第1話

文字数 1,255文字

 この週末(2024年6月)、高校の同級生のクラス旅行があった。
 旅行先は静岡方面だった。私は山形からの週末だけの部分参加で、その日は掛川市周辺の観光だった。
 青春時代を夢と希望で共に謳歌した高校時代の仲間も、今や初老のオジさん、オバさんになり、話題は健康のこと、年金のこと、近未来に起こすであろう高速道路の逆走のこと、アクセルとブレーキの踏み間違いのことなど広範囲に及んだ。どれも高校時代には予想もしなかった話題だった。

 さて掛川市は、江戸時代中期に二宮金次郎が少年時代を過ごしたところだ。成人した金次郎は、「

田開発」という人心の荒んだ村人の徳を耕すことによって、荒廃した村々を再建した。その行動と方法を「報徳仕法」としてまとめ、全国で600余りの困窮した農村の復興にあたった。
 この報徳運動は、特に静岡県で二宮金次郎から直々の教えを受けた岡田佐平治、良一郎親子が中心となり全国に広がった。明治8年(1875年)に「遠江国報徳社」が創設され、明治36年(1903年)には大講堂(国の重要文化財)が建てられ、ここ掛川市が全国の報徳運動の拠点となった*。
 薪を背負って仕事をしながら中国四書のひとつ『大学』を読んでいた少年時代の二宮金次郎の像は、掛川市内の至る所にあり、また全国の小学校にもあった。(写真↓)


 旅行のメンバーの中に、文部行政に詳しい同級生がいた。
 彼の情報によると、最近、小学校などで二宮金次郎の銅像が相次いで撤去されているらしい。その理由は、二宮金次郎の像は歩きスマホに似ていて、「歩きスマホの推奨と誤解される恐れがあるから」だそうだ。
 もしその話が本当だとすれば、近頃、日本人の思考が劣化してきているように思う。
 そもそも二宮金次郎の少年時代の時代背景、そして金次郎の個人的な環境が現在とは全く違う。
 金次郎は天明7年(1787年)に地主農家に生まれた。彼が5歳の時に酒匂川が氾濫して田畑を失う。その後、14歳で父を、16歳で母を失い、兄弟はばらばらになり、金次郎も親戚の家に預けられた*。その逆境の中でも、勉学を続けたひとつの姿として、薪を背負いながらでも『大学』を読んでいた像がある。
 現在の若者が、歩きながらスマホで SNS や動画を観るのとは根本的に違う。
 ただ、格好が似ているからという理由でそれを同一視する教育現場の感覚がどうも理解に苦しむ。金次郎と、歩きスマホをする現代の若者の違いを説明すらできない教育の現場って一体どうなっているのだろう…?
 教育現場にはそれなりの言い分があるのだとは思うが、どうかこの情報は間違いであって欲しい。
 逆境の中にあっても学びの志しを持ち続けた自分の姿が、それから240余年後になって、当時は想像もつかない「歩きスマホ」の姿と似ているからと否定されることになろうとは、嗚呼(ああ)、きっと二宮金次郎は草葉の陰で泣いているに違いない。

 んだんだ。
(*ビジュアルガイド 二宮金次郎と大日本報徳社:公益社団法人大日本報徳社 を参考にした)
(2024年7月)
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