月の裏で会いましょう

文字数 2,630文字


 ようやく写真から抜け出すことができた。同じ格好でずっといるのは辛かった。波から逃げるように小走りしかけた形で、写真を撮られた時からずっと同じ格好。俺がいなくなった写真には波打ち際しか写ってない。
 写真というのは「真を写す」と書いてある通り、その瞬間の真実を写し、その瞬間を時間から切り取っている。切り取られたその時は、その瞬間で止まって、過去となり、凍結するのだ。だから、止められた過去になる人物、つまり俺のことだが、同じ格好をしておく必要がある。これは、つらい。一度やってみるといいよ。止まった時間で、同じ格好をする。精神的にも肉体的にも辛いことだ。
 時間というものが、写真という手段で切り取られ、過去として残ることを、現在に生きている人は心情的には知っているが、科学的には全く知らない。俺だって、切り取られるまでは、写真というものは、ただの記録だと思っていたんだから。でも、良いところもあるんだ。写真になってしまえば自由は全くないが、うまくいけば、現在が死んでも、過去として写真の中で生き残ることができる。まあ、何も出来ないから意味はないが、死にたくないという人間の願望だけは叶えることができる。なにしろ、生きている人間は、その一瞬しか生きていないし、瞬間瞬間が過去としてすぐに消えていく。未来だって、生きていればやってくるが、それも一瞬のうちに過去になっていく。時間で切り取られることがないと、存在なんてものは、無いのと一緒なんだ。
 さて、自由になったので、ようやく目的の場所に行ける。いつ旅立てばいいか、確かめないといけない。写真から抜け出たのは、波打ち際にいた俺だけでは無い。

 「おい、電話をかけてた橘慶太、ちょっと電話を貸してくれないか?」
 「なんだ、波打ち際で、はしゃいでいた橘慶太、電話は空いてるよ。使いなよ。俺は行き先、さっき聞いたよ。一緒に行くかい?」
 「やだよ。自分で聴きたい。でも、ゴールは一緒だからなあ。どうせ会っちまう。」
 「みんなゾロゾロ向かっているみたいだ。じゃあ、また後で。」
 写真から抜け出た、かなり若い頃の俺はスーツ姿でさっさと行ってしまう。あの電話かけてる姿を撮ったのは、当時の同僚であり、彼女だった。慶子は、今頃、どうしているんだろう?写真で切り取られた時から、それより先のことは知らない。ずっとその時間で止まっているから、過去を振り返ることはできるが、過去になっていく、自分にとっての未来は見てないのだ。俺は二十八歳の砂浜で止まったまんまだったんだ。
 あれ、楽しかったんだよな。あの写真は慶子が撮ったんだ。あいつが、あの時の俺を切り抜いた。まだ、春先で海水浴には早い時期だけど、日差しが強くて、暑くて、海に入りたくて、靴脱いで、靴下脱いで、濡れた砂の上に立って、ズボンをまくって、足の先だけ海に浸かったんだ。波が際で弾ける音と一緒に、休みの日だから気持ちも弾けていたんだ。いい時を切り抜いてもらったよ。
 過去で止まった電話で、行き先を聞いた。電話は過去で止まったままだが、真実に写された過去に存在するから、現在や未来のように嘘はつかない。
 「屋上に上ってください。時間になると出発できます。」
 「いつの時間だ?」
 「過去に写しています。」
 「教えてくれないの?」
 「はい。でも、電話をする橘慶太は知ってましたよ。それより後の海辺の橘慶太であれば、知っているはず。」
 「ヒントは・・」
 「プッ・ツー・ツー・ツー・・・」
 電話が切れやがった。仕方がない、アルバムを旅しよう。
 生まれたての俺もベットを残してさっさと出て行ってしまっていた。小学校の俺も、その友達も、運動会の校庭と万国旗を残して駆け出した後だった。卒業式にも誰もいない。バーベキューセットだけが残ったキャンプ場、俺や人がいない写真は景色ばかりになっていった。人がいない写真って、本当に味気ないな。寺とか、海とか、山とか綺麗なところもあるけれど、どうも頼りない。写真から抜け出た俺が言うのもなんだが、写真から過去が抜け出たら、マズイのではないか?過去を証明するものがなくなってしまう。誰かの思い出に残っているって考え方もあるけど、人の記憶ってのも、覚えている奴が死んだら消えるし。
 「あった!この時間だ!」
時間を指す写真発見。
 これを撮ったのは、覚えている。次の日、バスケの試合が遠くて、でも、コーチのヘマで宿が取れなくて、早起きを強要されて、早く寝た時の証拠だ。目覚ましの時間は四時三十分、で、布団に潜り込んだのが夜の七時半。でも、あれ、面白かったなあ。まだ小学校六年生で、そんなに早く起きるの初めてで、集合場所の早朝の眩しいコンビニでコーチが肉まんをみんなに買ってくれたんだ。真っ暗なバンの中でみんなで、あったかい肉まんを食べたんだ。あの時の写真とか撮っとけば良かった。今までにない早朝に起きて、仲間と車に揺られて、ヘッドライトの向こうの暗闇に、活躍を予感した試合会場を想像したんだ。楽しかったなあ。あの時の時間が、こんな時に役に立つなんて、世界は不思議に満ちていたんだ。

 真冬のマンションの屋上です。冷たい空気を突き通すように白い光が満ちています。満月が夜空の真上にあります。地球にとって最大の隣人である月は、ウサギのいる面しか地球に向けません。これは月が地球を一周する間に、自分自身が一回自転しているためだからです。月は二十七・五日で地球の周りを一回、回りますが、月そのものも同じようにゆっくりと一回、自転するために隣の地球には絶えず、うさぎのいる同じ面をむけています。これを自転と公転が同期(シンクロナイズ)しているといいます。だから地球から月を眺める限り、月の裏側を見ることができません。屋上に集まった小さな写真の人物たちは、月に向かって一斉に飛び上がりました。彼らはグングンと上昇していき、山を越え、地上の作り物の光から逃れ、成層圏を超え、眼下に見下ろす地上の営みの光に目を向けることなく、月の裏側に飛んでいきました。
 「月って白いな、大きいな。もうすぐ俺たちの約束の場所に着く。あそこにいれば、今の連中の誰にも見られることなく休めるんだ。それに懐かしい連中にも会えるだろう。」
 浜辺の橘慶太は、たくさんの切り取られた過去たちと一緒に大きな白い月の弧を眼下に通り越していきました。決して地球から見ることができない月の裏側はもうすぐです。(了)
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