§15 12/19(日)快晴(寒いよお…)

文字数 4,193文字

 日曜日には神田神保町の三省堂本店に行った。人形町から神保町なら歩いても行ける。この日は晴天だった。でも寒かった。歩いても行けるよ!と正確に北西方面を指さした美羽だったが、もちろん地下鉄に乗った。たった三駅だけど。
 私はまだ十七歳で、だから、強い思い入れのある場所とは言い難い。懐かしさのような感覚もあろうはずがない。ただ、初めてやってきた日のことはよく憶えている。中学一年の夏、たった四年前だ。懐かしむにはまだ早い。
 この場所が、その名高さの源泉である古書店街としての姿を失いつつあることは、もちろん知っていた。だけどそれは大した問題ではなかった。私はたくさん本を読みたいと考え、古今東西の名作を読み尽くしたいと考え、その海原へと旅立つ儀式のようなものが欲しいと考えた際に、中学一年生の少女の頭の中に、この街が浮かんだのである。
 ある意味、この三省堂本店は、そうした象徴的な位置づけにあるのだと思う。減ったとは言え今でもそれなりの数を残している老舗の古書店ではなく、新刊本を扱う超大型書店がシンボルになるのは当然のことだろう。そこが起点となって本は人の手から手へ流通するのだ。……なんて、知ったふうなことを考えながら、私たちは早々に、やはりこちらも老舗として名高いカフェ(は日曜定休なのでそのご近所の店)のテーブルに陣取った。
「今日も午後からお店?」
「そうだよ。もう年明けまでずっと店に立つ」
「稼ぐねえ」
「特別手当も約束してもらったんだ」
「ん? お年玉とは別に?」
「もちろん! お年玉に上乗せだよ!」
 こんな冬の始まりの時節になにが見られるというわけでもないのだが、ホットチョコレートを飲み終えた私たちは、ぶらぶらと靖国通りを九段下に向かって上り、日本武道館のたまねぎを見上げ、桜の葉の散った千鳥ヶ淵を眺め、戦前に建てられた(らしい)駐日英国大使館の立派な建物を回り込んで、半蔵門から帰宅した。
 とても十七歳の女子高校生の日曜日とは思えない散策ルートである。とは言え、都内に暮らす読書家(にならんと欲する人間)の務めは果たし終えた。
 お天気のいい師走の日曜午後の甘味処は無茶苦茶に混み合った。私は腰掛ける時間もほとんどなく店内を動き回った。やはり大きな買い物袋を下げたお客様が多かった。一目見てクリスマスプレゼントだとわかる包み紙もけっこうあった。年末年始はやはり特別で、お客様の様子がいつもとはずいぶん違っている。

     *

 店の窓の向こうに日浦の姿を見つけたのは、ようやくお客様が減り始めた十七時前後だったかと思う。もっと前から店の前を往き来していたのかもしれない。一度ちらりと視線が交叉したけれど、日浦は店内には入ってこなかった。確かに高校生男子が一人で足を踏み入れるには、甘味処『よしの』はちょっと敷居が高い。
 暖簾をしまい込むときに日浦が歩み寄ろうとしたので、ちょっと待っていてくれという表情をつくり、手でそれを制した。意図を理解した日浦は頷いて、路を店の端のほうに戻った。すっかり日が暮れて表は物凄く冷え込んでいる。日浦はきっとトイレを我慢しているに違いない……なんてことを思った。バカみたいだけど。
 しかしそんな寒さの中に、日浦をずいぶんと待たせてしまった。表に友達がきていると母に告げると、この日は少しばかり怪訝な顔をした。こんなふうに、三日も続けて誰かが閉店後の私を訪ねてくるなんて、そんなことは初めてだったからだろう。
 私は正直に高校の同級生の男の子だと言った。食事をして帰るほど遅くはならないという意味でそう言ったのだ。けれども母は私に食事代を渡そうとした。私は慌てて首を横に振った。こうした事柄は伝わりにくいのだと新たに学習した。
 なんとなく自分の店がある商店街からは離れたかったので、人形町の交差点を渡った向こう側にあるカフェに入った。そこも同じ中学の学区ではあったけれど、店主や店員から接客モードを超える笑顔を向けられることはないと知っていた。
「なんかカッコ悪いよな」
「なにが?」
「いや店に入ってすぐトイレ行くとかさ」
「そうなんじゃないかなあ、て思ってたよ。寒い中ずっと立ってたんでしょ?」
「まあ、うん……」
「閉店時間までどこか入ってたらよかったのに」
「吉野が気づいてなかったら困ると思って」
「気づいてたよ。だって何度か目が合ったよ?」
「うん、まあ……」
 日浦にしては珍しく歯切れが悪い。ふだんはこんな曖昧な態度をとるタイプではない。私を訪ねてきた理由――いや、理由ではなくテーマかな?――のせいだろう。私はこれから佐藤由惟の話を聞かされるのだ。佐藤由惟の話なら聞きたくない、て言ったのは誰だったっけ? ああ、袴田くんだ。〈袴田悟朗ちゃん〉だ。――私はつい、くすりと笑ってしまった。
「え、なに?」
「あ、ごめん。――ねえ知ってた? 長峰さんて袴田くんのこと〈悟朗ちゃん〉て呼ぶんだよ。バド部とか卓球部の女子はみんなそうなんだって。バレー部やバスケ部は〈悟朗〉なんだって。日浦それ知ってた?」
「知ってたけど、今なんでそれで笑った?」
「佐藤の話なら聞きたくねえ、て言ったんだよ、袴田くんが。悟朗ちゃんが」
「いつ袴田なんかと話したの?」
「金曜日。日浦たちが帰ったあとに吹雪さんと袴田くんがきたの」
「あ、やっぱ来たのか」
「来たのは来たんだけど、お店閉めたあとだったから、一緒にご飯食べに行ったの」
「吹雪と袴田と三人で?」
「平木さんと四人で」
「マジか……。そういやさっき長峰の名前も出てきたよな?」
「長峰さんとは昨夜うちでご飯食べたんだよ。美羽と三人で」
「長峰と梶原? ……吉野、おまえ急に出世したなあ」
「出世って言わないでしょ。みんな同級生だよ。美羽はご近所さんだし」
「でもビッグネームばっかりだぜ?」
「日浦のそういう発想、ちょっとおかしいと思う」
 日浦は軽く息を呑み、わずかにフリーズしたあと、なんだか諦めたように笑った。それから砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーをひとつ口にして、またもや諦めたように笑った。諦めたように…とは、どこか、矜持が崩れたみたいに、という意味だ。
 すぐになにか言ってくれると思った。日浦はおしゃべりだから。だけどなかなか口を開いてくれなかった。日浦の発想はおかしいよ、と言ったのは、これが初めてではない。これまで何度も言ってきた。私は遠慮もなく、そういう考え方はおかしいと言ってきた。
 日浦はそのたびに、これが俺の処世術なんだよ、と自嘲気味に返した。嘯く、というやつだ。それが処世術になり得るのは、私にも理解はできる。私たちはそういう狭い世界に生きているから。だけど実際にそれを処世術として実践するのは簡単ではない。
「世の中には覚醒的な出来事と麻酔的な出来事がある」
 ……?
「言うまでもなく麻酔状態は時間的に長く、覚醒は瞬間的に襲いかかるものだ。劇的な覚醒と覚醒のあいだに、心地いい麻酔状態が続く。桃井との日常も、俺とのデートみたいなやつも、佐藤にとっては連続してる麻酔状態の一形態だった。その前にデカい覚醒があって始まったという意味だ。そしてまたデカい覚醒が訪れて、麻酔から醒めた。――「さめる」は覚醒の「醒」だよ。――どうでもいいことだけど。――最後にキスしてくれたよ。――あいだを飛ばして悪いな。でも飛ばすしかないんだわ。――それで、そうだ、最後にキスしてくれた。濃厚なやつじゃない。でも挨拶みたいなものでもない。誰かを悦ばせたり、悲しませたりできる、そういうキスだな。――吉野、キスしたことある?」
 私は首を横に振った。
「キスはまず挨拶みたいなやつと親密なやつに分かれる。でもって親密なほうには悦ばせるやつと悲しませるやつとがある。――ということを、俺はこの一ヶ月半ばかりで知った。経験的に知った。むろん経験しなければわからない話じゃない。経験しなくてもわかる出来事はたくさんある。そうでなければ殺人者でないミステリー作家なんて生まれない。当たり前すぎて笑っちゃう真実。――ところが経験てのは不可逆的で、transformativeに働きかける。I am not that I was. 日浦奎吾は変容してしまった。でもって、こいつはどうやらそれこそゾンビ的に連鎖していくものらしい。俺の前に桃井が、その前にそもそも佐藤自身が。――では、佐藤を変えたのは誰か? ご存じ、雨野久秀なんだよ」
 日浦、どこも変わってないじゃん。なにひとつ変わってないじゃん。
「あれ? 吉野ちょっと、おまえなんで泣くの?」
「日浦――」
「うん?」
「日浦――」
「うん?」
「私、日浦が好きだよ。日浦の話ならずっとずっと聞いてられるよ。ずっとずっと聞いてたいよ。日浦いつもおかしなことばっか言ってるけど、私それ、ずっとずっと聞いてたい。ずっとずっと聞いてたい。――日浦、それって無理かな? 私じゃ無理かな?」
 ……ああ、ここでまた黙るのか。やっぱり変わっちゃったのか。やっぱり――
「なあ、吉野――文字通り、昨日の今日、という言葉がある」
 ……!
「舌の根の乾かぬ内、と言い直そうか」
 ……!
「朝令暮改…は、ちょっとニュアンス違うね。――でもさ、吉野、たとえば明日の朝さ、俺が吉野とお手々つないで登校したらさ、きっと大迫と茶山に両脇抱えられて、怖い怖い袴田の前に連行されちゃうよ。――いやそっちはあんま怖くないか。怖くないね。怖いのは吹雪と平木のほうだね。いや、あいつら吉野とは関係ないか。関係ないね。じゃあ、やっぱ里美? う~ん、こうなっちゃえば別に、里美も大して怖くないなあ。――やっぱいちばん怖いのはさ、こんなふうに顔が見えてこない連中だよ。そう思わない?」
 ――そう、思わない。
 でも日浦、明日の朝、日浦とお手々つないで登校するなんて、私には無理だからね? その前にちょっと私もトイレ行ってくる。泣くつもりなんてなかったのに泣いちゃったから。緊張のせいじゃないよ、どっちかっていうと弛緩――安堵のほう。日浦が変わってなくて嬉しかったから。でもそれ一緒だな。このまま日浦が変わっちゃったらどうしよう…て昨日ほんとうにそんなこと考えてて、でも今日の日浦は私がずっと見てきた日浦のままだったから、これは緊張のあとの弛緩。人ってそういうときに泣く。そうでしょ?
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み