第1話 競竜
文字数 3,563文字
『──さあ早くもレースは中盤に差し掛かりました。ドラゴン・フライト・レースの出翔権を争うこのトライアル競翔も残すところ1周半と少し。クルサーデ競竜の最上位10頭として選出された駿竜たちが、これから2度目の第1コーナーを曲がっていきます!』
熱のこもった大音声が、雨音を上書きするように大きく響 き渡った。
荒天。地平線まで続く草原の中央で、2つの島を浮かべた大きな湖が激しく波を立てている。王国有数の景勝地、テオム湖だ。そこから少し北には赤レンガの屋根と白漆喰の壁で構成された街並みが広がる。
その郊外にどっしり構えた平たい丘の上に、声の発生源はあった。
つるりとした石造りの塔。高い位置に格子窓がいくつか空いている以外はまったく簡素で、ぶっきらぼうですらある。その上にいただかれた黄金の物体。
巨大な百合の花にも似たそれは拡声器。声の出所はここだ。
『先頭は依然 としてアインオール。ご覧のように後続を大きく引き離して、もう何竜身 の差が開いているか分かりません! これは作戦か暴翔 か!』
声が、またしても大きく響く。呼応するように辺りの空気が白熱する。原因は人間だ。
塔から横へ伸びるように組まれたスタンドは、悪天候にも関わらず、おびただしい数の人で溢れかえっていた。席はすべて埋まり、立ち見も大勢いる。
『3番人気ディグニタースは中段から差し切りを狙います。その後ろにピッタリ張り付いているのはザハブナハル。──おっとここでヤムツィポールが動いた! 新参者の好きにはさせない言わんばかりに、クルサーデ総大将が4番手からグングンと進出していきます。アインオールを捕まえにいく格好です!』
また、実況が響く。大観衆が放つ熱気が高まり、地鳴りのような歓声が沸き起こる。彼らが釘付けになっているのは、丘に並べられた真っ白な柵が形作る楕円形の周回コース──正確には、その上を飛んでいる獣の群れ。
牙を剥き出しにしたトカゲのような顔。背中へ向けて伸びる2本のツノ。馬の2倍ほどある体と、さらにその3倍ほどの全幅 がある翼。いかにも強靭そうな四肢。全身を覆う鱗の色は1頭ごとに違う。背には両手に手綱のジョッキー。
獣の名は、竜。
ここはクルサーデ競竜場。行われているのは、空を舞台にした死闘──。
『いよいよラスト1周に突入です。各竜最終直線に向けてポジション取りを……あっとここで接触! 後方で接触がありました!』
実況が驚いた様子で叫ぶのと同時に、観客席から悲鳴が上がった。ひとりのジョッキーが急降下してきた竜とぶつかり、ぐったりと天を仰いでいる。足こそあぶみから離れていないが、手はだらりと垂れ下がっている。
『カトラーどうやら頭を打ったようです! これは危険です、動いていません!』
競竜場はまたたく間に不穏な空気で満たされた。このままでは落竜してしまうのは時間の問題で、そうなれば無事では済まない。
そんな状況でさらなる異常事態が起こった。
『ああっ、アインオールにもアクシデントがあったようです! 故障でしょうか? 後退していきます。終戦を記念するレースに向けてのトライアルでしたが、波乱の展開となってしまいました!』
いよいよ場内のムードは不穏を通り越して沈痛なものになっていく。みるみる順位を落としていく白鱗の竜アインオールに、なんらかの故障、つまりレース続行が不可能となるほどの負傷があったことは明白だと思われた。
けれども、その背にまたがる年若いジョッキーは、平気な様子でうそぶいた。
「これで失敗したら僕たち間抜けだな、アイン」
革で覆われたヘルメットから覗く漆黒のポニーテール。王国の中央から南部にかけて多い小麦色の肌。体は小柄ながらも鍛え上げられており、カーキ色のズボンと裾がほつれた緑色のチュニックの上からでもその強靭さは見てとれる。
しかし、彼を見た者はまずその翡翠色の瞳に衝撃を受けることだろう。
そこには強靭な意志が宿っていた。10代半ばの少年が宿すにはあまりに強く、あまりに悲痛な意志。
彼はあっという間に最後尾に辿り着くと、カトラーの肩を強く叩いた。
「目ぇ覚ましてください! 聞こえてますか!」
老いつつある細い体を支えながら繰り返し声をかける。すると虚ろだった両目にしだいに生気が戻ってきて、とうとう両手が手綱に戻った。
「ちゃんと掴めてます?」
「……あぁ、助かったよ。あのバカ、この天気のせいでおれに気がつかなかったんだろう」
少し前で申し訳なさそうにこちらを見ているジョッキーに悪態をついたあと、彼はすぐに同じような表情で少年を見た。
「すまん、メヒロトくん。君がこのクルサーデで誰よりもドラゴン・フライト・レースに出たがっていたろうに……。どうか許してくれ」
「……許せませんよ」
口に出して、思ったよりも硬い声が出たことに驚いた。ずいぶん入れ込んでいたらしい。それも当然、すべては目的のためなのだから。
しかし、それでカトラーに罪悪感を抱かせる彼の本意ではなかった。勝手にやったことだ。だから精一杯の『不敵な笑み』を浮かべてこう言った。
「もし負けたら、ね」
「なに……?」
困惑した様子のカトラーを置き去りに、メヒロトはアインオールの翼をぐいぐい押して進出を始める。まさか、ここから勝つ気なのかね。背中に投げかけられた疑問へ答えるにはもはや遠すぎた。
『カトラーは無事に救助されたようです! そしてアインオール再び先頭へ向かって競翔を再開しましたが、残りもう半周ほど! 果たしてここから届くのか!』
「言われてるぞアイン! もっと飛ばせないのか!?」
挑発まじりに激励すると、首をぐっと伸ばしてさらに加速した。風が両耳をごうごう苛んで、強くなってきた雨が視界をさえぎる。全身にかかる風圧で感覚が麻痺し、世界から切り離されたような感覚におちいる。
だが、慌てはしない。耳を凝らし、手がかりを待つ。
『──さあついに最終直線です! 先頭は依然としてヤムツィポールですが、すぐそこまでアインオールが来ている! あのロスがありながらそこまで来ている!』
嵐にも負けない実況の内容を頼りに、2枚重ねのゴーグルの上をひっぺがした。一瞬だけ視界がクリアになる。
──見えた!
先頭をいくヤムツィポールの黒い影、そしてゴールラインまでの距離。その景色はすぐに雨粒の群れに食い尽くされたが、わずかな情報を頭の中で組み合わせ、逆算し、勝利の方程式を導き出す。
「いくぞアイン!」
このレースに照準を合わせ苦楽を共にしてきた愛竜は、ついにやってきた大一番に喜ぶように高くいなないた。いっぱいに広がった翼が風を掴み大きくしなる。
グン、という加速と同時に、とうとう先頭をとらえた。
『とうとう2頭が並んだ! 後ろからはもうなにも来ない! まさに一騎打ちだ!』
後続を大きく引き離して二頭が競り合う。決着まであと少し。こうなると、竜の能力よりもジョッキーの腕前がものを言う。
ゴールに高さは関係なく、そのためジョッキーは決着線手前で速度を稼ぐため急降下を始める。その際にもっとも効率的なのが、最速降下曲線と呼ばれる弓なりの軌道だ。
天候、体重、初速、様々な条件によって変動するこの軌道。
メヒロトは、この軌道を見抜く技術に確かな自信があった。
『アインオールか! ヤムツィポールか! どっちだ──!』
2頭ほぼ同時にゴールラインへ突っ込む。その瞬間、歓声に悲鳴が混じった。観客たちがそれぞれ賭けた竜の名前が書かれた紙が宙を舞う。感謝と罵声が等しく浴びせかけられる。
いつものことだ。博徒たちを尻目に、メヒロトは実況塔へ目線をやる。塔の根元に大きな木の板が直立している。着順掲示板だ。1着から5着までの枠が空いている。
3、4、5着の枠には、すぐに竜の名が刻まれた板が差し込まれた。しかし、1、2着の枠には審議を示す赤い板が。
ドクン。心臓が強く跳ねた。反射的にヤムツィポールのジョッキーを見る。苦しげな表情。
どうも考えていることは同じらしい。こうなると、あとは運を天に任せるのみだ。
その天はより激しく荒れつつあり、まるでこの激闘を象徴しているようにも見える。
「きっと勝っているさ」
アインオールを着陸させると、同じく自らの竜を着陸させたカトラーが話しかけてきた。今喋れば、きっと声が震えてしまうだろう。だから返事は微笑むだけに留めた。
1着を決める話し合いはもうひとつレースができるほどの長時間に渡って続いた。その間ずっと、メヒロトは何か大きな存在に睨み付けられているような緊張感にさいなまれた。
そして、とうとう結果が出た。1着の枠に差し込まれた名前を見て、深々と安堵のため息をつく。曇天に拳を突き上げると、観客たちは今日いちばんの歓声を上げた。
熱のこもった大音声が、雨音を上書きするように大きく
荒天。地平線まで続く草原の中央で、2つの島を浮かべた大きな湖が激しく波を立てている。王国有数の景勝地、テオム湖だ。そこから少し北には赤レンガの屋根と白漆喰の壁で構成された街並みが広がる。
その郊外にどっしり構えた平たい丘の上に、声の発生源はあった。
つるりとした石造りの塔。高い位置に格子窓がいくつか空いている以外はまったく簡素で、ぶっきらぼうですらある。その上にいただかれた黄金の物体。
巨大な百合の花にも似たそれは拡声器。声の出所はここだ。
『先頭は
声が、またしても大きく響く。呼応するように辺りの空気が白熱する。原因は人間だ。
塔から横へ伸びるように組まれたスタンドは、悪天候にも関わらず、おびただしい数の人で溢れかえっていた。席はすべて埋まり、立ち見も大勢いる。
『3番人気ディグニタースは中段から差し切りを狙います。その後ろにピッタリ張り付いているのはザハブナハル。──おっとここでヤムツィポールが動いた! 新参者の好きにはさせない言わんばかりに、クルサーデ総大将が4番手からグングンと進出していきます。アインオールを捕まえにいく格好です!』
また、実況が響く。大観衆が放つ熱気が高まり、地鳴りのような歓声が沸き起こる。彼らが釘付けになっているのは、丘に並べられた真っ白な柵が形作る楕円形の周回コース──正確には、その上を飛んでいる獣の群れ。
牙を剥き出しにしたトカゲのような顔。背中へ向けて伸びる2本のツノ。馬の2倍ほどある体と、さらにその3倍ほどの
獣の名は、竜。
ここはクルサーデ競竜場。行われているのは、空を舞台にした死闘──。
『いよいよラスト1周に突入です。各竜最終直線に向けてポジション取りを……あっとここで接触! 後方で接触がありました!』
実況が驚いた様子で叫ぶのと同時に、観客席から悲鳴が上がった。ひとりのジョッキーが急降下してきた竜とぶつかり、ぐったりと天を仰いでいる。足こそあぶみから離れていないが、手はだらりと垂れ下がっている。
『カトラーどうやら頭を打ったようです! これは危険です、動いていません!』
競竜場はまたたく間に不穏な空気で満たされた。このままでは落竜してしまうのは時間の問題で、そうなれば無事では済まない。
そんな状況でさらなる異常事態が起こった。
『ああっ、アインオールにもアクシデントがあったようです! 故障でしょうか? 後退していきます。終戦を記念するレースに向けてのトライアルでしたが、波乱の展開となってしまいました!』
いよいよ場内のムードは不穏を通り越して沈痛なものになっていく。みるみる順位を落としていく白鱗の竜アインオールに、なんらかの故障、つまりレース続行が不可能となるほどの負傷があったことは明白だと思われた。
けれども、その背にまたがる年若いジョッキーは、平気な様子でうそぶいた。
「これで失敗したら僕たち間抜けだな、アイン」
革で覆われたヘルメットから覗く漆黒のポニーテール。王国の中央から南部にかけて多い小麦色の肌。体は小柄ながらも鍛え上げられており、カーキ色のズボンと裾がほつれた緑色のチュニックの上からでもその強靭さは見てとれる。
しかし、彼を見た者はまずその翡翠色の瞳に衝撃を受けることだろう。
そこには強靭な意志が宿っていた。10代半ばの少年が宿すにはあまりに強く、あまりに悲痛な意志。
彼はあっという間に最後尾に辿り着くと、カトラーの肩を強く叩いた。
「目ぇ覚ましてください! 聞こえてますか!」
老いつつある細い体を支えながら繰り返し声をかける。すると虚ろだった両目にしだいに生気が戻ってきて、とうとう両手が手綱に戻った。
「ちゃんと掴めてます?」
「……あぁ、助かったよ。あのバカ、この天気のせいでおれに気がつかなかったんだろう」
少し前で申し訳なさそうにこちらを見ているジョッキーに悪態をついたあと、彼はすぐに同じような表情で少年を見た。
「すまん、メヒロトくん。君がこのクルサーデで誰よりもドラゴン・フライト・レースに出たがっていたろうに……。どうか許してくれ」
「……許せませんよ」
口に出して、思ったよりも硬い声が出たことに驚いた。ずいぶん入れ込んでいたらしい。それも当然、すべては目的のためなのだから。
しかし、それでカトラーに罪悪感を抱かせる彼の本意ではなかった。勝手にやったことだ。だから精一杯の『不敵な笑み』を浮かべてこう言った。
「もし負けたら、ね」
「なに……?」
困惑した様子のカトラーを置き去りに、メヒロトはアインオールの翼をぐいぐい押して進出を始める。まさか、ここから勝つ気なのかね。背中に投げかけられた疑問へ答えるにはもはや遠すぎた。
『カトラーは無事に救助されたようです! そしてアインオール再び先頭へ向かって競翔を再開しましたが、残りもう半周ほど! 果たしてここから届くのか!』
「言われてるぞアイン! もっと飛ばせないのか!?」
挑発まじりに激励すると、首をぐっと伸ばしてさらに加速した。風が両耳をごうごう苛んで、強くなってきた雨が視界をさえぎる。全身にかかる風圧で感覚が麻痺し、世界から切り離されたような感覚におちいる。
だが、慌てはしない。耳を凝らし、手がかりを待つ。
『──さあついに最終直線です! 先頭は依然としてヤムツィポールですが、すぐそこまでアインオールが来ている! あのロスがありながらそこまで来ている!』
嵐にも負けない実況の内容を頼りに、2枚重ねのゴーグルの上をひっぺがした。一瞬だけ視界がクリアになる。
──見えた!
先頭をいくヤムツィポールの黒い影、そしてゴールラインまでの距離。その景色はすぐに雨粒の群れに食い尽くされたが、わずかな情報を頭の中で組み合わせ、逆算し、勝利の方程式を導き出す。
「いくぞアイン!」
このレースに照準を合わせ苦楽を共にしてきた愛竜は、ついにやってきた大一番に喜ぶように高くいなないた。いっぱいに広がった翼が風を掴み大きくしなる。
グン、という加速と同時に、とうとう先頭をとらえた。
『とうとう2頭が並んだ! 後ろからはもうなにも来ない! まさに一騎打ちだ!』
後続を大きく引き離して二頭が競り合う。決着まであと少し。こうなると、竜の能力よりもジョッキーの腕前がものを言う。
ゴールに高さは関係なく、そのためジョッキーは決着線手前で速度を稼ぐため急降下を始める。その際にもっとも効率的なのが、最速降下曲線と呼ばれる弓なりの軌道だ。
天候、体重、初速、様々な条件によって変動するこの軌道。
メヒロトは、この軌道を見抜く技術に確かな自信があった。
『アインオールか! ヤムツィポールか! どっちだ──!』
2頭ほぼ同時にゴールラインへ突っ込む。その瞬間、歓声に悲鳴が混じった。観客たちがそれぞれ賭けた竜の名前が書かれた紙が宙を舞う。感謝と罵声が等しく浴びせかけられる。
いつものことだ。博徒たちを尻目に、メヒロトは実況塔へ目線をやる。塔の根元に大きな木の板が直立している。着順掲示板だ。1着から5着までの枠が空いている。
3、4、5着の枠には、すぐに竜の名が刻まれた板が差し込まれた。しかし、1、2着の枠には審議を示す赤い板が。
ドクン。心臓が強く跳ねた。反射的にヤムツィポールのジョッキーを見る。苦しげな表情。
どうも考えていることは同じらしい。こうなると、あとは運を天に任せるのみだ。
その天はより激しく荒れつつあり、まるでこの激闘を象徴しているようにも見える。
「きっと勝っているさ」
アインオールを着陸させると、同じく自らの竜を着陸させたカトラーが話しかけてきた。今喋れば、きっと声が震えてしまうだろう。だから返事は微笑むだけに留めた。
1着を決める話し合いはもうひとつレースができるほどの長時間に渡って続いた。その間ずっと、メヒロトは何か大きな存在に睨み付けられているような緊張感にさいなまれた。
そして、とうとう結果が出た。1着の枠に差し込まれた名前を見て、深々と安堵のため息をつく。曇天に拳を突き上げると、観客たちは今日いちばんの歓声を上げた。