第2話 嵐の前

文字数 4,612文字

「優勝おめでとうございます。さすがはかの英雄ナタンの愛竜アインオール、軍役を退いてもなお素晴らしい()びでした。鞍上(あんじょう)としては、彼の能力をどう評価されていますか?」

「え? あ、ええ、文句のつけようがないですよ。これ以上強い竜なんてこの世にいるのかと思っちゃいますね。彼と巡り会えたのは幸運です」

 まあ、アインが僕の手元に来たのには簡単なわけがあるんだけどさ。そのわけを、この競竜場の誰も知らないことが悔しく、メヒロトは胸中で歯噛みした。

 勝利が確定した後、彼らは大勢の記者に詰め寄られて質問の嵐に遭難していた。

 クルサーデ競竜は田舎の小規模な競竜で、いつもならこれほどの注目が集まることはない。この地がドラゴン・フライト・レースのスタート地点に選定されたからこその反響だ。

 人々の耳目を集めるのはメヒロトにとって願ったり叶ったりのことだが、こういうことには慣れていないので、なんとなく萎縮してしまう。次から次にやってくる質問のどれを優先すればいいのかわからない。

 しかし、ある質問が耳に飛び込んできた瞬間、全身が総毛立つような心の震えに襲われ、他の質問のことなど頭から吹き飛んでしまった。

「──次はいよいよ本番です。ナタンの

にしてもう一人の英雄、テフィラーが優勝候補として待ち受けるわけですが、心境のほどは」

 テフィラー。そうだ、その名前だ。心の中で繰り返す。僕はあいつが出るというから、このレースに挑むと決めたんだ。だったら答えは決まってる。それにもっと注目を集めないといけない。できるだけ派手にぶちあげてやろう。

「……アインと僕が組んだら最速最強だ。倒して見せますよ、必ずね」

 恐れ知らずの挑戦者に、記者団は一斉に感嘆の声を漏らした。格好の素材を見つけたと言わんばかりに新たな質問を投げかけてくる。しかし、これだけ目立てばもう十分だ。

 縋り付いてくる記者団をあしらい、いろいろな手続きを済ませたあと、再び空へ飛び上がった。先にコースから退場していた他の9組を追いかけるようにして観客の頭上を飛び越える。

 スタンドの裏は広々とした草地になっており、競翔竜(きょうしょうりゅう)を乗せた大きな幌馬車が盛んに出入りしている。それぞれが所属している調教場への送り迎えをする馬車だ。

 しかし、アインオールを乗せる馬車はこの中にはない。というのも、彼は調教師の管理下にないからだ。メヒロト個人の所有竜としての扱いでクルサーデ競竜に籍を置いている。

「まあ、おまえからしたら大歓迎だろ? 馬車なんて窮屈で嫌だもんな」

 アインオールはその通りだと言わんばかりに大きく翼を動かし、家のある方角へ向けて進路をとった。強い雨を切り裂いてスイスイ進んでいく。

「それにしてもえらく降るな……。山の方なんかまったく見えなくなってるし、こんなの初めてだ」

 王国の国土は北を除いた三方が海に囲まれたメヴォラフ半島に位置する。しかし、東には高い山々が連なるガドール山脈が存在し、さらには東から西に向かって吹く偏東風の影響下にある。

 そのため、東の雲は山に阻まれ西の雲は海へ帰っていく。雨が多いのはせいぜい南部だけで、中部に位置するクルサーデでは降水量が少ない。

 だから、メヒロトにとってこの雨は慣れない雨で、同時に楽しい雨だ。14にもなって、という自嘲が頭の片隅にあったが、それでも空を仰いで顔に雨粒を受けてみる。

「大雨って気持ちいいんだな……」

「──そしたら、南のキャタナイアにでも行ってみるといい。あの街は雨ばかりだよ」

「……言われなくたっていきますよ。ドラゴン・フライト・レースのコースに入ってるんですから」

 そう言って、声の主に振り返る。アインオールの何倍かの体躯がある青鱗の竜の姿が視界に飛び込んできた。音もなく飛んできたらしかった。そして、その背にまたがる女。

 雨の中でもわずかな陽光を頼りに輝く、腰ほどまである黄金の長髪。湖底のように蒼い白目と対照的な、鮮血のように紅い虹彩の目。誇りと気迫を発する鋭い顔つき。スラリとした長身を覆う革の鎧。何より、病的に白い肌。

「相変わらず不健康な顔してますね。ついさっき墓の下から出てきたんですか?」

「そういう君も相変わらず手厳しいな。こうして話すようになってからもう何ヶ月か経つんだから、もう少し仲良くしてくれたっていいんじゃないかな?」

「アインのことを諦めてくれるなら、そりゃあ僕だって、偉大な父親の親愛なる部下だったあなたたちと仲良くしたいと思ってますけどね、ノアさん」

 皮肉たっぷりにそう言うと、ノアはその伶俐な雰囲気に似合わないへにゃっとした笑みを浮かべて、困ったように眉を下げた。

「メヒロト、私だって君とアインを引き離すのは忍びない。だが、軍人としてはアインを競竜なんかで遊ばせているわけにはいかないんだよ。先の三禍戦争で彼がどれほど活躍したかなんて、私が今さら言わなくたって知っているだろ?」

「もちろん。そんな名竜が今は僕の相棒なんですから、誇らしいですよ」

「ああ、もう……」

 ノアは困り果てた様子でうなだれてしまった。

 2人が初めて顔を合わせたのは、三ヶ月前に突如としてドラゴン・フライト・レースの開催が発表されてすぐ後のことだった。

 終戦を記念して行われる本レースの準備は軍が主導することになっている。そのため、当然のこととしてスタート地点であるクルサーデにも多くの軍人がやってきたのだが、そのうちの1人がノアだった。

 彼女はアインオールの前の持ち主だった英雄ナタンともっとも親しかった部下として、メヒロトに対して彼の軍への返還を説得する役目を押し付けられたようだった。

「……メヒロト」

 ノアはようやく顔を上げて、静かに語りかけた。最近は説得も半ば諦め気味というか、投げやりな感じだったので、こう真面目な雰囲気で来られるとメヒロトとしてはちょっと身構えてしまう。

「私は何も任務だからという理由だけで何度も説得にきているわけじゃないんだよ。これは君のためでもあるんだ」

「僕のため?」

 どんな理屈で詰めてくるのかと思っていたので、いまいち意味のわからない主張に肩透かしを喰らってしまった。アインを取り上げられたら、僕はレースに出られなくなる。テフィラーに挑むことも当然できない。それが僕のため?

「どういう意味なのかよくわかりませんけど……」

 言いながら懐に手を突っ込む。そして指先で丸めた紙を探り当て、それを体の前にバッと広げた。

「『竜アインオールの所有権はナタン・スヒラの死亡にともなって、その

メヒロト・スヒラに移譲する』。この……ハローム・ザハヴ公爵? のサインが見えませんか!」

「うっ……」

 ノアはいかにも嫌悪感丸出しの表情を浮かべてその書状を睨む。苦々しい様子で口を開いた。

「それ、私に見せつけるためだけに持ち歩いてるのかい……?」

「もちろん。真面目なあなたにはこれが一番効きますからね。偉い人なんでしょう、この人。僕はぜんぜん存じ上げないですけど」

 この書状はアインオールがメヒロトのもとに移譲された際に一緒に渡されたものだ。公爵というだけあってかなりの効力があるらしく、ノアが食い下がる日はこれを見せびらかすことで引き下がらせてきた。

 だが、それにしては不思議なことがあった。

「この人の保証があるのに、どうして軍はアインを狙い続けてるんです? 命令違反とかになるんじゃないですか?」

「……軍にも派閥というものがあるんだよ。要するに一枚岩ではないんだ。ザハヴ卿はテフィラーを筆頭にした急進派に寄った方だが、アインの返還を求めているのは保守派のほうだ」

「へぇ」

「へぇって……」

「要するに軍人同士で喧嘩したくないから、僕からアインを無理やり取り上げられないんですよね」

「まあ、平たく言ってしまえば」

「なんかスッキリしましたよ。もっと早く聞いときゃよかったかな」

 書状を丸めて懐にしまう。これで今日も帰ってもらえるだろうとタカを括ったメヒロトだが、ノアはなかなかどこかへいかない。彼女の騎竜──ハベルという──はピッタリとアインオールの横についたままだ。

「ノアさん?」

 顔を覗き込む。真っ赤な両目と視線が絡む。ここ三ヶ月ほとんど毎日見てきた目。だが、それはもはや別人の目だった。命令を果たしにきていると言いながら、まるで友人のようにくだらない舌戦に付き合っていたノアの目ではなかった。

「メヒロト」

 静かに名前を呼ばれる。その声は大雨の中でもよく通った。突き刺すような声だった。

 いったい何を言われるのか。また身構えてしまう。しかし、今度は言葉ですらなかった。

 ノアは黙って頭を下げた。いつもスラリと背を伸ばし、おそらくは4つか5つ下の自分にも対等に接してくる彼女が自分に頭を下げているという事実が、メヒロトにとってなんだか耐え難かった。

「頼む。アインを軍に返してくれ。もう一度言うが、これは君のためでもある」

「ちょっと、やめてくださいよ! 頭下げるなんて──」

「私からもひとつ、聞いていいだろうか」

 メヒロトの言葉を制し、ノアはそう言った。有無を言わせぬ迫力に、黙って頷いてしまう。

「では……君こそどうしてアインに執着する? それはやはり──君がナタンさんの本当の息子だからかい?」

 本当の息子。その言葉に、震える。

 メヒロトの父ナタンは、彼が物心ついたときにはすでに戦場におり、そしてテフィラーという知らない人物の父親だった。

 本当の親子ではない。王国を脅かす三柱の禍竜との戦争、三禍戦争を乗り切るために用意された『英雄父子』というプロパガンダだ。そもそも、人工的に作られた

であるテフィラーが人の子であるはずもないというのに、国民の多くがそれを信じた。

 だからこそ、メヒロトは希薄になった父との繋がりとしてのアインオールを手放したくない──ノアはそう考えたのだろう。

 だが、それは彼にとって見当違いも甚だしかった。

「……そんなんじゃありません。僕はアインが父さんの竜だったから執着してるわけじゃない……そんな簡単なことじゃないんだ」

 硬い声で答える。なら、とノアは問い直す。

「どうしてアインを手放さない? 君は賢い。分別のつく子供だ。単に自分の竜として大事にしているだけなら、王国のため、つまりより多くの人たちの平和と幸福のためと言われれば、渋々でも手放すはずなんだ」

「言いたく、ありません」

「……そうか」

 ノアは深くため息を吐いて、長く目を閉じた。次にまぶたが開かれたときには、先ほどまでの息の詰まるような気配は霧散していた。口元には穏やかな笑み。

「わかった。今はもう、聞かないよ。……しかしね」

 メヒロトは言葉を挟むことができない。ただ、黙って耳を傾ける。

「君がこのままアインとドラゴン・フライト・レースに出翔するというのなら、必ずよくないことが起きる。必ずだ。それは覚悟しておいてほしい」

 よくないこと。漠然とした、しかし確かな緊張感を伴ったその言葉に、メヒロトは猛烈な不安感に襲われた。きっとその言葉の裏側に、軍がアインを求めている理由があるのだ……理屈ではなく、直感でそう理解できた。

「けれど、大丈夫」

 だから、その言葉は天啓のように聞こえた。

「私が必ず、君を守って見せるよ」

 ノアとハベルは雨の向こうへ消えた。今までに感じたことのない胸騒ぎを覚えながら、メヒロトは家へ向かう翼を急がせた。
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