『ヒーロー』『始発』『幼馴染』

文字数 1,618文字

 編集者の元木(もとき)は、一度深呼吸をしてから、その電話番号をプッシュした。
 相手は担当する小説家、大河格造(おおかわかくぞう)。巨匠もどきのベテランだ。台風が接近するとの予報を知りながら、取材旅行に出掛けるという自己中心的な性格である。人気はそこそこだがそれを長く維持しており、また,意外と職人気質な一面も持ち合わせていて、他の作家が原稿を落として雑誌に穴が空きそうなとき、大河に頼めば一晩でそれなりに読める短編を仕上げてくれる。ある意味、ありがたい存在でもあるので、多少のわがままは看過してきた。
 とはいえ、大嵐の中、電波状況が悪いのに電話しなければならないのは、いらいらが募る。
「――聞こえます? 電波の調子悪いみたいですが」
「――いや、電波がどうも悪いんだ」
「通じてない? だから、電波の調子悪いんじゃないかと聞いたんですよっ」
「ああ、そうだとも。電波の不調、さっきから言ってるだろう」
「あ、やっと噛み合ったかな。またつながらなくなるとまずいんで、手短に伝えますね」
「頼む。と言ってもあの件だけだろ? 掌編教室の課題」
「そうそう、それです。二千字以内の三題噺を作るに当たって、読者には一ヶ月の期間を与えるのに対し、先生は正味一日でっていう」
「前置きはいいから、早くしたまえ」
「はい、お題三つ……とその前に、今、ネットの方も不調みたいなんですよ」
「あ? ねっとり? それが一つ目のお題かね?」
「違います。インターネットもつながりにくいって話です。メールのやり取りも不安定で、心許ない。ですから御作の方は送信せずに、先生が明日、ご来社の予定と聞き及んでおりますので、その際にお持ちいただければ」
「分かった。原稿を直に持って行けばいいんだな。昔を思い出すな、ぺーぺーだった頃の。わはは。そういや、ぺーぺーと言えば文無し・貧乏みたいな意味だったのに、最近じゃ電子マネーの」
「先生の方から話を脱線させないでください! 何だかまた電波やばそうなんで、三つのお題、言いますから。メモを取ってくださいね!」
「了解だ。いつでもいいぞ」
「まず、一つ目――」
 と、こんな風にして伝えたのだが、最終確認が取れないまま、電話が完全に切れてしまった。一抹の不安を残し、元木は翌日を迎えることになった。

 ~ ~ ~

「……」
 押し頂いた原稿を、元木はその場でじっくり読み始めた。普通ならここまで本腰を入れないが、今回は二千字以内の掌編故、通読することにした。
「……どうかな。急いでアイディアをまとめて、新幹線の中で書き上げたんだが、言い訳はすまい。悪い点があったらずばり、指摘してくれていい。この場で直すよ」
「そ、それではお言葉になりますが……ってか、電話、全然通じてなかったんでしょうか? お題が一つも出て来ないじゃありませんか」
「ぬ? そんなはずはないぞ」
「特徴のない極普通の中年男性が刺し殺され、鮮やかな血が飛び散るというのがストーリーの大半を占めていますけど、こちらがお伝えしたお題、『ヒーロー』『始発』『幼馴染み』が見当たりません。私の見落としや読みの浅さ故であれば、どうかご教示を」
「ええ? 何だって? 『ヒーロー』『始発』『幼馴染み』? おいおい、参ったなこりゃ。俺にはこう聞こえたんだ。ほれ、電話のときのメモ」
「えっと、どれどれ……」
 メモを受け取り、そこにある癖の強い字に視線を走らせる。やがて元木は吹き出してしまった。メモには次のようにあったのだ。

 緋色 刺殺 地味なおっさん

「『ヒーロー』が『緋色』、『始発』が『刺殺』と聞こえたのはまだいいとしても、『幼馴染み』を『地味なおっさん』て! どういう聞き違いですかっ」
「ギャンギャン言いなさんな。聞こえたんだから仕方あるまい。そうかあ、『おさななじみ』が『じみなおっさん』……ダイイングメッセージを聞き間違えたことにすれば、元の原稿を活かして、どうにかなりそうだぞ」
「もう何でもいいです、直せるんなら直して!」

 おしまい
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