二年参り

文字数 2,460文字

 9時を過ぎた女は色っぽい。
 一日の疲れがほんのり肌に滲んで、首筋にはほつれ毛が二筋三筋。急にふっと黙り込んで――
「どうした? 疲れたのか」
 テーブルに頬杖をついたまま、女は首を振る。どこか潤んだような(ひとみ)が俺を見つめる。
「ねえ、これからどうするの?」
 そんなこと、決まってる。男と女がやること。女はわかってて訊く。俺はわざととぼける。
「さあて、ね」

 世は不景気なんだそうな。
 でも俺には実際のところ、世の中景気がいいのか悪いのかよくわからない。三流大学を卒業して以来、そろそろ三十に手が届こうという今日まで、それなりに楽しく生きてきた。世の中にはいつだって、男一人生きていけるぐらいの隙間(ニッチ)はあるものだ。
 結婚は無理でも、女に不自由したことはない。週末の夜にいい女と旨い食事を楽しみ、それから仲良くベッドに入って、翌朝女の肌の匂いと温もりの中で目を覚ます。それなりに楽しくて、それなりに満ち足りた人生。

 そんな俺が、本当に久しぶりに故郷で年越しをする気になった。魔が差したとしか思えない。
 故郷は潮の匂いがした。潮の匂いは、私鉄の駅にも路地にも、干し魚みたいになった両親の顔にも染みついていた。帰省して二時間、はやくも後悔しかけた時、携帯が鳴った。
「おい、帰ってるんだって?」
 懐かしい声だった。岩田。中学時代、毎日バレーボールに明け暮れた仲間。
「神社に二年参りに行かないか、あの頃みたいに」
 断る理由はなかった。十分後、ラーメン屋の屋号の印されたライトバンが、家の前に乱暴に止まった。案の定、岩田は酔っていた。昨日が仕事納めで、今日は朝から飲んでいたらしい。田舎とは言え、よく事故を起こさなかったものだ。俺が運転を代わり、海岸通りを走った。

「俺さあ、結婚したんだよ」
「なんだって?」
 俺は助手席の岩田を見た。寝耳に水だった。岩田の締まりのない笑顔は冗談とも(まこと)ともつかない。
「相手は俺の知ってる人か」
「聞いて驚くなよ、ユキさ。俺の嫁さんってあのユキなんだよ」
「ユキ?」
「覚えてるだろ? (じょ)バレにいた葦原友紀さ」
 鮮やかに記憶が蘇った。
 鮮やかすぎて、どうしていいか戸惑うくらいに。

 木造校舎。学校自体が古跡みたいだった田舎の中学。俺たち男子バレー部は、女子バレー部と一面のコートを半分ずつ使って練習していた。
 葦原友紀。忘れるわけがない。ほっそりしていて、身長はあまり高くない。レギュラーではなかった。中心メンバーがスパイク練習をする時には、ちょっとつまらなそうな顔で球拾いなんかをしていた。そして、俺たちは全員、葦原に憧れていた……。
「おい!」
 何かの箍が外れたような岩田の大声が耳元で響き、俺は肝を潰した。
「どうしたんだよ、いきなり」
 岩田が俺の胸倉を掴んできた。目が据わっている。俺は慌てて車を路肩に止め、叫んだ。
「危ねえじゃねえか! 頭おかしくなったのかよ!」
「お前は俺に『結婚おめでとう』と言わないのか。大学出て東京で暮らしてるからって、人をそこまでバカにする気か!」
 俺は黙った。黙るしかなかった。

 テレビは紅白が終り、〈ゆく年くる年〉になっていた。
「ごめんなさいね、沢木君」
 葦原、いや、岩田の嫁さんは言った。ラーメン屋のおかみさんらしく化粧っけはない。でも、ジーンズと地味な色のセーターに包まれた身体からは、かえって強く、女が匂った。
 岩田は畳の上に大の字になって高鼾をかいている。店の二階が住居。酔って正体をなくしている岩田を俺がなんとか二階まで引っ張り上げたのだ。
「なんで教えてくれなかったんだ?」
 え、というように女は俺を見た。
「結婚のこと」
「だって連絡先がわからないんだもの。東京に行ってから、沢木君、ほとんどこの町に帰っていなかったでしょ」
「それにしたって――」
 言いかけて、俺は口を噤む。故郷の町を捨てて顧みなかったのは他でもない、この俺なのだ。
 岩田が何か寝言を言った。よく聞こえなかったが、俺の悪口だったかもしれない。
 それにしてもこいつは大きな誤解をしている。俺は「おめでとう」と言わなかったんじゃない。言えなかったのだ。
「でも、そうね、連絡先を調べようとすればきっと調べられたはずよね。わたしもうちの人に訊いたのよ、沢木君は式に呼ばなくていいの? って。そうしたら……」
「そうしたら?」
「呼ばなくていいって」
 俺は言葉が出なかった。
「ごめんなさい、気を悪くした?」
「いや、俺がこいつだったら、たぶん同じことをしたさ」
「そういうものなの?」女は笑った。「男の人の気持ちって女にはよくわからないわ。だってうちの人、沢木君のことが自慢なのよ。『あいつは俺らの仲間で一人だけ東京の大学を出て、今も東京で頑張っている。大したやつだ、俺なんかとはできが違う』って、よく話してるのに」
「頑張ってるなんて――」俺は笑ったつもりだったが、うまく笑えたかどうかわからない。「本当は、あいつの方がずっと立派なんだよ。地に足をつけて生きてる。だから、こんないいお嫁さんをもらえたのさ」
「やぁだ。東京に住んでると、口がうまくなるみたいね」
「じゃあ、俺はそろそろ」
「まだ、いいじゃない」
「いや、でも……」俺は初心(うぶ)な中学生みたいに口籠った。
「ねえ、ワインでも飲まない? 沢木君」
「ワイン?」
「ワインって言ったって、スーパーで売ってる数百円のよ」
「そっか。それもいいな」
「ワイングラスなんて洒落たものはないんだけど」
 店で使うお冷用のコップが二つ。安くても、ワインは鮮やかに赤い。
「ええと、じゃあ改めて、おめ――」
「乾杯」
 岩田の嫁さん、いや、葦原は俺の言葉を遮るようにして、手を少し伸ばした。コップの縁が、ぎこちなく触れ合った。まるで中学生同士のファーストキスみたいに。

 微かに波の音が聞こえた。いや、本当は波の音じゃなかったのかもしれないが、波の音が聞こえたような気がしたのだ。
 あの時と、同じように。
「ねえ、これからどうするの?」
「さあて、ね」
 9時を過ぎた女は色っぽい。12時を過ぎた女は、男も、どこか哀しい。
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