第2章 西田哲学の展開と限界

文字数 4,300文字

第2章 西田哲学の展開と限界
 西田は、『善の研究』以降、大著よりも比較的短いエッセイによって思索を深めていく。しかし、暗黙知が中心的テーマだったことは変わりがない。彼の主要概念も暗黙知から説明し得る。

 「絶対無」は、『私の絶対無の自覚的限定というもの』(1931)などのテキストから、次のように規定できる。個体としての自己は一般者から限定されない非合理的なものである。このような個体を成立している場は、限定していないままで限定する弁証法的一般者である。それは有に対してその存在が導かれる相対的な意味での無ではない。有の根底にある絶対的な無である。現実に存在するものは、この絶対無から自己限定している。自己を自覚することは他のものから対象としてではなく、この「絶対無」が自らを限定することになる。この観念論的概念を暗黙知の議論に翻訳してみよう。暗黙知に基づく獲得言語は直感的に用法が判断できる。ところが、形式知である習得言語は宣言的知識として会得されているので、その是非を誰かに聞いたり、辞書で調べたりする必要がある。暗黙知は「絶対無」に限定されているが、形式知はそうではない。絶対無は暗黙知による直感的判断だと言えよう。

 次に「場所」について同様の検討を加えてみよう。「場所」は、『場所』(1926)によれば、たんに主観的なものでも、たんに客観的なものでもなく、両者を含む歴史的・社会的世界であり、一切を自分の現実として成立させている。この「場所」とは「場面」のことである。人は、自分の志向や流儀よりも場面の強制力を優先させる。顔見知りでなくても話しかけやすい場面もあれば、親しくても声がかけにくい場面もある。妊婦が電車に乗ってくれば、席を譲り、話しかけることは容易である。逆に、竹馬の友であっても、座禅しているときには、声をかけない。しかし、その都度、熟慮してそうしているわけではない。場面の論理が内在化されているからである。

 まだ他にも西田用語はあるが、最も有名な「絶対矛盾的自己同一」で最後にしよう。:『絶対矛盾的自己同一』(1939)では、主観と客観、主体と環境、内部と外部などの対立以前にそれらが同時にお互いである状態である。さらに、過去と未来も現在において同時存在する歴史的現在もそれの局面である。主客の分裂・統合に関してはすでに述べたので、ここでは過去・現在・未来に関してのみ補足し、「絶対矛盾的自己同一」を暗黙知の議論に組みこもう。前の世代が話しているのを耳にして母語を獲得し、自分が口に出すのを聞いて、次の世代がそれに続く。過去と未来は現在によってつながる。暗黙知は、このように共時的のみならず、通時的に共有される。これらはお互いに暗黙のうちに了解される。絶対矛盾的自己同一は、従って、「暗黙の了解」と理解できる。

 実際には、暗黙知の数世代間に亘る継承は難しい。同じ日本語でも、古典を読む際には、形式知として関連情報を学習していないと読解できない。西田が文献学的アプローチを拒むのも、それが言語を暗黙知ではなく、形式知として見なければならないからであろう。知識を受動的に受容し、反復練習を繰り返して、それを内在化する。暗黙知は体得を通じて形成されるが、そこにも段階の差が見られる。思ったように進まない、もしくは葛藤が生じた場合、しばしば嫌になってそれを遠ざけ、心を閉ざし、知識ハザードに陥ってしまう。逆に、体験に縛られるあまり、壁にぶつかったときに、それを超えられないこともある。認識を深めるには、会得した知識を対象化=相対化し、反省理解を行う必要がある。形式知は知識ハザードを防止する。認識に時間性が入りこむと、西田の体系に困った不具合が発生する。西田の哲学は、そのため、時間的ではなく、空間的認識に基づいて組み立てられている。

 大正が終わり、昭和を迎えると、世情が騒がしくなる。政党政治は機能停止に陥り、軍部が台頭し、日本は中国大陸で泥沼の戦争へと沈み、国際的孤立の道へと向かう。

 西田の弟子たち、すなわち京都学派は、こうした情勢に対して発言する。その師匠を受け入れたのが大正デモクラシーの時代風潮だったにもかかわらず、それに背く言動を繰り返す。彼らは日米開戦後の1943年、『中央公論』において、「世界史的立場と日本」という座談会を行っている。そこで、日米戦争を世界史的に捉えた上で、それと大東亜共栄圏と哲学的に理論付けする。その同じ年、『文学界』が主催したシンポジウム「近代の超克」にも参加している。近代は主観性に依存する暗黙知よりも客観性が強い形式知を重視する。彼らは、師匠の理論を根拠に、それを批判したというわけだ。

 しかし、ミクロ哲学である主観主義は、そもそも、マクロ領域に属する社会や歴史の問題を扱い得ない。社会や歴史のような複雑な現象の場合、各要素間のコヒーレンスやアドヒレンスなどを説明しないと他者と共有できる考察になりえない。主観主義は対象を意識の外部に実在するのではなく、意識の内部に形成されたものとして認識する。適用しようとすると、倫理学的・美学的解釈に陥る。戦争は意識の中に想像されているものではない。戦時において、人々が自分の死に意味を見出すべく主観主義に傾倒することはやむをえないとしても、哲学者が戦争を主観主義に立脚して正当化するのは知的怠惰にすぎない。

 もっとも、その師匠自身も、『世界新秩序の原理』(1943)において、日本が置かれた国際情勢について次のように述べている。

 今日の世界は、私は世界的自覚の時代と考える。各国家は各自世界的使命を自覚することによって一つの世界史的世界即ち世界的世界を構成せなければならない。これが今日の歴史的課題である。第一次大戦の時から世界は既に此の段階に入ったのである。然るに第一次大戦の終結は、かかる課題の解決を残した。そこには古き抽象的世界理念の外、何等の新らしい世界構成の原理はなかった。これが今日又世界大戦が繰返される所以である。今日の世界大戦は徹底的に此の課題の解決を要求するのである。一つの世界的空間に於て、強大なる国家と国家とが対立する時、世界は激烈なる闘争に陥らざるを得ない。科学、技術、経済の発達の結果、今日、各国家民族が緊密なる一つの世界的空間に入ったのである。之を解決する途は、各自が世界史的使命を自覚して、各自が何処までも自己に即しながら而も自己を越えて、一つの世界的世界を構成するの外にない。私が現代を各国家民族の世界的自覚の時代と云う所以である。各国家民族が自己を越えて一つの世界を構成すると云うことは、ウィルソン国際連盟に於ての如く、単に各民族を平等に、その独立を認めるという如き所謂民族自決主義ではない。そういう世界は、十八世紀的な抽象的世界理念に過ぎない。かかる理念によって現実の歴史的課題の解決の不可能なることは、今日の世界大戦が証明して居るのである。いずれの国家民族も、それぞれの歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、そこに各国家民族が各自の歴史的生命を有するのである。各国家民族が自己に即しながら自己を越えて一つの世界的世界を構成すると云うことは、各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、先ず一つの特殊的世界を構成することでなければならない。而して斯く歴史的地盤から構成せられた特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。かかる世界的世界に於ては、各国家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合するのである。これは人間の歴史的発展の終極の理念であり、而もこれが今日の世界大戦によって要求せられる世界新秩序の原理でなければならない。我国の八紘為宇の理念とは、此の如きものであろう。畏くも万邦をしてその所を得せしめると宣らせられる。聖旨も此にあるかと恐察し奉る次第である。十八世紀的思想に基く共産的世界主義も、此の原理に於て解消せられなければならない。

 西田は全体が個に優先する全体主義も、個が全体に優先する個人主義も斥けている。言わば、「ワン・フォー・オール=オール・フォー・ワン」を説いている。スポーツでは非常に短い時間の間に判断しなければならない。考えるのではなく、身体が勝手に反応するくらいに暗黙知を鍛え上げる必要がある。チーム・スポーツでは、集団練習を積み重ね、状況に応じた各種の連係プレーを内在化させると共に、自分の役割を自覚する。「ワン・フォー・オール=オール・フォー・ワン」は、こうして初めて機能する。

 しかし、こうした集団的暗黙知を社会や歴史の問題に拡大適用することはできない。スポーツにはスコア上の勝利という明確な目的がある。一方、現実はそれほど単純ではない。西田の著作の常として、ここでも「世界史的使命」が何なのか具体的にはまったくわからない「世界的世界」に至っては、不明瞭の極みである。西田は、一貫して、暗黙知から対象を考察するが、それは他者がいない世界でのみ通用するだけである。彼が他国や他民族に対して歴史や伝統を口にするとき、暗黙知同士の対立をまったく考慮していないことが明らかになる。

 その外部から見れば、何を伝統に共同体が形成されているのか曖昧であり、主観主義的である。むしろ、外から見て伝統の規範が不明確であるがゆえに、それを固有性と主張でき、一体化の意識を抱きやすい。ナショナリズムの与えるアイデンティティは物語であるが、主観的に納得できていればそれでよい。他なるものを先に設定し、反動的に、その脅威にさらされている被害者として、すなわちルサンチマンを共有するものとして自らの「国民」を規定する。根拠は歴史や伝統の装いをしながらも、主観主義的な思いつきや思いこみであって、ナショナリズムは「国民」の自己発見、すなわち「自覚」の物語である。それは政治思想と呼ぶにはあまりにも粗雑である。しかし、お粗末な主観主義であるからこそ、ナショナリズムは伝播しやすく、つまみ食い的に、他の思想と癒着するのも造作ない。

 ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。瞑想ときやがる。
 何を瞑想していたか。不良少年の瞑想と、哲学者の瞑想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなデマがかっているだけじゃないか。
(坂口安吾『不良少年とキリスト』)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み