§04 12/16(木)薄曇り(でもそんなに寒くない)

文字数 4,228文字

 翌朝、なにごともなかったかのように、日浦から声をかけてくれた。
 机の上に開いていた文庫本の背表紙を覗き込み、へえ…という顔をした。そのとき私は『レベッカ』を読んでいた。すでに下巻の半ばを過ぎている。昨夜からの続きだとはいえ、この手の物語の終盤を朝から電車や教室で読むのは、ちょっとお勧めできることではない。家族がみんな出払った家のベッドの上に寝ころんで、世界が終わったかのような平日の昼日中の静けさの中で、没入しつつ読み終えたい気分になるからだ。
「それな? もう明らかに狭くて暗いとこに追い詰められてくやつって、読み継ぐタイミング間違えると残念な気持ちになるよな」
 まだ朝は少し早い。私は生来的に早起きなので(早朝から仕込みが始まる甘味処に生まれ育った環境も手伝ったろうし、実はショートスリーパーでもある)、まだ生徒が少ない教室で本を読むことが多い。この、生徒の少ない状況がそこそこ長く続くなら、まあここで読み継ぐのも悪くはないだろう。だが、なにしろ今は始業前であるからして、まさに残念なことに、生徒の数は刻々と増えていく。それも騒々しく、無秩序に雑然とした感じで。
 日浦は空いていた前の席に、私と向き合って座った。
「デュ・モーリアはいいよね。お気楽なハッピーエンドを描かない。だからハリウッド映画にはならない。ハリウッドの原作になるのも偉いが、絶対にならないのも偉い。――今夜には読み終えそうだね。もう『レイチェル』は購入済み?」
「あ、やっぱりそうなる?」
「こいつがむっちゃ気に入ってるなら、少し間を置いたほうがいいと思うよ。印象が混ざるのがもったいない。年明けまで待つとか」
「私、この年末年始は『氷』を読むって決めてるの」
 わざとらしく(でも嬉しそうに)日浦が小さく口笛を鳴らした。
「最高のシンデレラ・ストーリーだぜ!」
「マジで言ってる? ディストピア系だよね?」
「読めばわかるよ。ラストはほんと痺れるぞ!」
「ねえ、吉野さんさ――」
 まるで、ちょっと大きなクマのぬいぐるみを、邪魔くさそうにひょいっと椅子の上からどかすように、平木さんと日浦が入れ替わった。ほんとうに、平木さんが肩口をポンッと叩いたら、それだけで日浦が椅子から転げ落ちたみたいだった。
「明日なんだけど、悟朗じゃなくて日浦連れてってもいいかな?」
 へッ…!?
「はあッ? 俺そんなの聞いてな――」
「茉央が悟朗取っちゃってさ、ほかに埋められるやついないんだよね」
「そんなの瀬尾とか大迫でいいじゃん!」
「あんなバカなんの役に立つ?」
「いや、だって――あ、内藤がいた。ほら、ちょうどそこに」
「さらにグレード下げてどうするよ」
 確かにちょうどそこに――椅子から弾き出されて隣りに立つ日浦が指さした先に――内藤くんが物静かな感じで教室に入ってきた。この期末試験で二期ぶりに(という数え方でいいのかな?)紀平さんに理系トップ(すなわち学年トップ)の座を明け渡した内藤くんである。だけど首位とは僅差の二位で、三位とは大差の二位だ。あの二人はたぶん二問か三問しか間違えていない。そう、全教科を通じてだ!
 私たちに見られていることに気づき、きっと「私たち」の中に平木さんの顔があったからだろう、内藤くんは酷く狼狽した様子で全身を強張らせつつ自分の席に座った。背筋をピンと立て、息を殺して虚空を睨んでいる。……みたいに見える。まるで、禅の境地を見極めようとでもするかの如くに。――もお、吹き出しそうになったじゃん!
「グレードは下がらないだろ?」
「女がどうやって生き残るか?て話をするんだぞ。内藤が貢献できるか?」
「それ言ったら茶山こそ無理だ」
「あれはいいの、お土産だから。茶山ってちょっとマスコット感あるじゃん?」
 なんかそれすっごくよくわかる!
「ねえ日浦、頼まれてよ。紀平さんと仲良しでしょ? 昔馴染みなのよね? 一日くらい佐藤と離れてもいいじゃない。――ね、日浦、お願いよ!」
「きゅ、急に女を押し出してくるな……」
 そう、ビックリした。平木さんがその美麗な顔に、それこそ急に女の気配を纏わせた。日浦が困っている。顔は広いけれど、決して平木さんたちの仲間とは言い難い日浦だから、それはもうほんとうに困るだろう。明日は佐藤由惟とデートできないのか…なんてことを残念がっている余裕はない。学校の外で平木さんと同席する事態に思考を巡らせている。想像を目いっぱいに働かせている。
 他方で、私のドキドキも凄いことになっていた。「学校の外」とは、ほかならぬ「我が家」である。そこに、日浦がやってくるのだ。まだ決まってないみたいだけど、たぶん日浦は断らない(断れない)だろう。一瞬、掃除しなきゃ!とか、可愛らしいぬいぐるみでも置いとく?とか、いやほんの一瞬だけど、そんな勘違いと邪念とが脳裏をよぎった。が、しかし、日浦が上がるのはあくまでも店舗の小上がりであって、私のプライベートルームではないのだった。当たり前だよ!
「でもさ、『女がどうやって生き残るか?』なんて、そんなの俺にだって――」
「日浦なら紀平さんとの話に入ってこれるじゃない?」
「いやあ、まあ……」
「紀平さんと私に同席できるやつなんて、ほかにいる?」
「う~ん、まあ……」
 悶え苦しむ日浦を見るのは初めてだ。なにしろいつも澄ました気配を崩さずに、周りをいくらか斜めな姿勢で眺めている。日浦をいとも簡単にこんな様子にしてしまうのだから、平木さんはやはり相当に偉い人物なのだと考えておいたほうがいい。
「日浦、これは謂わばノブレス・オブリージュだよ。自分で蒔いた種。そいつを回収する機会を用意してあげる、て言ってるの。わかるよね?」
 凄いな……。平木さん自分でそれ言っちゃうのか。誰のお陰で今のポジションを維持できてると思ってるのかしら…というやつだよね? それとも、いつも可愛がってもらってる恩返しのチャンスでしょ!て意味かな?
 ……いやあ、怖いなあ。平木さん一部で「女帝」とか呼ばれてるの知ってたけど、ほんとに怖い人なんだなあ。つまりこの人と互角に渡り合えるのが、現状、紀平さんと袴田くんだってことだよね。その代役を日浦が仰せつかったわけ? いやあ、日浦これ大丈夫かなあ。ちょっと心配だなあ。でも私これ完全に他人事になってるなあ。
「おい、吉野。おまえも黙ってないでさ、女帝になんか言ってやってくれよ!」
 あ、バレた……。
「うちのおすすめメニューでも聞いとく?」
「お、それこそ今いちばん欲しかった情報――のわけねえだろ!」
「明日は現地集合だから。遅刻したら殺すよ」
「平木ちょっと待て! 俺はまだ……」
 やり残したことがあるんだ~!て続くの?
「ご愁傷さま」
「あのさ、明日さ、吉野も座ってくれない?」
「私は〈中の人〉だから」
 日浦はなにバカなことを言っているのか。相手は平木さんと紀平さんである。美貌と頭脳で我が校の一、二を争っている二人である。いや、美貌は争うものではないかもしれない。少なくとも平木さんほどの真正な美女は争わないものだとも聞く。正しい美女は幼い頃から母親に美貌の無意味さを擦り込まれるから、いい感じに拗れているものだとも聞く。岡田斗司夫が昔そう言っていたのをユーチューブの無料アーカイブで見て、なるほどそういうものか…と感心した。私は幼い頃から「リッちゃんは可愛いねえ」と甘やかされてきたので、やはり真正の美女ではないらしい…とそこで再認識した。
 日浦は思いのほか、殊のほか凹んでいる。やはり、せっかくの短縮授業となった週末の金曜午後を、佐藤由惟と一緒に過ごせないことに凹んでいるのかもしれない(そう言えばどうして短縮授業なのだっけ?)。あるいはやはり、地元でいちばん喧嘩が強いと自負する男が格闘家に手玉にとられるかの如く、平木さんに簡単にあしらわれたことに凹んでいるのかもしれない。どちらなのか、私には理解不能だ。たぶん、どちらも、なのだろう。どちらも言ってみれば「残念なこと」だ。けれども同じ残念でも趣きはかなり違う。後者の残念には、たぶんこの先も挽回される機会はやってこない。いや機会はやってくるかもしれないが、そこで挽回できるとはとても期待できない。
 しかし、である。だから後者のほうが残念の度合いが強い、という話でもない。たとえば、私たちの体が所詮は遺伝子の乗り物に過ぎないと謂われる話や、たとえば、私たちの心が所詮はニューロン間の電気信号の交換現象に過ぎないと謂われる話や、それらが決して「残念なこと」ではないのと同じだ。科学的に確からしい現実を、あるいは生物的進化の末に獲得されたと考えるべき形質を、「残念なこと」だと捉える発想は、貧しいばかりか醜いとすら言っていい。私たちはその奇跡に感動し、感謝すらすべきなのだ。問題は、感謝すべき相手が誰で、今どこにいるのかわからないという点であり、もし世の中に「残念なこと」があるとすれば、これをもって嚆矢とすべきだろう。
 ――意味のない屁理屈を捏ねた。それもこれも、日浦を慰めるためである。その日浦が、明日、我が家にやってくる。私を訪ねてくるわけではないけれど、店舗スペースと居住エリアは繋がっているし、なにより約束の時間に店番をしているのは私なのだ。従って、日浦は明日、私を訪ねてくるのだと言ってしまっても、決して言い過ぎではないのではないか? 反語的強調、二重否定もまた肯定を強調する。私は小説家になりたい! でもどうしたわけか理系科目のほうがデキがいい。そこは日浦と私の共通項だ。私たちは二人とも、理系脳を授かって生まれてきた文学少年少女である。
「はあ……」
 と、日浦が大きく溜め息をついた。
「提督のワガママは通るわけだよ。なんだか知らないけど、提督になら平木はあっさり袴田を譲るんだ。でも俺の言い分は通らない。まさにこれこそが、いま俺の眼前に横たわる現実ってわけだ。あるいは真実と言い直してもいい」
「なんかさ、〈不都合な真実〉て、あったよね?」
 そんな、恨めしそうな目で見ないでよ。自分で蒔いた種なんでしょ? まあそうだよね。佐藤由惟って桃井さんの従姉妹だもんね。桃井さんて前からちょっと危ない感じしたよ。あの辺の人たちと仲良くするのってさ、やっぱりリスクが伴うものなんだよ。日浦その辺もうちょっと考えたほうがいいんじゃないかな? 明日の件は、まあ、今さらどうしようもないにしてもね。
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