第4話 懐旧(オレンジ、幽霊、ツキノワグマ)
文字数 1,331文字
日曜の午後、久々に部屋の大掃除をした。すると、このワンルームのアパートに来てから一度も開けていない段ボールの中に、クマのぬいぐるみを見つけた。いや、熊のぬいぐるみを見つけた。妙齢の女性が持つには少々リアルすぎるその風貌は「クマ」よりも「熊」がしっくりくる。
このぬいぐるみは、子供の頃、近所に住んでいた男の子が、私の引っ越しの時に餞別としてくれた物だ。すっかり忘れていた。
ビビットなオレンジ色のTシャツが、明るいその子の雰囲気によく似合っていたことを覚えている。
彼はオレンジ色の三角屋根が素敵な、広いお屋敷に住んでいて、私たちはよくお屋敷の庭で遊んだ。正面の通りからは見えないその庭は、私たちの秘密の場所だった。もう夏も終わるというのに、あたりには赤いつつじの花がめいっぱい咲いていた。
県外に引っ越すことが決まった次の日、私はあの庭に行った。もうここに来ることができないことを彼に伝えると、彼は家の中からこの熊のぬいぐるみをとってきて、べそをかいている私に突き出した。
「これやる」
私はなんとかそれを受け取ったものの、ぬいぐるみの放つ迫力に驚いてしまって、ただ立ち尽くしていた。
「ヒグマ」
彼はそれだけ呟いた。
え、と私が言葉に詰まっていると、彼はこう続けた。
「ヒグマは北海道にいるんだ。そして、力が強くてかっこいい」
だから何だというのだろう。
きょとんとする私を見て、彼は満足そうに頷いていた。
いつの間にか涙は乾いていた。
あの時の彼は泣いている私をあやしてくれたのだろうか。
もう一度、ぬいぐるみをよく見る。
ヒグマ、彼はそう言ったが、この特徴的な胸の三日月模様があるのはヒグマではなくツキノワグマだ。
あんなに自信満々に言っていたのに、と思わず笑ってしまった。彼も子供だったということだ。
あれから20年以上経つ。名前も忘れてしまったけれど、彼は元気だろうか。
私はこの夏、二十六の誕生日を迎える。
視線をぬいぐるみの入っていた段ボールに戻すと、あの子のTシャツに負けないくらいのオレンジが目に入った。それは輪っか状の布切れで、真ん中に2つ、穴が開いていた。
小学生の頃、裁縫にハマっていた私に曽祖母がくれたものだ。そういえば、「武二さんが好きな色なのよ」と教えてくれたっけ。武二は、曽祖父の名前だ。教えてくれた曽祖母も、私が中学生の時に亡くなった。
そんなことを考えながら不思議な穴を見ていると、ふと、思いついた。その穴にぬいぐるみの頭と前足を通してみる。
胸の三日月模様が隠れた。経年で赤ちゃけた毛の色も手伝って、ヒグマのように見える。
その時、急に目の前がちかちかして、真っ白になった。突然、彼の名前が思い浮かんだ。
そうだ、思い出した。あの子の名前は確か、たけくんと言った。本名かどうかは定かでないが、少なくとも私は彼をそう呼んだ。
引っ越しの当日、引っ越し業者のおじさんたちが、あのお屋敷がここ十年間、人が住んでいないにも関わらず、人影を見たという噂の絶えない幽霊屋敷だと話すのを聞いた。私はその日、彼の家には行かなかった。
いつの間にか、外は夕日の沈む時間になったらしい。空は不気味な程に鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
このぬいぐるみは、子供の頃、近所に住んでいた男の子が、私の引っ越しの時に餞別としてくれた物だ。すっかり忘れていた。
ビビットなオレンジ色のTシャツが、明るいその子の雰囲気によく似合っていたことを覚えている。
彼はオレンジ色の三角屋根が素敵な、広いお屋敷に住んでいて、私たちはよくお屋敷の庭で遊んだ。正面の通りからは見えないその庭は、私たちの秘密の場所だった。もう夏も終わるというのに、あたりには赤いつつじの花がめいっぱい咲いていた。
県外に引っ越すことが決まった次の日、私はあの庭に行った。もうここに来ることができないことを彼に伝えると、彼は家の中からこの熊のぬいぐるみをとってきて、べそをかいている私に突き出した。
「これやる」
私はなんとかそれを受け取ったものの、ぬいぐるみの放つ迫力に驚いてしまって、ただ立ち尽くしていた。
「ヒグマ」
彼はそれだけ呟いた。
え、と私が言葉に詰まっていると、彼はこう続けた。
「ヒグマは北海道にいるんだ。そして、力が強くてかっこいい」
だから何だというのだろう。
きょとんとする私を見て、彼は満足そうに頷いていた。
いつの間にか涙は乾いていた。
あの時の彼は泣いている私をあやしてくれたのだろうか。
もう一度、ぬいぐるみをよく見る。
ヒグマ、彼はそう言ったが、この特徴的な胸の三日月模様があるのはヒグマではなくツキノワグマだ。
あんなに自信満々に言っていたのに、と思わず笑ってしまった。彼も子供だったということだ。
あれから20年以上経つ。名前も忘れてしまったけれど、彼は元気だろうか。
私はこの夏、二十六の誕生日を迎える。
視線をぬいぐるみの入っていた段ボールに戻すと、あの子のTシャツに負けないくらいのオレンジが目に入った。それは輪っか状の布切れで、真ん中に2つ、穴が開いていた。
小学生の頃、裁縫にハマっていた私に曽祖母がくれたものだ。そういえば、「武二さんが好きな色なのよ」と教えてくれたっけ。武二は、曽祖父の名前だ。教えてくれた曽祖母も、私が中学生の時に亡くなった。
そんなことを考えながら不思議な穴を見ていると、ふと、思いついた。その穴にぬいぐるみの頭と前足を通してみる。
胸の三日月模様が隠れた。経年で赤ちゃけた毛の色も手伝って、ヒグマのように見える。
その時、急に目の前がちかちかして、真っ白になった。突然、彼の名前が思い浮かんだ。
そうだ、思い出した。あの子の名前は確か、たけくんと言った。本名かどうかは定かでないが、少なくとも私は彼をそう呼んだ。
引っ越しの当日、引っ越し業者のおじさんたちが、あのお屋敷がここ十年間、人が住んでいないにも関わらず、人影を見たという噂の絶えない幽霊屋敷だと話すのを聞いた。私はその日、彼の家には行かなかった。
いつの間にか、外は夕日の沈む時間になったらしい。空は不気味な程に鮮やかなオレンジ色に染まっていた。