悔恨と疲労

文字数 2,104文字

 帰りのバスは予定通りキャンプ場を12時に出発した。上杉の姿はなかった。失踪騒ぎになるのではと紀子は心配したが、レク係から点呼の際に「上杉さんは急用で先にタクシーで最寄り駅に向かわれたということなので、出発します」と説明があり、ひとまず安心した。
 通路を挟んで隣に座る小西と恵麻の様子を見ている。小西はスマホを眺めていて、特に変わった様子はない。恵麻は窓の外を眺めているので顔が見えない。犯人を取り逃がした警部のように心を怒りで震わせているのか、それとも今まで抱いていた恋心が幻滅に変わり、悲しんでいるのか。おそらくその両方で混乱しているのかもしれない。

 バスは昼間の田舎道を順調に進み、ほどなくして高速に乗った。ここから2時間も走れば都心に着く。行きは賑やかだった車内も、帰りは遊び疲れた社員たちの寝息が聞こえるだけだ。目をつぶると紀子の瞼には昨日から今日にかけて起きた出来事がフラッシュバックのように浮かんでは消える。
ラフティングして、バーベキューをして、若手の男子と飲んで、その後上杉さんに呼び出されて辞めるって話を聞いた。それから、シャワー室の一件があった。あの時は本当にうまくいったというか、上杉さんの役に立てたという気がして、最高の気分だった。今日の朝もいきなりラインをもらって。そうだ、あれは今日の朝のことだったんだ。上杉さんの本当の生い立ちの話を聞いて、手をつないだ。それから帰り道は笑って、最後ラインをもらって‐
33歳の楽しい夏の思い出になるはずだった。それらの出来事が今、全て砂の城のように崩れ去ろうとしている。紀子はスマホをチェックする。上杉からの返信はない。

 それから、深い罪悪感に襲われて紀子はきつく目をつぶった。私があんなことをしなければ、今でも上杉さんはこのバスに乗っていただろう。恵麻ちゃんに恨まれることもなかっただろうし、何より、小西さんにあんな姿を見られることはなかった。今まで上杉さんが必死の思いでバランスを取ってきた事を、私が愚かにもぶち壊してしまった。自分よがりにあれこれと余計な世話を焼き、色んな人の間をひっかきまわし、台無しにしたバカ女だ。今高速を走っているバスが横転して壁に激突して爆発してしまえばいいのに。それで私も一緒に爆発して消えてしまいたい。
 紀子は窓が曇るほど大きくため息をついた。まただ。このバスに乗っている人たちは私のこの愚かな罪とは何も関係がない。死ぬなら一人で死ねばいい。この期に及んで私はまた自分の事しか考えていない。紀子は再びため息をついてからまたスマホをチェックする。やはり上杉からの返信はない。 
 バスはサービスエリアに止まった。「これから15分休憩を取ります。トイレや買い物に行かれる方はそれまでに済ませてください」レク係がそうアナウンスすると社員たちは席を立ち、ガヤガヤとバスを降りた。紀子と恵麻もその流れに乗って外に出て行った。紀子は二人に顔を合わせる気になれず、寝たふりをしたままシートに座っていた
 
 いっそのこと、素直に小西さんに話すべきか。
「実は私が仕組んだことで、上杉さんにどうしても小西さんのショーツを渡したかったんです。上杉さんは今まで隠れて小西さんのジャンパーの匂いは嗅いできたけど、防犯カメラが付けられてしまってほぼ詰んじゃって、でも小西さんへの想いは強くなるばかりで自分をコントロールできなくなりそうで、会社も辞めるつもりだったんです。なので、最後の思い出にというか、何か救いになればと思って、私が勝手に小西さんのショーツをお借りして上杉さんに渡したんです・・・」
 意味不明でしかない。それに、私の罪を告白するのも辛いが、そもそも上杉の余罪をばらすことになる。そうなると事が更に大きくなってしまう。もっとも、小西さんがこんな話をまともに聞いてくれたらの話だが。
「浦川さん、大丈夫?」早めにバスに戻ってきた小西が紀子に声をかけた。
「はい、大丈夫です。ちょっと疲れちゃって」と紀子は答えた。
「ちょっとハードスケジュールだったからね。それに・・・」紀子はその言葉の続きを待ったが、小西は「確かに、なんか疲れちゃったね」とだけ言った。紀子も「そうですね」とだけ答えて再び目をつぶった。
それから少しして小西は「浦川さん」と声をかけた。
「はい」と紀子が返事すると、「私そんなに気にしてないから」と小西は言った。
「あの動画のこと、正直びっくりしたし、ショックも受けたけど、でもあまり気にしてないから、浦川さんも気にしないでね」
 紀子は「はい、分かりました」とだけ答え、また目をつぶり、寝たふりを続けた。

しばらくしてバスはサービスエリアを出発した。窓の外には日本の夏が広がっている。昔夏休みにおばあちゃんの家に行った時に車から見ていた風景だ。緑に輝く田んぼと、更に濃い緑の山々。その上に広がる青空とくっきりとした白い雲。大きな橋を渡るときに見える、紺色に輝く一級河川。それらの風景と定期的な振動が次第にこわばった紀子の頭を弛緩させ、2つか3つ唐突な光景ややり取りが瞼に浮かんだ後、紀子は深い眠りに落ちていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み