第1話

文字数 1,556文字

 浦川紀子はPCのスクリーンの右下をちらっと見る。時刻は17時を少し過ぎたところだ。紀子はキーボードをたたく指を止め、軽く首を回した。よし、今日は定時で上がろう。スケジューラーによるとチームのメンバーはみな外出から直帰とのこと。金曜のこの時間から伝票発行や在庫発注の依頼が来ることもないだろう。紀子はノートパソコンを閉じ、スタッフジャンパーを椅子の背もたれにかけて席を立つ。
「浜嶋部長、お先でーす」
「おお、おつかれさん」浜嶋がスマホを見たまま返事をする。その他何人か残っている同僚も小さい声であいさつをする。その言葉を背に紀子はオフィスのエントランスに向かう。

 紀子が田島文具に入社したのは今から3年前のことだ。新卒で就職したのはWebやモバイルの広告を専門に扱う広告代理店だった。当時は長時間勤務も地道な資料作りも自身の成長のための代価として受け入れていた。実際チームで臨んだプレゼンが上手く行き、新規プロジェクトを獲得した時などはサラリーマン漫画のような達成感を味わうことが出来た。しかしデジタル広告の仕事も一通りのことを経験してしまうと、今度は業界自体の競争の激しさや、ワークライフバランスを考えるようになり、29歳の時に紀子はその広告代理店を退社した。その時期に派遣会社から紹介されたのがこの田島文具である。
 田島文具は文房具専門の商社で、大手の取引先相手に堅実な商いをする会社である。広告代理店では常に顧客対応や新規プレゼン、そして売上に追われていた紀子にとって、その穏やかな社風は外国にも等しかった。また営業事務というサポート業務が自分の性に合っていることも一つの発見であった。特にこれといった不満もなく契約更新を重ね、昨年から晴れて正社員として働いている。入社以来の上司である浜嶋との関係も良い。入社時にダサさの極みと感じたTajimaロゴ入りのスタッフジャンパーも今やすっかり体に馴染んでいる。

 帰り際に管理部門のエリアに寄って注文書の控えを経理の書類ボックスに入れていく。経理のメンバーは皆退社していたが、一人だけ残業している人がいた。情報システム部の上杉さんという人だ。あまり話したことはないが、見た目がおしゃれで爽やかで、普通にかっこいい。この人も去年中途で入ってきたはずだが、自分とはあまり接点がなく経理にもあまり知り合いがいないので確かな情報はない。特に声もかけずにレターボックスにファイル入れて立ち去ろうとすると、「何かありましたか」と上杉が声を掛けてきた。
「いや、経理宛の注文伝票持ってきただけなんで、大丈夫です」紀子は答えた。
「あ、そうですか」上杉はそう言うとまたディスプレイに向き直った。
「じゃあお疲れ様です」
「お疲れ様です」
 オフィスを出て下りのエレベーターを待つ間、少し鼓動が早くなっていることに気づく。いきなり声をかけられたからだな。上杉さんはIT担当だから、私がシステムとかサーバーのトラブルで来たと思ったのかもしれない。そんなことを考えながら紀子はエレベーターに乗り込む。

 田島文具のオフィスは東京の海沿いのビルに入っている。最寄りの品川駅までは歩いて10分強。この距離が面倒くさいと文句を言う人も多いけど、紀子は嫌いではなかった。散歩には丁度いい距離だ。5月の夜は寒くも暑くもない。運河を渡ってくる夜風が心地よく首筋を撫でる。レインボーブリッジは白く瞬き、その上を羽田空港の発着機が旋回している。よし、今日も走ろう。今から真っ直ぐ帰れば19時過ぎには用賀に着くはずだ。ご飯は途中で買って、家に荷物を置いたらすぐ着替えて公園に行こう。夜の緑に包まれたランニングコース、ひんやりとした空気の中を走る感触を思い返すと心が軽く震えた。それからやや早歩きで駅までの道を進んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み