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文字数 11,677文字

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四月十七日、肌寒い日曜日のことだった。フィリップ・ストックは久し振りに午後の散歩に出かけた。休日の散歩中でも仕事のことは頭から離れない。記録係の一人が長期欠勤しているので、なにもかもフィリップがやらなければならなかった。備品の調達もその一つだ。インク、吸い取り紙とブロッター、それに、統計用紙も残りが少なくなった。明日、まとめて注文することにした。
 フィリップは頭を切り替えた。
 そういえば、シーマーの新刊本はどうなったのだろうか。『ピクウィック・ペイパーズ』は月刊、分冊方式だから、次号は五月に出るはずだ。確実に手に入れるために書店に予約しておこう。
 マーク・レモンという居酒屋の店主も気になる存在だった。居酒屋に来る客から、様々な情報が集まってくるのだろう。今度、彼が経営している居酒屋に行ってみるとしよう、などと思った。
 新聞記者のイザベラ・スミスもいた。彼女の担当は家庭欄だというから、警察勤めのフィリップでは役に立つことはなさそうだ・・・
 そんなことを考えながら歩いていると、向こうからやってくる男性を見てフィリップは立ち止まった。
 ロバート・シーマーだった。
 これまでにも何度か見かけてはいたが、声を掛けることはしなかった。シーマーはいつも腕を組んで暗い表情をしていた。
 それが、今日はこれまでになく思い詰めた様子である。肩を落とし、心なしか足を引きずっている。声を掛けるのを躊躇うどころではない。見たこともない陰鬱さで、彼の周囲だけ黒い霧に覆われているのではないかと思われた。身体の具合が悪いのか、それとも、家庭や仕事上の悩みを抱えているのだろうか。
 挿絵の構想を練っているのかもしれないが、あの様子ではそれもうまく進んでいないようだ。
 シーマーはフィリップには気付くことなくトボトボと歩いていった。フィリップは振り返った。そして、小さく背中を丸めたシーマーの後ろ姿が見えなくなるまでその場から動けなかった。

 エレンはシーマー家の家政婦である。
 四月二十日、この日もいつも通りにシーマー家に向かった。エレンは朝が早い。
 エレンにとってシーマー家の家政婦という仕事に就けたのはありがたいことだった。シーマー夫人はどちらかというと鷹揚な方で、こまごまとした用事を言い付けられることはないし、子供も手がかからない。
 この家のご主人、ロバート・シーマー氏は近寄りがたい存在だった。気難しく、神経質なタイプである。それも、挿絵画家の先生だからであろうと思うことにしている。挿絵画家の仕事は、最初、紙に下絵を描き、それを薬品を塗った銅の板に書き写し、金属ペンで彫る。銅のプレートに彫るのはとても細かい作業だ。その間は家族でも絶対に仕事部屋に入らないようにしていた。
 仕事は順調とみえて、去年の十一月、そして、つい最近も本を出したばかりだった。そのうちの一冊は『ユーモラスなスケッチ集』という題名だった。ご主人は性格は気難しいが、題名でも分かる通り滑稽な挿絵を描く。
 ところが、ここ数日、ご主人のシーマー氏は明らかに様子が違っていた。
 エレンは十七日の日曜は休みをもらった。休み明けの十八日、シーマー氏は朝から仕事部屋に籠って、遅い時間に昼食を摂りに現れた。エレンはそのときのシーマー氏の姿を見て驚いた。目が窪み、生気が抜けたようだったのだ。食事中もしきりに肩を叩いたり、指先を伸ばしていた。かなり細かい作業に打ち込んでいるのだろう。そそくさと食事をすませると、また仕事部屋に戻っていった。帰り際、仕事場から「ああ、ダメだ」という声が聞こえた。版画が満足のいく仕上がりでなかったようだ。
 そして、昨日は、昼も食堂に姿を見せなかった。
 思い返せば、シーマー氏は土曜日からどことなく思い詰めたような感じだった。日曜は家政婦の仕事は休みで、十八日に来てみるとさらに深刻な様子だった。十七日の日曜に何かあったに違いない。夫人と喧嘩をしたのだろうかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。
 今日はどうだろうか。案外、昨日のうちに挿絵の仕事を片付けて、釣りに出かけるとでも言い出すかもしれない。
 エレンはシーマー家に着き、裏の勝手口から入った。ここの鍵は預かっている。火を熾して朝の準備に取り掛かろうと鍋を手に取った瞬間、ドンという鈍い音が響いた。
 銃声のようだった。

 十九日の夜、ワトソンは警察署の宿直当番に当たっていた。ワトソンは部下の若い巡査と署内で一夜を明かした。
 このところ、ロンドン市内では子供の犯罪が増えていた。たいていは盗み、強盗の類だ。盛り場で酔っ払いの懐を狙うのである。子供はすばしこくて逃げ足が速い。最近はお腹に肉が付き過ぎたせいか、子供に逃げられてばかりだった。
 昨夜は盛り場を巡回した巡査が浮浪者を保護してきただけで、これといって事件は起こらなかった。もう一人の巡査と交代で仮眠をとることができた。宿直明けは、出勤してきた署員と引継ぎをすれば家に帰れる。あと二時間ほどで全員の顔が揃うだろう。
 部下の巡査がコーヒーを淹れようと立ち上がったときだった。玄関のベルが鳴り、ドンドンとノックする音が聞こえた。ワトソンがドアを開けると若い男が飛び込んできた。
「ああ、あの、大変です、猟銃で」
「撃たれたのか」
「違うんです、お父さんが、早く呼んで来いと言ったんです」
「落ち着け」
 慌てているので話が混乱しているが、どうやら、この男の父親が誤って猟銃で自分を撃ったらしい。
「分った。撃ったのは君のお父さんだな、どんな怪我なんだ? 」
 若者は激しく首を振った。
「隣の人が・・・今朝早く、銃で胸を撃って倒れたんです」
 胸を撃って倒れた? 猟銃の発砲事件、それも自殺だと思った。
 ワトソンは若い男から事件のあった家の住所を聞き出した。部下に命じて書き取らせる。現場は歩いて行ける距離だ。
 ワトソンは部下の巡査に、
「一人でいい、お前はここで待機しろ。もうじき署員が出てくるから、その住所の家まで、二、三人応援を寄こしてくれ」
 と、指示を出した。
 トップハットを被り、ドアノブに手を掛けて振り向いた。
「監察医官も頼むんだぞ」

 フィリップが出勤すると署内がざわついていた。早朝に銃の発砲事件があり、ワトソンをはじめ五、六人の巡査が現場に向かったとのことだった。
 十時過ぎ、ワトソンが署に戻ってきた。
 ワトソンは書記の執務室に入るなり、
「自分で胸を撃ち抜いていた。猟銃でね」
 と言った。
 猟銃による自殺事件だった。
「奥さんに泣きつかれて弱った。子供はまだ小さくて学校に行くか行かない年頃だ」
「自殺ですか。お気の毒に」
「即死だったが、詳しいことは監察医官に任せてきた」
 ワトソンは封筒を取り出した。
「遺書がある。念のため、証拠として写しを作ってくれないか。午後に返却に行く」
 フィリップは便箋を広げ遺書を書き写す作業に取り掛かった。
「死んだのは、ロバート・シーマーという画家らしい」
「えっ・・・」
 ロバート・シーマーが死んだ? それも猟銃で胸を撃った?
 フィリップは受け取った封筒を落としそうになった。
「知り合いか」
「ええ・・・」
「辛い仕事を押し付けちまったな。誰かに代わってもらおう」
「これは私が」
 ロバート・シーマーの遺書と聞いては、他の職員に任せるわけにはいかないと思った。フィリップはいつもの書類作成のときと同じように作業を始めた。
 シーマーの遺書にはこう書かれてあった。

【親愛にして最愛の妻へーーーあなたは私にとってつねに最も良い妻でありました。言っておきますが、誰かを咎めだてしようなどと考えないように。結局、私が弱かったのです。誰かが私にとって悪意に満ちた敵であったとは思いません。法律に触れるような罪を犯したわけではありませんが、私は死に、人生に別れを告げようと思います。無駄だとは思いますが、私は神に平安を祈ります】

 フィリップは遺書を読み終えて大きくため息をついた。文字に乱れはない。死に臨んで心は固く決まっていたのだろう。
 それから遺書を書き写した。
 書き終えてまたため息をつく。
「自殺である可能性が高いのですか」
 冷静なつもりだったが、フィリップは言わずもがなのことを訊いてしまった。やはり動揺は隠せない。
「間違いないだろうな、その遺書を読めば明らかだ」
「この遺書からは、無念の思いが伝わってくるようです。遺書の中の、誰かを咎めだてしないようにとか、誰かが私にとって悪意に満ちた敵であったとは思いません、という件りが気になります」
「わしもそう思う。それが誰だか、家族が読めば思い当たるんじゃないかな」
「亡くなったシーマーさんの本を買ったんです。彼の挿絵の入った本です。今月初めのことでした」
「それが遺作になったってわけか」
「そうですね・・・いえ、今、出ているのは第一号で、来月にも出るはずです」
「だけど、本人が亡くなったとあっては挿絵は描けないだろう」
「その点は・・・」
 と、考えを巡らせる。
「すでに掲載する挿絵は描き終えているのではないかと思います。『ピクウィック・ペイパーズ』という本なのですが、シーマーさんの描いた挿絵に、後から作家が文章を付けている形式だと思います」
 ワトソンが懐中時計を見た。遺書を返却に行く時間が迫っている。
「遺書を返しに行くのなら、同行させてもらうわけにはいかないでしょうか。お悔やみの気持ちを伝えたいし・・・」
「構わんよ」
 ワトソンはフィリップの頼みを承諾してくれた。それから、朝から何も食べていないのでコーヒーでも飲んでくると言って部屋を出ていった。フィリップはさらに別の便箋にシーマーの遺書を書き写した。控えに持っておこうと思ったのだ。
 遺書を読み返した。
【誰かを咎めだてしようなどとは考えないように】という件り、これは誰を指すのであろうか。
 最後に見かけた日の、シーマーの打ちひしがれた様子が思い出される。家庭内の問題か、あるいは仕事上の悩みを抱えていたとしたら・・・それらが自殺の引き金になったことは想像に難くない。

 フィリップはワトソンとともにロバート・シーマーの自宅へ向かった。彼の家までは歩いて行く。書記の務めとして筆記用具を出張用の小型鞄に入れてきた。
「亡くなったシーマーとはどんな接点があったんだ」
 ワトソンは取り調べ口調になっている。
「去年の十月でした。湖に釣りに行って、そこでシーマー氏に出会いました。彼も釣りが趣味だったようです。釣りや狩猟をテーマにする挿絵集を出したいと言ってました」
「『ピクウィック・ペイパーズ』とか言ったな、それは狩猟の話か」
「そうです。狩猟クラブを扱ったものです。ですが、本の内容は挿絵集というよりは小説でした」
「シーマーは小説も書くのか」
「小説を書いたのは、ディケンズという作家です。ペンネームはボズとなっています。二十四か五か、そのくらいの若手の新人作家です」
「詳しいな」
 書店の店主に教えてもらったと答えた。
「実は・・・私は三日前にシーマーさんを見かけました」
 それを聞いてワトソンが立ち止まる。
「それを早く言え。三日前なら日曜日だろう。どんな様子だった? 」
「何だか深刻な表情で考え事をしているようでした。うなだれて、肩を落として歩いていました。病気か、それでなかったら、いろいろ悩んでいたんでしょうね」
「貴重な証言だ。精神的なショックでもあったみたいだな。その件は、あとで監察医官にも話してくれ」
「湖で会ったときも、神経質というか、あまり活発な印象ではなかった。元来、ああいう性格だったと見受けられます」
「猟銃のことは何か言ってなかったか? 」
「挿絵の参考にするので猟銃を持っていると聞きました」
 図らずも、あのときの不吉な予感が当たってしまった。
 シーマー家が近くなった。
 この辺りまで来ると市中の喧騒とは無縁の静かな郊外である。
 フィリップは足が重くなった。普段はめったに現場に出ることはない。そのうえ、当事者が知り合いとあっては尚更である。
「ここだよ、この家だ」
 周囲を低い柵で囲まれた一軒家だった。玄関までは石畳が続き、両側は芝生の庭で、バラのアーチも見えている。
 玄関のドアが内側から開いた。顔を出したのは警察の監察医官であった。
「ご苦労様です」
「ついさっき、棺の手配をした。奥さんはショックで口もきけない有り様だ。今にも倒れそうだったのでベッドに寝かせた」
「医官殿のご意見はいかがですか」
「自殺ですな。原因は、一時的な精神錯乱ということになるだろう」
「新聞にはそう発表してよろしいですかな」
 ワトソンが訊ねると監察医官は軽く頷いた。
 監察医官を見送ってフィリップとワトソンは裏庭に回った。すでにシーマーの遺体は自殺現場から室内へ運ばれていた。フィリップは頭を下げて冥福を祈った。
「奥さんに話を聞くのは無理な様子だから家政婦を呼んでこよう」
 呼びに行くまでもなく家政婦らしき女性がやってきた。ワトソンが、家政婦のエレンだと紹介した。
「エレンさん、少しは落ち着きましたかな」
「ああ、どうしてこんなことになったんでしょう。奥様まで倒れてしまいましたよ。ジョセフさんがいなかったら、もっと大変でした」
 ジョセフというのは隣に住む男で、市内で肉屋をやっているとのことだ。
 家政婦のエレンが今朝の出来事を話し始めた。だが、まだ動揺しているのか、話が前後して要領を得ない。ワトソンが何度か補足した。
 それによると・・・
 早朝、家の裏手で銃声がした。エレンが飛び出して見にいくと、この家の主人、ロバート・シーマーが裏庭に倒れていた。エレンの悲鳴を聞き付けて、いち早く駆け付けたのは隣家のジョセフだった。彼はすぐに状況を察して、シーマー夫人が近づくのを押し止め、さらに、落ちていた遺書を拾い上げて家政婦のエレンに渡した。そして、自宅に戻ってバケツに水を汲んで戻ってきた。至近距離から撃ったため、遺体の上着が燻って煙が出ていたのだ。このジョセフの初期対応のおかげで、現場の状態を保存することができた。ジョセフという男は元軍人だそうだ。
 エレンは残された夫人や子供が気の毒だと涙ながらに語った。
 フィリップは筆記用具を取り出して彼女の証言を書き取った。
「シーマーさんはお幾つだったのですか」
「歳ですか・・・ええと、三十八、そうです、三十八歳でした」
「さぞ驚かれたでしょう、エレンさん」
「そりゃあ、もう、心臓が止まりそうでした。あたしは朝は早いんですよ。今朝も普段通りここにやってきたんです。そうしたら、とたんに、あの銃声でしょう。ジョセフさんが来てくれて助かりました、あたし一人ではねえ、どうしたらいいか分かりませんでした」
 彼女は胸を押さえた。そのときのことを思い出しているのだ。シーマー夫人が寝込んでしまったので家政婦のエレンに話を聞くしかない。彼女には申し訳ないが、もうしばらく事情聴取に付き合ってもらうことにした。
「シーマーさんは、何か悩んでおられませんでしたか。実は、私は十七日に姿を見かけたのですが、かなり落ち込んでいるようでした」
 フィリップが訊ねた。
「さあ、どうでしょう。十七日は日曜でしたよね。あたしは、その日はお休みをいただいておりましたから・・・日曜日ねえ」
 家政婦のエレンはしばらく考えていたが、
「そういえば、前の晩でしたか、明日、十七日には外出する、人と会う約束をしたって、そんな話をしてたと思うんです」
 と、答えた。
 十七日には会合があった。フィリップが見たのは、その会合から帰るところだったようである。しかし、エレンは、シーマーがどこで誰と会うかまでは聞いていなかった。
「月曜日のことはよく覚えていますよ、ええ」
 エレンが言った。
「十八日、十九日、この二日間、ご主人様はずっと仕事部屋に籠っておられました。昨日はお昼も召し上がらないほどでした」
 シーマーは自殺の直前まで挿絵を描いていたようだ。仕事部屋に行けば何か分かるかもしれない。
「そのお部屋を拝見してもよろしいでしょうか」
 フィリップとワトソンは家政婦に案内されて仕事部屋に行った。
 シーマーが仕事に使っていたのは陽の光が射しこむ明るい部屋だった。部屋の中は机と椅子がそれぞれ二つずつあった。大きめの机の上には挿絵の仕事に使う道具があった。鉛筆、画用紙、先の尖った細い金属ペン、平たい四角の皿などが置かれていた。液体が入ったガラス瓶も何本もある。かすかに薬品の匂いがするのはそのためだろうか。壁際の本棚には本がきちんと並べられている。隅の方に釣り竿が立てかけてあった。
「ええと、シーマーさんは挿絵画家でしたな。ペンや絵の具で描いていたのだろうか」
 ワトソンが部屋の中を見回した。
「銅版画のエッチングという技法を使っていたそうです。初めにペンや鉛筆で下絵を描き、それを銅の板に彫るんです」
「エッチングね。それで、出来上がったものはどこにあるんだ」
 ワトソンは、紙に印刷された版画のことを探しているのだが、それらしき物は机の上には見当たらない。
 家政婦のエレンが机の隅を指差した。
 フィリップは二台ある机のうち、小型の机に近づいた。
「これですね。壁際に立てある銅のプレート、これが完成品だと思います」
 挿絵の下絵を描き、それを銅のプレートに彫るまでが挿絵画家の仕事である。
 壁に立てかけて銅のプレートが三枚あった。しかし、どれも表面はツルツルしていて何も彫られていない。裏向きにしてあるのだ。その真ん中の一枚のプレートには下絵と思われる画用紙が敷いてあった。
 画用紙に描かれた下絵を見る。室内のベッドに伏している男と、その側にもう一人の男が座り、反対側には子供を抱いた母親が立っている。題名は『臨終の道化役者』とあった。寝ている男が臨終の道化役者だと思われる。
 次にフィリップは、裏向きに置かれた銅のプレートを表に向けた。これが『臨終の道化役者』のエッチングの完成品なのであろうか。なにしろ、非常に細い線で彫られているし、版画の原版なので下絵とは左右反対になっている。目を凝らし、何度か見直して、『臨終の道化役者』の下絵と同じ構図だと分った。
 シーマーが最後に作成していたのは釣りや狩猟に関係する挿絵ではなく、死の床の道化役者だった。
 死の床の・・・
 『臨終の道化役者』は、挿絵による遺書だったのだろうか。
「シーマーさんは、自らを死ぬ間際の道化役者と重ね合わせたんですかね」
「そうかもしれん。挿絵を遺書代わりにするとは、いかにも挿絵画家らしいな」
 家政婦の話の通りだとすると、シーマーは二日間かけて『臨終の道化役者』を作成していたことになる。
 しかし、いったい誰が、この銅のプレートを使って版画を刷るというのか。
 悲劇の版画を、遺書代わりの版画を、誰が・・・
 玄関で人声がした。棺を手配したと言っていたから、葬儀屋が届けに来たのだろう。家政婦のエレンが仕事部屋を出ていった。
 二人は部屋の中を調べて回った。
 フィリップは机の上に別の下絵があるのを見つけた。『ピクウィック・ペイパーズ』第一号に載っていた、スラマー軍医が腕を上げている図だった。
「その絵がどうかしたか? 」
 ワトソンが肩越しに覗き込む。
「『ピクウィック・ペイパーズ』の挿絵の下書きです。腕を突き出しているのはスラマー軍医です」
 フィリップは『ピクウィック・ペイパーズ』が、狩猟クラブの失敗談を扱った本であることを説明した。
「狩猟クラブねえ。それにしては何だか妙だな。狩猟なら郊外の野原に行くはずだろう。その絵は室内だし、おまけに、階段の上にはご婦人方の姿もある」
「そうなんです。第一号の第二章になると、釣りや狩猟の話ではなくて、女性を誘惑する話になってしまうんです」
「女性をハントするわけか、それでは本題の狩猟からは外れるな」
 フィリップは下絵を見て違和感を覚えた。『ピクウィック・ペイパーズ』に掲載された挿絵と、この下絵とではどこか違うような気がする。
 机の上に『ピクウィック・ペイパーズ』第一号があった。該当のページを開き、下絵と見比べると相違点はすぐに見つかった。下絵ではスラマー軍医の突き出した手は拳を握っている。それが、掲載された挿絵になると指を五本とも広げた形に描かれていた。版画にするにあたって修正を施したのだ。
 ワトソンは部屋の中をあちこち調べていたが、
「これを見てみろ、フィリップ」
 と、大きな声を出した。
 ワトソンが見つけたのは一通の手紙だった。
 フィリップはその手紙を手に取って思わず目を見張った。
 それは、四月十四日付の手紙だった。差出人はチャールズ・ディケンズ。『ピクウィック・ペイパーズ』の作者、チャールズ・ディケンズである。
「ディケンズからシーマーさんに宛てた手紙ですね」
 遺書代わりに残されたと思われる『臨終の道化役者』の挿絵。そして、ディケンズからの書簡。
 これは何かある。
 フィリップはディケンズの手紙を読んだ。

【我々の共通の友人であるピクウィック氏にお払いいただいているあなたのご苦労と、また、あなたのお骨折りの結果が、どれほど私の期待を超えるものかを申し上げたくてお手紙を差し上げた次第です。私は『臨終の道化役者』が気掛かりでなりません。下絵を拝見しました。良い出来ですが、私のアイデア通りとは思えません。そこで、改めて新しい絵柄を考えていただきたいのです】

「共通の友人だとあるが、ピクウィック氏とは誰かね。何か知っているかもしれん」
「彼は『ピクウィック・ペイパーズ』の登場人物です。実在の人物ではありません」
「架空の人間? ややこしい話だな」
「続きを読んでください。これ、十七日の招待状ですよ」
 手紙の続きには、チャップマン&ホール出版とともに、次の日曜日、十七日に、ファニーヒルズ・インの自宅へ招待すると書かれてあった。
「シーマーさんは十七日にディケンズの家に行ったんですよ。出版社の人たちも同席していますね。チャップマン&ホール社は『ピクウィック・ペイパーズ』の出版元です」
「どうやら当たりだな」
 ワトソンが唸った。
 この書簡は、シーマーが自殺に至る理由を知る手掛かりになる。
 フィリップが十七日に見かけたのは、ディケンズの自宅で開かれた会合から帰るシーマーの姿だった。それは、シーマーにとって愉快な集まりでなかったことは明白である。彼が落ち込んでいたのは、ディケンズや出版社との会合に原因があるとみて間違いない。
 そこで新たな疑問が出てきた。
 ディケンズは、臨終の道化役者が気掛かりだと記してある。
 ということは、『ピクウィック・ペイパーズ』第二号で、道化役者のストーリーが展開するのだろうか。シーマーは、『ピクウィック・ペイパーズ』の第二号のために、『臨終の道化役者』の挿絵を作成していたことになる。だが、臨終の道化役者と狩猟クラブとはどうみても結び付かない。
 シーマーが遺書のつもりで、『臨終の道化役者』の版画を作ったと思ったのだが、そうとは言えなくなってきた。
 また手紙の続きを読んでいく。

【私の望む変更箇所を説明します。女も男も、もっと若くあるべきです。あまりみすぼらしくなく、同情や優しい心遣いのこもった風貌にするべきです。私は、病気の道化役者を、痩せ衰えて死にかかっていると書きましたが、嫌悪を感じさせるものにはしたくありません。この変更はいかがでしょうか。あなたは、部屋の調度を見事に描いています】

「下絵に対して、随分、細かい指示を出していますね」
「ディケンズはシーマーよりは若いんだろう。それにしては、なんだか尊大な言葉の使い方だ。【お骨折りの結果】とか【部屋の調度を見事に描いています】だなんて、年上の人間に対して使うのは失礼じゃないかな」
 ワトソンは今にも手紙を破かんばかりの剣幕だ。
 シーマーは三十八歳だった。ディケンズはそれより年下の二十代半ばである。手紙に見られる表現は確かに礼を失するものがある。
 調度を見事に描いているに至っては、挿絵画家にとってみれば、決して褒め言葉とは言えないだろう。むしろ嫌みだと受け取れる。背景は上手だが、肝心の人物が下手だと決めつけているようなものだ。
 ディケンズは、ベッドに横たわる道化役者に関して、【痩せ衰えて死に掛っていると書きましたが、嫌悪を感じさせるものにはしたくありません】、と、もっと表情を和らげるように修正を求めている。
 フィリップは『臨終の道化役者』の下絵と出来上がったエッチングを並べてみた。下絵に描かれた道化役者は病人らしく痩せて弱々しく見えるが、嫌悪を感じるとまでは言い切れない。また、エッチングで彫られた版画は左右反転しているので表情の判別がつきにくい。これだけでは、シーマーがどのように修正したのか定かではなかった。刷り上がった物と下絵とを比較する必要があるだろう。
 その機会があればの話だが・・・
 フィリップはディケンズの書簡をノートに書き写しはじめた。それを見てワトソンは、家政婦の様子を見てくると言って部屋を出ていった。
 手紙の文面を写し取り、便箋を元のように机に置いたとき、丸めた紙が目に入った。紙を広げてみる。

【三月二十八日=『ピクウィック・ペイパーズ』第二号『臨終の道化役者』原稿受け取る。四月五日=下絵送付。十四日=書簡届く】

 版画の制作スケジュールだった。
 スケジュールと手紙から判断するに、『ピクウィック・ペイパーズ』の第二号に『臨終の道化役者』が掲載されるとみて間違いないだろう。
 そこで、廊下に足音が聞こえた。ワトソンと家政婦が戻ってきた。フィリップはその紙を元のように丸め、鉛筆やノートを小型鞄に押し込んだ。
 シーマーの家を辞しての帰り道は来るときよりも足取りが鈍かった。
「ディケンズの書状にあった十七日の会合がどんな内容だったのか、関係者に確かめたい気持ちです」
「ああ、そうだな」
 ワトソンが立ち止まった。
「だが、今はまだ早い。新聞にシーマーの記事が出るのは、明日か明後日になるだろう。週刊新聞や旬刊紙なら月末か来月だ」
 訪問するにしても、出版社にシーマーの訃報が伝わってからにした方がよい。
「手紙を読んで、シーマー氏の遺書にあった「誰か」とは、ディケンズを指す可能性が強くなった」
「私もそう思います」
「しかし、これは事件ではない。ディケンズの元を訪ねるのは考え物だぞ」
「そうですね、シーマーさんの遺書にも、誰も咎め立てしないようにとありました」
 
 フィリップは、残されたシーマーの遺書、ディケンズからの手紙などの材料を手掛かりに推理した。
【ニムロッド・クラブ】と『ピクウィック・ペイパーズ』。この二つに関連性はあるのだろうか。
 シーマーは狩猟クラブの失敗談を描いた挿絵集【ニムロッド・クラブ】を出版しようと計画していた。一方、シーマーの挿絵入りで出版された『ピクウィック・ペイパーズ』は、狩猟クラブを扱っているようにみえるが、その内容は狩猟や釣りとは関係のない物語が展開している。
『ピクウィック・ペイパーズ』が、シーマーの企画した挿絵集【ニムロッド・クラブ】を原案にしたものであると仮定する。
 何らかの理由で、【ニムロッド・クラブ】に説明文が付けられることになり、さらに、説明文は小説に変わった。それが『ピクウィック・ペイパーズ』である。第一号では狩猟クラブの発会式の場面もあった。だが、来月刊行予定の第二号では、どういうわけか、臨終の道化役者という暗い話が始まるようだ。
 そして、シーマーが描いた下絵に対し、ディケンズから修正を要求された。
 遺書や手紙などから察するに、シーマーとディケンズの間に何らかの確執があったことは否定できない。その確執とは、挿絵の下絵を見たディケンズが修正を求めたことだと思われる。シーマーは著名な挿絵画家であるのに対し、ディケンズはまだ無名の新人作家だ。
 シーマーは狩猟とは無縁の、臨終の道化役者の挿絵を描く、いや、描かされることに苦痛を覚えたのではないだろうか。
 しかし、だからと言って、それが死を選ぶ理由になるのか・・・
 フィリップは深くため息をついた。
 【ニムロッド・クラブ】と『ピクウィック・ペイパーズ』の関連性を解明するには、チャップマン&ホール社に出向いて、四月十七日の会合について聞き取り調査をすることが必要になってくる。
 だが、ロバート・シーマーの死は、一時的な精神錯乱による自殺として公に報道されるであろう。
 シーマーの遺書には【誰も咎め立てしないように】と書いてあった。故人の気持ちを汲んで、これ以上の調査であるとか、まして誰かを探ろうとするべきではない。警察の対応はこれで充分である。

『タイムズ』紙に、ロバート・シーマーの訃報が載ったのは二日後のことだった。
 原因は、一時的な精神錯乱と書かれてあった。


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