第5話

文字数 2,604文字

 弓場では、男たちがあいかわらず弓を引いていた。
 キリは彼らに目もくれず、久伊と羽白を従えて村へと向かった。ミヤも後につづく。
 若衆宿の手前でキリは立ち止まった。
「女はこの中に入れない。あとは、勝手にすればいいわ」
 久丹と羽白は、家の戸をくぐった。
 真ん中の炉を囲んで、数人の老人が座っていた。長の姿もあり、その膝には羽白の琵琶がのせられている。
「おまえたちだけ来たのか」
 長は動く方の眉を上げた。
「キリに皆を連れてこいと言ったのだが」
 キリは、長のもくろみを若い連中に伝えず、自分たちを逃がしてくれようとしたのだろう。それなのに、のこのこと戻ってきたわけなのだ。
 久丹だけなら、あのまま逃げ切れたかもしれない。しかし、この世界に導いたのが羽白の琵琶だとしたら、大那に帰るにも羽白の力は必要だ。命が助かったところで、景のもとに帰れなければ何にもならない。
 そう自分に説明してみたものの、結局のところ久丹は羽白を放ってはおけなかったのだ。
 老人たちは立ち上がった。
 老いてはいても昔の弓引きだけあって、誰もが長のように頑丈そうだ。腕っ節の強くない自分など、即座に組み伏せられてしまうかもしれないな、と久丹は思った。それは羽白も同様だろうが。
「わたしの琵琶を返してくれないか」
 羽白は長に言った。
「これのことか?」
 長は両手で琵琶を差しだした。羽白が受け取ろうと近づいた時、二人の老人が素早く背後にまわり、羽白を羽交い締めにした。
「羽白!」
 叫ぶ暇もあらばこそ、久丹も両脇から腕を捕まれ、あっという間に土間に組み敷かれた。
 まったく想像通りだな。
 あっけなさに、怒りよりも笑いがこみ上げてくるようだった。羽白に力を貸そうだなんて、よくも思っていたものだ。
 他の老人が縄を持ってきた。それで縛り付けるつもりなのだろう。
 羽白は両膝をつき、琵琶を見ていた。その目が、きつく閉じられた。
 と、琵琶が鋭い音をたてた。
 耳を塞ぎたくなるほどの高音が空気を震わせ、皮膚にまで伝わってくる。
 老人たちは驚いて叫び、手を離した。
 羽白はすばやく立ち上がり、長から琵琶を取り上げた。
 こんどは羽白の指が弦を弾いた。低い、身体にまとわりつくような音だった。長たちはその場に凍りついたまま、身動きできないでいる。
「いまのうちだ」
 羽白は言った。
 久丹は頭をぶるっと振り、羽白とともに外に駆けだした。

 戸口にキリとミヤが立っていた。様子をうかがっていたらしい。
「何をしたの?」
 キリは目を見ひらいたまま羽白に言った。
「あなた、呪者?」
 久丹も聞きたいところだった。しかし、時間はなさそうだ。
「キリ!」
 背後から老人たちの怒鳴り声が聞こえた。
「そいつらを逃がすな」
 外にいた子供や女が、声を聞きつけてこちらに駆けてくる。
「西に向かって」
 追いかけるふりをしながら、キリはささやいた。
「山を下りれば他の村もあるわ」
 久丹は羽白とともに必死で村の外へと駆けたが、子供たちは速かった。足がもつれて転びそうになった久丹は、大きめの少年に後ろから飛びつかれ、両手をついて前のめりに倒れた。まるで遊びのように、何人もの子供らが歓声をあげてのしかかってくる。
 羽白は、立ち止まってこちらを見た。手助けどころか、明らかに足手まといになっている自分がなさけない。
 羽白の指がまた弦をはしった。こんどは音ばかりではない。なにかの曲だ。
 低くうねりをたてるような音が、しだいに高くなり、盛り上がり、あたりに響き渡った。
 琵琶を初めて聴く子供たちは、あっけにとられて動きを止めた。
 久丹は彼らを振り払い、なんとか立ち上がった。
 子供の一人が、一声叫んで空を指さした。
 久丹は空を見上げた。
 上空を飛んで来るのは大きな鳥?
 ちがう。
 久丹は目を見開いた。下降してくるにつれ、その長くうねる緑銀の胴体がはっきりと見てとれた。ひるがえる黄金のたてがみ、枝分かれした二本の角。
「龍だ!」
 子供たちが、てんでに叫んだ。
「龍だ」
 久丹もつぶやいた。
 龍は村の上を悠然と旋回していた。
 子供たちは、口をぽかんと開け、その姿をただただ追いかけるだけだった。聞いていた〈龍の渡り〉とはちがい、その龍は一匹だけ忽然と頭上に現れ、空を舞っているのだから。
「久丹」
 琵琶を弾きながら羽白は言った。
「行くぞ」
 久丹は、はっとした。
 あれは、羽白の琵琶が生み出した幻の龍なのだ。
 聴く者に曲の幻を見せる呪力者、幻曲師の話は聞いたことがあった。大昔の、大那の地霊がまだ豊かだった時の伝説だと思っていた。
 しかし、この世界は地霊に充ちている。羽白ほどの腕があれば、幻曲を弾けてもおかしくはない。
 考えている場合ではなかった。久丹は羽白のあとにつづいて再び駆けだした。
「あれはなに?」
 キリも追いかけてくる。
「あんなものを、どうやって」
 キリは龍が幻だと、すぐに見破ったらしい。呪者だけのことはある。
 一生ぶん走ったのではないかと思えるほど、道なき道を久丹は走った。どこをどう走ったのかわからない。とっくに久丹を追い越したキリの背中ばかりを見ていた。
 二人が立ち止まったので、ようやく久丹はしゃがみ込んだ。
 追っ手の気配はない。
 あえぎながら、肩で大きく息をした。子供たちに乗られた背中がじんじん痛んだ。
「大丈夫か? 久丹」
 羽白が言った。
「おれは、文官、でね」
 乱れた髪の毛をかき上げて、ようやく久丹は言った。
「身体を動かすのが、苦手なんだよ」
「なぜ、ついてきた」
 羽白がキリに言った。
「わからないわ。夢中で」
 キリは首を振り、羽白の琵琶を指さした。
「それは呪具ね」
「いや」
 羽白は頑固に首を振った。
「楽器だ」
 久丹は思わず笑ってしまった。
「あんたは幻曲師で、呪力者だ」
「地霊のおかげだ」
 羽白はつぶやいた。
「ここは地霊が濃すぎる。呪力が使えるような気がしてやってみた」
「目」
 まじまじと羽白を見つめていたキリが言った。 
「あなたの目、色が変わったわ」
 久丹は、はっとして羽白を見た。
 たしかに、羽白の瞳の色が変化していた。
 光の加減などではなかった。明るい紫色だ。
 久丹の知っている限り、目に紫を持つ者は龍の一門しかいない。
 龍とともに大那から姿を消した彼らは、紫の瞳をした呪力者だったという。
 羽白は指で自分のまぶたに触れた。
「紫に変わっているよ」
 久丹は言った。
「あんた、〈龍〉なのか」
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