだ、この子といる時間は嫌いじゃなかったのだろう。
 そう思っていたから、彼女の頼みを聞いてわざわざ街に出向いているのだった。変なのに目を付けられていると聞いたものだから、安全を考慮してこの二日はまったく外にでなかった。きゅうに誰かが訊ねてきたり、家に火を放たれたり、黒い手紙をくわえたフクロウが飛んできたり……おおよそその辺りを予想して籠もっていたのだが、けっきょくなにも起こることはなかった。だからきょう外に出たのも、まあ大丈夫だろう、とたかをくくっていたのもある。
 街まではまだ少しある。このまま坂を下っていけば、住宅地は完全に抜ける。その道行く歩道の先に人影がある。
 それを見た瞬間、私は私の中にあった油断を認めた。
「あ、うそ? ほんとに?」
 前にいる女性がそう言った。見た目はあまり年上には見えないが、子どもにも思えない。もこもこのダウンとふわふわのマフラー、ほっそりとした足が黒いタイツに守られている。黒縁の眼鏡が童顔に見せているが、あれはおそらく大学生くらい。大人と子どもの中間くらい。
 アリスの手を引いて立ち止まる。
 その人は私たちと手に持った紙切れを見比べながら、なぜか訝しそうな表情を浮かべながら近寄ってくる。
「えー、きもさぶぅ。すごいのは知ってたけど、ほんとなんだなししょーってば」
 そう言って、どうやら写真らしいその紙をポケットにしまう。あと五歩というところまで近づいたときに、その人と目が合った。
「どうしよう。まさかこんな白昼堂々と歩いてると思わないじゃん。あたしも見てこいって言われただけだし、帰って課題やりたいし」
 そうしてついに、私たちの前で立ち止まる。確証はあったが、やはりどうしても彼女が用があるのは私たちらしい。
「誰よ、あなた」
「誰って言うかまあ、ただの大学生です。ひとつおたずねしますけど、アリス・キャロルってどっちですか?」
 まずい、と思ったときには、もうアリスが手を上げていた。
「はい、はい! わたしよ! あなたもご存じなのね、わたしたちのこと」
「ええ、知ってますよ。有名ですから」
「まあ、聞いたユカリコ? わたしたちが有名ですって。どうしようかしら、まずはサインの練習よね」
 すぐにアリスの身体ごと引っ張ってその人と距離を取る。
 どんな理由があるにせよ、アリスのことを知っている時点で警戒する理由としては充分すぎる。
「ずいぶん独り言が大きいのね。アリスのことを見てこいってあなたに言ったのは誰よ」
 えー、言っていいのかなー、とその人は頭をかいて、
「いや、やめとく。言ってもしょうがないし、誰か一緒にいるんなら様子見だけして帰れって言われてたっていま思い出したし」
 そう言ってあっさりと踵を返した。
「じゃあねアリスちゃん。もう会うかわからないけど、チェシャ猫によろしく言っといて」
「あなたチェシャ猫とお知り合いなのね。任せておいて、きっと喜ぶわよ」
 笑顔で手を振りながら去って行くその人を、私は表現しようのない感覚を持て余したまま見送った。足の付け根あたりがまるで落ち着かない。胃もムカムカしている気がする。はっきりいって気分も体調も最悪だった。
 いますぐにでも帰りたい。
 帰って布団を被って寝てしまいたい。
 だというのに、このお転婆はぐいぐいと手を引っ張ってきた。
「なにしてるのユカリコ、早く行きましょう。まったく、わたしよりも年上なのに手をつなぎたがるなんて、しかたのないユカリコね」
 前言撤回。
 誰でもいいから早くこいつを迎えに来い。
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