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文字数 6,235文字

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 フィリップ・ストックは、ロンドンの北部イズリントン管区の警察署の書記である。
 1835年十月、良く晴れた秋の一日、彼はハムステッド郊外の湖に釣りに出かけた。市の中心部からみればイズリントンも田舎ではあるが、ここハムステッドまで来ると、さらに田園風景が広がっている。
 湖畔に場所を決め釣り糸を垂れたが、一時間経っても一匹も釣れない。どこかへ移動しようかと思ったとき、背後から声を掛けられた。
「お父さん・・・ですか」
 見ると、うら若い女性が子供の手を引いていた。
 フィリップは声の調子から女性と判断したのだが、男性に見えなくもなかった。腰のあたりが膨らんだ乗馬ズボンに、上はブラウスとジャケットを着ている。赤いスカーフを巻き、ハンチング帽子を被っていた。今までに見たことのない奇抜な服である。男性が着るような服を女性が着ている。二十代半ばだろうか、小柄で可愛らしい女性だ。
 子供は五、六歳の男の子だった。
 フィリップは、「迷子ですか」と訊いた。
「ええ、しゃがみ込んでじっと花を眺めていたんです。近くに家族が見当たらないので、どうしたものかと困っています」
 フィリップは立ち上がった。書記なので凶悪事件には関わったことはないが、迷子の世話くらいなら経験がある。
「その子の名前は? 」
「何も答えてくれません」
 女性が首を振った。
「一人で来たのかしら、湖に落ちでもしては大変だわ」
 その間も男の子は黄色い花を見ている。さて、この子の親はどこだろうか、フィリップは気が気でない。すると、そこへ、
「チャールズ・・・ああ、ここか」
 四十歳くらいの男が現れた。子供の父親らしい。
「ご迷惑でもお掛けしませんでしたか」
「いえ、静かに花を見ていました」
「そうですか、我が家でもこんな風に日がな一日、花壇の花を眺めているんです」
 父親は帽子を脱いだ。
「申し遅れました、ジョン・ドイルです。この子はチャールズといいます。考え事をしていて、気が付くと子供の姿が消えていました。人さらいにでも捕まったら大変でした」
「はじめまして、フィリップ・ストックです」
「私は、イザベラ・スミスです」
 それぞれに名前を名乗った。
「私は休暇で釣りに来ています」と、フィリップ。
「私は取材です。『リテラ・ゴディカ』紙の新聞記者をしています。釣り人に話を聞き、釣りの楽しさを書こうと思いまして」
 イザベラ・スミスは新聞記者だった。
 最近ではさまざまな職業に女性が進出してきているが、フィリップは女性の新聞記者は初めてだった。乗馬ズボンにジャケットという人目を引く服装で、事件現場に乗り込むのであろうか。
 彼女が言うのには、『リテラ・ゴディカ』紙は月に二回、一日と十五日に発行しているそうだ。
 ジョン・ドイルが珍しそうにイザベラの姿を眺めている。イザベラはというと、もう馴れっこになっているといった感じである。
 フィリップは、警察勤務であることを言い出すきっかけを失った。今日は休暇を利用して釣りに来ているのだから、黙っていても差し支えないだろう。
「どうですか、釣れましたか」
 イザベラは背中に背負った鞄から筆記用具を取り出して取材を始めた。
「さっぱり釣れません。そろそろ場所を変えようと思っていたところでした。すみません、これでは取材になりませんね」
 申し訳ないが取材には協力できそうにない。
「私まだ新米なんです。ずっと雑用係だったんですけど、ようやく取材を任されました。でも、この釣りの取材だって、たぶん記事にはならないと思うんです」
「どうしてですか」
「十一月から翌年の一月末までは釣りは禁止なんでしょう。十月に取材しても、すぐにシーズンは終了ですもの」
「スコットランドでは鱒釣りは一月末まで禁止だったと思いますが、この辺りはそういう決まりはなかったはずです。まだ釣りはできますよ」
「では、海老は釣れますか。あと、ヒラメはどうですか」
 イザベラ・スミスが勢い込んで尋ねた。
「お嬢さん、ヒラメは海の魚です。海老も網で漁をするので、めったなことでは釣り竿には掛かりません」
「なあんだ、それじゃあ、海老もヒラメも釣れないんだ」
 彼女は海老とヒラメが釣れると思っているらしい。フィリップは彼女は裕福な家庭に育ったのだろうと推測した。海老もヒラメも高級な食材だ。
「何にも釣れなくても、それもまた釣りの面白いところです。新聞の読者には、釣りや狩猟の失敗談が喜ばれますよ」
 ジョン・ドイルが助け舟を出した。
「それもそうですね」
 イザベラに笑顔が戻った。
 それからフィリップは湖の周囲を散策しようと提案した。ジョン・ドイルと子供、イザベラ・スミスも一緒である。
 落ち葉を踏みながら湖畔を歩いた。風は静かで、遠くに鳥の声が聞こえる。のどかな昼過ぎ、湖にはボートを浮かべて釣りをしている男性の姿があった。よく見ると、ボートの男は釣りをしているのではなく、ただ寝そべっているだけのようだ。
 イザベラが子供の手を引いている。すっかりなついている。のんびり歩くと、その先に、静かに釣りをしている男性がいた。
「よろしいですか」
 フィリップが声を掛けると男性はビクッと身体を震わせた。
「突然、お邪魔してすみません」
「いえ」
 その男性はフィリップと同じくらいの年齢に見えた。チラリと視線を送って寄こしたが、すぐに湖面に眼をやった。フィリップが釣れましたかと訊ねると男は首を振った。
「ダメです、今日も」
 新聞記者のイザベラは、それを聞いて残念そうな表情を見せた。またも取材はうまくいかなかった。
 釣果がなかったせいだろうか、その釣り人はどことなく暗く、とっつきにくい雰囲気である。これでは新米記者のイザベラはますます取材しにくいだろう。フィリップは男性の脇の草むらに腰を下ろした。
「はじめまして、フィリップです。こちらはジョン・ドイル氏とチャールズ君。彼女はイザベラ・スミスさんです」
「どうも・・・ロバート・シーマーです」
 そう言ってロバート・シーマーは再び下を俯いてしまった。怏々として楽しまずといったところである。
 フィリップはシーマーの名前をどこかで聞いた覚えがあった。新聞でその名前を見たような記憶があるが、なかなか思い出せない。フィリップが考えを巡らせていると、
「シーマーさん・・・ロバート・シーマーさんですか」
 ジョン・ドイルが上ずった声を出した。ドイルはシーマーを知っているようだ。
「ご存じだったんですか」
「ええ、シーマーさんは『フィガロ・イン・ロンドン』で挿絵や表紙を描いている画家の方です」
 そこで、フィリップは、シーマーという名の挿絵画家がいたことを思い出した。だが、『フィガロ・イン・ロンドン』は警察署には置いてないので、あまり読む機会がなかった。
「お会いできて光栄です、シーマーさん」
 ジョン・ドイルはフィリップとシーマーを交互に見て、
「このイギリスで挿絵画家といえば、まず第一にクルックシャンクの名が挙がるでしょう。シーマーさんは、そのクルックシャンクに勝るとも劣らない挿絵画家です」
「それほどではありませんよ」
 フィリップもクルックシャンクの名前は知っている。釣りに来た湖で出会った男性は当代一の挿絵画家クルックシャンクと並ぶほどの画家だった。しかし、ジョン・ドイルから褒められたにもかかわらず、相変わらずシーマーはニコリともしない。むしろ浮かない顔をしている。
「シーマーさん、実は、私も同業でして、細々と風刺漫画を描いておるんです」
 ドイルもまた画家であるというのだ。
「そうですか、ドイルさん・・・ドイルさん、はて? 」
 シーマーが首を傾げた。その名前に心当たりがなさそうだ。
「私は本名ではなく、H・Bというペンネームを使っているんです」
「えっ、H・Bさんですか」
 シーマーが驚いた。
「政治風刺漫画を描いている、あのH・Bさんでしたか・・・先日の『毛並みの良さ・毛並みの悪さ』は面白く拝見しました」
 なんとも偶然だが、ロバート・シーマーもジョン・ドイルも、その世界では著名な挿絵画家であった。フィリップは二人の挿絵画家を引き合わせたことになる。もっとも、ジョン・ドイルは自分のことを挿絵画家でなく風刺漫画家と言っている。フィリップには、挿絵も風刺漫画もどちらも同じ物のように思えた。
「あれは、政治家ジョン・ラッセル卿とダニエル・オコンネルの対立を皮肉った漫画でしょう。題材はランシアの絵画ですね」
「シーマーさんのおっしゃる通りです」
 ジョン・ドイルはチャールズの頭を撫でた。
「子供たちのためにも、もっと頑張らなければいけないと思います」
 それからひとしきり挿絵や版画の話題になった。といっても、主に話すのはドイルで、シーマーとフィリップは聞き役に回っていた。イザベラは本来の取材対象ではないが、俄然、挿絵画家の取材にやる気を見せた。
 ドイルは、この時代の出来事を、シェイクスピアなどの先行する作品を引用して描いていると語った。また、家族にも正体を知られないよう、子供たちの寝静まった深夜に描いていること、子供たちにメモやスケッチに頼らず、しっかり観察して、見てきたことを発表させていることなどを話した。H・Bというペンネームは、JとDを二つ並べて作ったものだそうだ。
 二人ともエッチングという技法の銅版画を得意としているとのことである。
 ドイルが、ペンネームのことは秘密ですとイザベラに言った。特ダネを書き損なってイザベラはしょ気ている。
 フィリップは、「今度穴埋めしますよ」と言ってあげたが、イザベラは何のことか分からずきょとんとしている。彼女が警察に取材に来ることがあったら、書記の仕事を見せてあげよう。あるいは、特ダネをプレゼントできるかもしれない。
「チャールズは末っ子でして、兄のリチャードは、まだ十二歳になったばかりですが、版画や挿絵を描いています。自分の同じ年齢のときよりはずっとうまい」
「それは楽しみですな」
「その点、このチャールズは誰に似たのか分かりませんが、しょっちゅう庭の花を眺めては話しかけているんです。どうしたのかと訊ねると、プリムローズに住む妖精と話しをしていたと言っておりました」
 フィリップが見ると、チャールズは相変わらず黄色の花を眺めていた。父親が言ったように、ここでも妖精と言葉を交わしているのだろうか。
「チャールズ君は画家というより小説家が向いているようだ。版画家に小説家、芸術家一家ですね」
「息子たちの代は画業に勤しんでもらいたい。そのうち、孫の世代になったら、作家や旅行家になる者が出てくるかもしれません」
 ジョン・ドイルがそう言うとチャールズが振り向いて頷いた。
「シーマーさんは、いまどんな仕事を手掛けて・・・」
 ドイルが言いかけたとき、湖の対岸に一人の男が走ってきた。たいそう太った男で、彼はボートに乗った男性を大声で呼んでいる。ボートの男性はパイプをくわえたまま岸に向けて漕ぎだした。太った男は自分が来た方向を指差し、なにやら身振り手振りで話していたが、まもなく二人は急ぎ足で立ち去った。
「フィリップさん、今の二人はどう見ましたか」
 ドイルがフィリップに話を向けた。
「急ぎの用事でもできたのでしょうね。のんびりボート遊びなどしている場合ではなさそうだった」
「走ってきた男、あれは警察官ですよ。私は町なかで、あのような太った警官を見たことがあります」
 イズリントン管区の警察署にはワトソンという巡査がいる。フィリップより年下だが太っていて貫禄がある。見た目はワトソンの方が上司と思われるだろう。
「それでは、彼の名はワトソンにしましょうか」
 ワトソンに登場してもらうことにした。
「いいでしょう、いかにも警官にいそうな名前だ。さて、ワトソン警部は事件が起こったので、あのボートの男性を呼びに来たのです」
「というと、ボートの男性は警察署長だったんですか」
「いえ、彼は探偵です」
「探偵! 」
「それも名推理で難事件を解決する、腕利きの探偵でしょうな。ワトソン警部は手に負えない事件があると、ああやって探偵に助けを求めにくるわけです」
 ドイルが目前で繰り広げられた光景を即興の探偵小説にして語った。ドイルの子供のチャールズも大人たちの話をじっと聞き入っていた。
 黙って聞いていたシーマーだったが、ドイルの話を聞いて、このときばかりは顔がほころんだ。ややもすると陰鬱な感じがしていたが、ワトソン警部と探偵の一件でようやく打ち解けた様子だ。
「そうでした、探偵騒ぎで忘れていましたが、シーマーさん、最近はどんな仕事を手掛けているんですか」
 ドイルが話を元に戻してシーマーに問いかけた。シーマーはしばらく考えてから、
「釣りであるとか狩猟などのスポーツをテーマにした挿絵集を出そうと思っています」
 と答えた。
「釣りですか。そういえば、シーマーさんには釣りや狩猟を扱った作品が多い」
「ロンドンに暮らす男たちが狩猟クラブを結成して釣りや狩猟を始めたのはいいが、滑稽な失敗ばかりやってしまうという話です」
「それは愉快だ。というと、こうして釣りに来ているのも、挿絵集のアイデアを見つけるためでしたか」
「そんなところです。むしろ、何も釣れなくて幸いでした。失敗も大歓迎です」
「挿絵集ですか、それとも文章は付けるおつもりですか」
「挿絵集で出します」
 ロバート・シーマーは釣りと狩猟をテーマにした挿絵集を出版する予定だが、それには文章は載せないということだ。
「それがいいでしょう。シーマーさんなら、挿絵だけで全てを語れる。私たちからすれば文章は説明程度で充分ですな」
「挿絵集は【ニムロッド・クラブ】という題名にしようと思っています。まだ、幾つかの下絵を描いただけなので、出版できるのは早くとも来年の春になりそうです」
 フィリップの記憶では、ニムロデは旧約聖書に出てくる猟師の名前だ。
「それでは釣果のなかった私たちも、【ニムロッド・クラブ】に入会できそうですな、そうでしょう、ドイルさん」
 フィリップが言うと、
「ついでに、先ほどの警官と探偵の二人も加えて、【ニムロッド・クラブ】は五人になったわけですな。滑り出しは上々だ」
 ジョン・ドイルもそう応じた。
「私も入れていただけますか」
 イザベラ・スミスがおずおずと手を上げた。
「女性も会員になれるんですよね」
「もちろんです。さしずめ、あなたは【ニムロッド・クラブ】の特派員だ」
 あたかも、この場が【ニムロッド・クラブ】の発会式の様相を呈してきた。
 ドイルから【ニムロッド・クラブ】の特派員に指名されたイザベラは、ニコニコしながら鉛筆を走らせている。釣りの取材はダメだったが、おかげで面白そうな題材に当たった。
「ところで、釣りはまだしも、狩猟となると、お金が掛かって大変でしょう。シーマーさんは狩猟もなさるんですか」
 フィリップが狩猟はするのかと訊いてみた。
「いえ、狩猟は行ったことがありませんが、猟銃は持っています。挿絵に描くために入手しました」
 シーマーは挿絵を描く参考にするので実物の猟銃を所持していると言った。それを聞いてフィリップはどことなく悪い予感がした。
 ザワザワ。
 風が出てきた。木々が揺れている。遠くには黒い雲も見えた。天候が崩れる前兆だ。雨が降りだす前に帰った方がよさそうだ。
 今しがた感じた悪い予感は天候が悪くなる前触れだったのかもしれない。

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