アクマでもイヌ~飽くまで誤用です~

文字数 7,379文字

 金星が姿を消す日とはいつのことか気になったルカはそれをネットで調べようとして、しかし馬鹿らしくなって辞めた。そんなことをするよりも老人との賭けで負けた分の支払いをどうやったら先延ばしして貰えるかを考えたほうが賢明だと思ったからだ。
 きっと老人は気まぐれでまたやって来るに違いないとルカはそう思い込むことにした。金星が隠れる日という言葉を気にしないのは老人との会話や約束、主に老人が悪魔であると言ったことやルカが魂を渡す契約をした事などそういう事実からの現実逃避だという事はルカも理解していたが、それにしたって非現実的にすぎる状況を真剣に考えるほどルカも純ではなかった。
 学校に行き、お金を稼ぐために叔父の仕事を手伝い、再びお祈りやミサへの参加を欠かさない事にしたルカは、老人のこと考える暇が殆どない程には忙しく、そうして多忙な日々を送ることが最近の自堕落だった自分が出来る一番の贖いではないかと考えていた。
 老人と会ったあの日からルカは賭場に顔を出すことを辞めた。
 賭場にいかない理由として、もう二度と老人と賭場で会いたくないという気持ちもあったが、罰が当たったのだから今後自分は悔い改めなければいけないと、大負けしたことを肯定的に捉えるようになり、今までの出来事を反省しより清く正しく生活していくことに決めた以上賭場に行くという意思がまるでなくなったというのが大きかった。
 ある日はなんのわだかまりもない心を持って教会で祈りを捧げ、ある日は叔父の仕事を邪な心は追い払った状態で手伝い、ある日は車に轢かれたと思しき弱ったネコを看取り埋葬してやり、ある日は友人の純粋な恋の手助けをするべく数人で遊びに行くなどして、ルカは悪友や悪巧みには関わらない平穏な日常を送るようになった。
 そうして健全な日々を過ごしていたルカは、学校が夏期休暇に入ったためその日は早い時間から叔父の仕事を手伝っていた。仕事が終わり、職場の人々との世間話も早々に切り上げて帰路についていたルカは、ふとした拍子にビルの隙間から夜空が覗いていることに気がついた。
 黒に近い濃い青がルカにはなんとなく普段よりも低く感じられたので天を仰ぐと、しじまに浮かぶ普段より多くの星に妙な胸騒ぎを感じた。
 早く帰ろう、と誰に言うでもなく一人呟いて夜道を急いだルカは、老人との約束をハッキリと思い出していた。その事を出来るだけ考えないようにするため今日の仕事の反省と明日の予定を反芻して、なるだけ空を見ないよう視線を低くしたまま家路を這うように進んだ。
 悶々としたまま急いだルカだったが自宅までの道はいつもと変わるところがなく、自室のベッドに荷物を投げ出すころには安堵と同時に老人の言葉を意識しすぎている自分に腹立ちを覚えてもいた。
 なにもかもがどうでもよくなってしまう類の気だるさが身を包んだルカは、着の身着のままベットにうつ伏せになると、そのまま寝込むかのように目を閉じ、着替えや食事などへのやる気の萌芽が訪れるのをしばし待った。
 このまま眠ってもいいかもしれない、そう思う弱い自分となんとか葛藤しつつまどろんでいると、不意に首筋へ生ぬるい風が吹き抜けるのを感じ、全身に悪寒が走った。
 家を出る前にルカは部屋の窓を閉めていたはずで、家に帰ってから窓を開ける気力など無かったため風が吹き抜けるはずはないと思い直したルカは、しかし今度は部屋のドアが閉まり鍵のかかる音をハッキリと聞いた。
 ルカは胸中で警笛がなりひびくのを感じた。
 自室のドアを締めた記憶をルカは思い出そうとしたが、ドアの開閉など無意識にやっていることなので思い出せるはずもない。まどろんでいたとは言えドアが開く気配は感じなかったのだから初めから開いていたドアが風か何かで勝手に閉まったのだろうと結論づけようとしたが、ドアが閉まる前に感じた悪寒の事もあってかルカはどうしても非論理的な思考を巡らせることを辞められなかった。
 ただそれだけは考えないようにしていたルカは、悪魔が来たのではないかと本当はただそれだけを考え続けていた。
 時間が過ぎていくほどに何もないことを確認すればいいだけだとは思いつつも、そのまま意気地のない瞬間が積み重ねられていった。積み上がった意気地なさが偶然土砂崩れを起こすまで待つことを潔いとは思えなかったルカは、そこには何かが必ずいるものだとあえて最悪の想定をすることで覚悟を決め、ベッドのシーツに埋めていた顔を起こし扉の方に向け、ゆっくりと瞳を開いた。
 視界が急に明るくなった事でぼやけてかすれる景色の向こうにはむくつけな犬が、もとい妙なむく犬がこちらを覗き込むようにして佇んでいた。
 覚悟を決めていたはずのルカだったが、だからといって冷静にこの状況を理解できるわけがなく、ただ声もなく口を開けていた。
「こんばんは」
「……」
「約束通り金星が姿を消す日に来ましたよ」
 何かしらの返答をしようとするルカの反応など意に介することなく、むく犬は聞き覚えのある犬らしくない低音でそう告げた。
 そもそも犬が人の言葉を話すはずがないという事については既にルカにとっては問題とはなっておらず、犬の声を聞いた瞬間むしろやはりと合点がいっていた。
「姿が違うので驚かせてしまいましたかね。初めましてのご挨拶ではこの姿であることのほうが多いものでして。特に深い意味はないんですがね。この姿のほうが私が悪魔であるとわかりやすいでしょう?」
「あんたは……」
 悪魔の問いかけには答えずルカは彼の正体を確認しようとして、言葉に詰まる。
「ええ、そうです。お察しの通りワーグナーです。まぁそれも仮の名、以後はメフィストと名乗らせていただきますので、どうぞよろしくお願いします」
「メフィスト」
「ええ、メフィストフェレスと言いますが、短くメフィストとそう呼んでいただいて結構です。ルカ・ベリオ少年」
「少年はやめてくれ」
 ルカは老人にファミリーネームまで名乗った覚えが無かったがメフィストは確かに彼の姓を正確に発音していた。
 正しい発音で呼んでくるのは親の故郷の人間たちぐらいであることから、彼がただの老人でもただの犬でもないことは間違いない。
 もはや観念したルカは状況の割りには平板な心持ちで老人でも犬でもないものを見つめていた。
「ルカでいいよ、悪魔メフィスト」
「人間ルカとは仰々しい呼び名だと思いませんか? 悪魔は余計です。いや事実悪魔ではありますが。いっそ今風の無機質さを尊重してホモ科ホモ属サピエンスのルカとお呼びしましょうか?」
 平然と自分を悪魔と認め人間を分類学的に語る犬をやや滑稽に思いつつも、ルカはそのことを表情には出さずメフィストの言葉にただ首を振った。
「呼び方なんてどうでもいいさ。それにしてもどうしてまた今日なんだ?」
「呼び方や名前ほど重要なものも中々ないのですがね。まぁつまらない議論は私も望む所ではありませんしいいでしょう」
 犬は人間のように首を回すような動作をして、失礼と一言告げて絨毯の敷いてある床へ横たわった。
 彼の毛が抜け落ちることを気にしたルカではあったが、非難の視線を送るだけで何も言わずに話の続きを促した。
「今日来た理由は金星が姿を消す日だからと先程も言いましたが、おそらくルカさんはなぜ金星なのか、なぜそれが姿を消す日でなければならないのかという意図で私に聞かれているのでしょう」
 うつ伏せのまま顔だけ犬に向けていたルカは、犬とは逆に上半身を起こし足だけベッドの下におろして、分かっているなら話を進めろと言わんばかりに何度も頷いた。
「ゲン担ぎですかね。私の嫌いなとある悪魔の力が弱まる日なんですよ。あなたには全く関係ありません。それだけです」
「それじゃあなんで俺の部屋に突然来たんだ?」
「その質問に答える意味がありますかね。あえて言うならあなたがこの時間にここにいたからというただそれだけの理由ですよ」
 次の質問を口走ろうとしたルカに対して犬は寝転んだまま左手を待てとばかりに突き出した。そのまま身を起こしてから落ち着かない様子で周りを見渡し、肩が凝っている人間のように首を回した。
「無駄な話で時間を浪費するのは辞めましょう。時間稼ぎのつもりなら無意味ですよ。この家の人たちはもう眠りに落ちていますしルカさんが騒いでも起きることがないように先手も打っています。いつもなら無駄話は私も望むところなのですが、この家は少々落ち着きません。肩がこります。あなたのご家族は敬虔な信徒なのでしょうね。ここはまさに神のご加護がありそうな場所です。ルカさんの部屋だけを覆う結界は容易に張れましたが、この家全体への結界は骨が折れそうなので断念しました。なのでね、さっそく取引をはじめましょうか」
 メフィストの語る結界が何を示していてどういう効果があるのかわからなかったルカだったが、彼の言葉からこの部屋を出れば勝機がある事を理解した。
 悪魔が話しながら部屋中を見回していた隙にそっと後ろ手に隠し持っていた枕をぎゅっとにぎる。
 ルカが床をじっと見つめているのでつられてそちらを向いた犬の顔めがけて枕を思い切り投げつけ、部屋のドアへと一足で向かう。ドアノブを捻ろうとしたが力をこめても全く動かない。焦ったルカは扉の横にある棚の本、おそらく何かしらの聖典を、振り向くと同時に犬に投げつける。犬が正面から受け止めた枕とは違いその本を避けるため後退っているのを横目に、ベッドへ飛び乗って奥にある窓に手を掛けた。施錠していなかった窓はドアとは違い思うままに開くことが出来たのでルカはそのまま外に出ようと足を窓枠にかけ、飛び降りる事に一瞬躊躇したところで足が滑り、上体が前へと傾き、後ろ手で窓枠を一瞬つかむも勢いに抗えず、一気に体が頭を下にして庭の地面へと迫っていき、窓枠を掴んだ際に痛めたのか手が思うように動かず、為す術もなく固められた土へと頭から落下したその瞬間、意識が遠のくように全てが真っ暗になって、それから視界がまた明るくなり、気づくとルカは自室の天井を眺めていた。
 頭へと手を伸ばすも傷や瘤ができている感触はなく痛みも感じていない。
 体を起こして周囲を確認するとそこにはむく犬がいて、その犬の側にはルカが投げたシックなグレーのカバーをつけた枕と、開いたまま床に落ちた聖典が無造作に転がっていた。
「まるでそちらの窓から落っこちて頭を打ったかのような顔をしてますね」
 犬にそう言われて、ルカは再び頭を撫でる。痛みも傷もない。窓を振り返ると開いてすらいない。しかしルカが投げた枕と聖典は散らばっている。
 一体どういうことだと混乱しながらも、悪魔からの逃走を図ると幻覚を見せられるのではないかと解釈したルカは、こちらが逃げの姿勢を見せなければ活路が開けるはずだと自分でも都合が良いと思える判断をした。そう思わざるえないくらいにはルカも追い込まれていた。
 悪魔に反撃すべく考えを巡らせた。相手が犬であれば勝てないこともないと自身を鼓舞しベッドの裏に置かれた野球用の木製バッドを右手で握りしめてベッドの上に立ち上がり、左手は相手との距離を取るかのように前に伸ばして半身に構える。
「人体には急所がいくつもありましてね、なぜあるのかとその疑問は神のみぞ知る謎ではありますが、私が思うにおそらくは私共悪魔が存在する理由と同じように根本はかのお方の気まぐれなんじゃないかとそう思うんですよ。そんな風に言ったら怒られるかもしれませんが下々にとって見れば神慮も気まぐれもさした違いはありません」
 そう言いながら犬は聖典を中心にくるくると回る。回るスピードはどんどんと早くなる。
 まるで悪魔が乗り移ったかのような振る舞いだ、とルカは思った。的を射た言い方には違いないが、正にその通りの状況なのだとルカは胸中で苦笑する。
「それでその急所ですがわかりやすい場所ですとこめかみや顎の先があります。そこは鍛えることが出来ません。少し打たれただけで目眩がしてしまうんです」
 言うが早いか回り続けていたその助走を利用して跳躍したむく犬が牙をむいてルカに飛びかかってくる。
 牙から庇うように手を前に出し目を殆ど閉じかけていたルカを尻目に、犬は空中で旋回しその左の後ろ足でルカのこめかみを撃ち抜いた。
 かろうじて薄く開かれていたルカの瞳が移していた曲芸のような光景は、犬の一撃と共に光線が流れるような雑多な情景を左方向へ移してすぐに乱れ、脳裏に直接閃光を当てられたかのような強烈な煌めきを感じたと思うと、その反動とばかりに真っ暗闇へ落ちていき、体も崩折れていくのをルカはうっすらと感じていた。
 顎から地面に落ちた感触がした途端に床が馴染み深い物のような柔らかさになったので、驚いてなんとか頭をもたげると、ぼやけた視界は次第に毎日目にしているヘッドボードを浮かび上がらせ、首を巡らすと先程と同様に散らばった聖典と枕の側で寝転んだままのむく犬の姿がそこにあった。
「まるでこめかみを打たれたかのような顔をしていますね」
 悪魔はこちらの動揺をあざ笑うように無感動な態度でそう言いのけた。
「もうお分かりかもしれませんが、叫んでも無駄です。この部屋で響く音は外には聞こえません」
 自分の不始末に家族を巻き込むことは避けたいという気持ちがルカにもあったが、孤立無援である事を告げられるのはやはりショックであった。
 自分勝手なルカの心根が悪魔に察せられるのもしゃくだったので、顔を顰めたまま取り繕うような微苦笑をなんとか浮かべる。
「それでは約束のものを頂きましょう」
 ルカににじり寄るむく犬はゆっくりと賭場に現れた紳士然とした老人に姿を変えた。二足歩行となったことで空いた右手をそのまま前方のルカの体へと伸ばしてくる。
 老人の手から逃れようと体をよじろうとするも少し体が揺らせただけで、いつの間にかルカは殆ど身動きすら取れなくなっている。
 老人の手が徐に近づいていくほど早くなる鼓動をルカは他人のように感じていた。
 どうしようもなくなったことでかえって余裕が取り戻せたのかもしれない。ルカは手も組めず祈りの言葉も唱えられなかったがそれでも神に祈りを捧げた。
 神の御心のままにと、そう思えば思うほどにルカは自分の心が澄んでいくのを感じていた。
 ルカは胸中で祈りながら目の前におわすのが主であるかのように敬虔な顔つきで僅かに動かせた顎を上げる。
「ようやく観念しましたか」
 微小を浮かべた老人姿の悪魔は右腕をルカに触れさせた。ルカの衣服を傷つけることなくそのまま指先がルカの体に入っていったかと思われた瞬間、違和感を覚えた様子の悪魔が勢いよく手を引いた。
 憎いものでも見つめるようにして悪魔が見つめていた彼の指先の異変をルカもすぐに理解する。ルカの体内へ沈んだ筈の指先が喪失していることを、顔を歪めた悪魔はおそらく視覚と痛覚で二重に感じとっているようだった。
 まさかと言わんばかりの表情を浮かべた悪魔はルカの襟元を横に伸ばし首に数珠の付いた紐がかかっているのを確認して胸元にあるものの正体を確信した。
「ロザリオを着けていますね」
 何も答えず今度は瞳を閉ざしたルカに悪魔は舌打ちする。
「この程度の傷は時間が経てば回復しますし、何も約束のものは胸元から頂かなくとも問題はないのですよ」
 初めてルカに対して小悪党らしい苛立ちを示したかに見えた悪魔はそれでも余裕の態度を示し続けていた。
 目を閉じていたためベッドの軋みと背中に伝わる悪寒で悪魔が背後に回ったらしいことをルカは感じ取る。
「今度こそ本当に頂きましょう」
 その声はルカに伝えるかのようなわざとらしい喜色に満ちていた。それが先程の舌打ちを気にしいるからだろうと推察したルカは、悪魔の態度に現れた人間のような素振りを意外に思った。しかしそんなものなのかもしれないと悟り、せめてもの意地を見せるためにあえて頬を緩め、悪魔に成されるがまま身を任せ先程のクルスが起こしたような神のご加護をただ信じていた。
 背中に針を刺されるかのような痛みが一瞬走り、その後じんわりとした熱と倦怠感を同時に覚え、ゆっくりと何か得体の知れないウイルスがルカの体内へと広がっているような状態をルカに想像させた。それでも不思議と最初の一瞬以外の痛みがなく、むず痒いような胸のざわめきと、吐き気とは又違った不快感が満ちていく。
 こういう時は今までの記憶を次々と思い出すものと聞いていたのに。
 ルカにはこれといって無意識に浮かび上がってくる記憶はなく、意識的に親しい友人や家族を思い浮かべるだけで、そういう記憶の中の一つとして友人からゲームを借りたままだったことを思い出して、それが最後の記憶になるのは嫌だったのでなんとか感動的な記憶を思い出そうと頭を捻っていた。
「それでは約束の物は確かに頂戴しました」
 その声が聞こえたあと徐々に悪魔の手が引き抜かれていく感触と背筋を這う寒気がルカに襲ってきた。閉じたままの瞳で瞼を開閉しているような明滅を感じ目眩がした時のように自分の意識が遠のいていることを悟った。
 あと少しでおそらく永遠の眠りに落ちるのだろうとルカが覚悟した時、悪魔が戸惑うような唸り声をあげた。
 ルカは一転して燃え上がるような熱を体内に感じる。瞼ごしにも感じる眩さが部屋に満ちているのも気になったルカは何が起きたのかと、残る力を振り絞るように重い瞼を開いた。
 部屋の中心に劇場の照明用ライトが置かれたかのように強く輝いている。
 これもまた幻覚かという考えがルカの脳裏に過ぎったが、背後から聞こえる諦念にも似た悪魔の唸り声と体に残る異物感が今の状況を先程から続いている現実の続きであることをルカに理解させた。
 神の奇跡でも起きているのだろうかと遠ざかる意識の中ルカは微かに思いながら、思考がゆらぎはじめるのを感じた。
「あら大変」
 完全に眠りに落ちる前、素っ頓狂な声を聞いた気がした。
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