第3話 浮遊(公園、スプーン、疑問)
文字数 1,880文字
夕日の沈む時間帯、あの人はいつも「ぴよぴよ公園」のベンチに座っていた。
「ぴよぴよ公園」は船入市立第三公園のことである。僕の知る限り、ここら辺の小学生はこの公園のことを「ぴよぴよ公園」と呼ぶ。理由はよく知らない。
あの人はいつも、年季の入ったトレンチコートを着て、ぼさぼさの髪の毛と、伸ばしっぱなしのひげを携えていた。大人はあの人にあまり近づかないよう、僕たちによく言い聞かせた。
ある日の夕暮れ時、あの人はいつものようにベンチに座っていた。いつもと違ったのは、あの人が少しだけ笑っているように見えたことだった。
ぴよぴよ公園でみんなと別れた後、僕はあの人が何を考えているのか、どうしても知りたくなって、尋ねた。
「どうして笑っているの?」
するとあの人はぎょろりした目でとこちらを見た。
僕はどきっとして、少し後退りをした。
するとあの人は、ああ、いけない、怖がらせてしまったね、と優しく笑った。
「お詫びに、君の知りたいことを教えてあげよう。明日また、ここへおいで。家の人に、少し帰りが遅くなることを伝えてくるんだよ」
僕は少し戸惑ったけれど、好奇心に勝てず、こくん、と頷いた。
知らない人について行ったらだめですよ、と学校の先生が言っていたのを思い出したけれど、今さら後には引けなかった。
次の日、僕はそわそわしながら一日の授業を受け、足早に家に帰った。
お母さんはいつも仕事で遅くまで出かけている。僕の帰りが少し遅くなっても、きっと僕のほうが早く家に帰るのだけど、一応置手紙に帰りが遅くなります、と書いてからぴよぴよ公園に向かった。
公園に着くと、あの人はベンチに座らず、その横に立っていた。
あの人は僕に気がつくと、にこりと笑って、右手に何かを覗かせた。それはあの人の格好に似合わない、綺麗な銀色のスプーンだった。
「それは何?」
「きっとこれが、君に幸せをもたらすよ」
質問には答えてくれなかった。
怪訝な顔であの人の顔を見上げると、あの人はまた、にこりと笑った。
次の瞬間、目線が少し高くなるのを感じた。
足元には先ほどのスプーンがあった。正確には、スプーンが巨大化していて、僕とあの人がスプーンの上に載る格好になった。
え、え?と戸惑う僕を見ても、あの人はにこりと笑うだけだった。
「まずは、病院に行ってみよう」
あの人がそう言うと、スプーンは更に高度を上げ、一定の方向に進みだした。
驚きが一度落ち着くと、今度は心地よさを感じるようになった。下には街並みが見えて、僕は興奮した。
「さあ、着いた」
そこはお母さんが働いてる病院の真上だった。お母さんは看護師だ。丁度病院の中庭で、患者らしきおばあさんと話しているのが見えた。
おばあさんはとても楽しそうで、僕はなんだか誇らしい気持ちになった。
「他に行ってみたいところはあるかい?」
あの人は僕に尋ねた。
僕は飛び上がりそうなくらい嬉しかった。
どこへでも連れて行ってあげるよ、というあの人の言葉に、わくわくした。
「街の中心に、新しいお菓子屋さんが出来たんだって。昨日、友達が言ってたんだ。そこに行ってみたい。それと、玩具屋さんにも。あとは、あの大きなビルと、あっちに見える海。それから…」
「おやおや、今日中にまわりきれそうにないね。また今度にしよう。明日も来るかい?」
僕は即答した。
「行く!」
次の日も、またその次の日も、僕はぴよぴよ公園に向かった。あの人は毎日色々な場所に連れて行ってくれた。
風が気持ち良くて、街中のほとんどを巡りきったころには、それ自体に夢中になっていた。
眼下に見える街並みも、いつの間にか見慣れていた。
「他に行きたいところや、知りたいことはないのかい?」
ある頃から、あの人は頻繁に僕に尋ねるようになった。
最初はいろいろと興味のある場所に連れて行ってもらっていたけれど、だんだん疑問をひねり出すのが難しくなってきた。何よりこの開放感で思考回路が止まってしまう。
そのうちその問いを面倒に感じて、遂にある日は、特にないよ、と答えた。
そう、というあの人の表情が少し寂しそうなことには、気づかないふりをした。
次の日、僕はいつものようにぴよぴよ公園に出かけた。ベンチの横には誰もいなかった。代わりに、夕日に照らされてきらりと光る何かがベンチに置かれていた。
思わず駆け寄ると、それは銀色のスプーンだった。
それを手に取った僕は、ああ、きっともう僕は飛べないのだ、と思った。
少しだけ寂しくなって周囲を見渡す。
それでもまだ、そこは見慣れた景色のままだった。
「ぴよぴよ公園」は船入市立第三公園のことである。僕の知る限り、ここら辺の小学生はこの公園のことを「ぴよぴよ公園」と呼ぶ。理由はよく知らない。
あの人はいつも、年季の入ったトレンチコートを着て、ぼさぼさの髪の毛と、伸ばしっぱなしのひげを携えていた。大人はあの人にあまり近づかないよう、僕たちによく言い聞かせた。
ある日の夕暮れ時、あの人はいつものようにベンチに座っていた。いつもと違ったのは、あの人が少しだけ笑っているように見えたことだった。
ぴよぴよ公園でみんなと別れた後、僕はあの人が何を考えているのか、どうしても知りたくなって、尋ねた。
「どうして笑っているの?」
するとあの人はぎょろりした目でとこちらを見た。
僕はどきっとして、少し後退りをした。
するとあの人は、ああ、いけない、怖がらせてしまったね、と優しく笑った。
「お詫びに、君の知りたいことを教えてあげよう。明日また、ここへおいで。家の人に、少し帰りが遅くなることを伝えてくるんだよ」
僕は少し戸惑ったけれど、好奇心に勝てず、こくん、と頷いた。
知らない人について行ったらだめですよ、と学校の先生が言っていたのを思い出したけれど、今さら後には引けなかった。
次の日、僕はそわそわしながら一日の授業を受け、足早に家に帰った。
お母さんはいつも仕事で遅くまで出かけている。僕の帰りが少し遅くなっても、きっと僕のほうが早く家に帰るのだけど、一応置手紙に帰りが遅くなります、と書いてからぴよぴよ公園に向かった。
公園に着くと、あの人はベンチに座らず、その横に立っていた。
あの人は僕に気がつくと、にこりと笑って、右手に何かを覗かせた。それはあの人の格好に似合わない、綺麗な銀色のスプーンだった。
「それは何?」
「きっとこれが、君に幸せをもたらすよ」
質問には答えてくれなかった。
怪訝な顔であの人の顔を見上げると、あの人はまた、にこりと笑った。
次の瞬間、目線が少し高くなるのを感じた。
足元には先ほどのスプーンがあった。正確には、スプーンが巨大化していて、僕とあの人がスプーンの上に載る格好になった。
え、え?と戸惑う僕を見ても、あの人はにこりと笑うだけだった。
「まずは、病院に行ってみよう」
あの人がそう言うと、スプーンは更に高度を上げ、一定の方向に進みだした。
驚きが一度落ち着くと、今度は心地よさを感じるようになった。下には街並みが見えて、僕は興奮した。
「さあ、着いた」
そこはお母さんが働いてる病院の真上だった。お母さんは看護師だ。丁度病院の中庭で、患者らしきおばあさんと話しているのが見えた。
おばあさんはとても楽しそうで、僕はなんだか誇らしい気持ちになった。
「他に行ってみたいところはあるかい?」
あの人は僕に尋ねた。
僕は飛び上がりそうなくらい嬉しかった。
どこへでも連れて行ってあげるよ、というあの人の言葉に、わくわくした。
「街の中心に、新しいお菓子屋さんが出来たんだって。昨日、友達が言ってたんだ。そこに行ってみたい。それと、玩具屋さんにも。あとは、あの大きなビルと、あっちに見える海。それから…」
「おやおや、今日中にまわりきれそうにないね。また今度にしよう。明日も来るかい?」
僕は即答した。
「行く!」
次の日も、またその次の日も、僕はぴよぴよ公園に向かった。あの人は毎日色々な場所に連れて行ってくれた。
風が気持ち良くて、街中のほとんどを巡りきったころには、それ自体に夢中になっていた。
眼下に見える街並みも、いつの間にか見慣れていた。
「他に行きたいところや、知りたいことはないのかい?」
ある頃から、あの人は頻繁に僕に尋ねるようになった。
最初はいろいろと興味のある場所に連れて行ってもらっていたけれど、だんだん疑問をひねり出すのが難しくなってきた。何よりこの開放感で思考回路が止まってしまう。
そのうちその問いを面倒に感じて、遂にある日は、特にないよ、と答えた。
そう、というあの人の表情が少し寂しそうなことには、気づかないふりをした。
次の日、僕はいつものようにぴよぴよ公園に出かけた。ベンチの横には誰もいなかった。代わりに、夕日に照らされてきらりと光る何かがベンチに置かれていた。
思わず駆け寄ると、それは銀色のスプーンだった。
それを手に取った僕は、ああ、きっともう僕は飛べないのだ、と思った。
少しだけ寂しくなって周囲を見渡す。
それでもまだ、そこは見慣れた景色のままだった。