悪魔との契約にクーリングオフが使えるか~未成年者の契約は無効になります~

文字数 5,016文字

 名前も目つきも態度もだが、何よりその声が気に食わない。
 目の前で慇懃に佇むの不満の元凶である老紳士、ワーグナーと名乗る人物をルカは見やった。老紳士もこちらを気にしていたため彼の涼しげな目元近くで視線が自然重なってしまう。すぐさま紳士が微笑みかけてきたので、ルカはなんとか取り繕った苦い笑みを浮かべた。
「まだ続けますか?」
 老紳士は大きな管楽器のように低く通る声でルカに尋ねる。
 胸中で彼の悪態を散々吐いていた事と無理に浮かべた笑みとで感情が混沌としていたルカはそれが自分への問いかけであることを一瞬理解できず、何拍かの不自然な沈黙の後に上ずった声で続ける旨を伝えた。
 ワーグナーが仕切るこの場で賭け続けているのは既にルカ一人だけとなっている。他の人々、目深にワーク帽を被ったどうしようもなさそうな青年や額が高くなった自虐的でみすぼらしい親父やいつも知った顔をしているインテリぶった中年の男達は、キリの良い所で損失を出したまま辞めていたがルカだけは引き際を逃してしまいドツボにはまっている。
 負け分を取り戻したいと願う気持ちもあるルカの心を見透かすように、老人は掛け金を倍々に増やすことを提案していた。ルカの手持ちでありほぼ全財産では次の掛け金、つまり今までの負け分を払うのがやっとという状態だった。
 賭場に出入りして長くもなく未成年であるルカにツケという手段は取れない可能性が高く、もし次回負けてしまった場合は支払いの方策が何もない。
 それでもルカは引かなかった。詰まらない意地で引かないというよりも、今日始めてこの男と会ってひと目見た時に感じた不快感が彼を引かせなかった。
 ワーグナーが浮かべるこちらを見透かすような笑みも、慇懃に過ぎる振る舞いも、そういった色々が露骨なポーズに思えて、ともするとルカには彼の全てが冒涜的にさえ感じられた。
 こんな賭場にいる自分を棚に上げながら、ルカは自分の信じる神のためにも老紳士をどうしても許せなかった。
 ルカの微妙な葛藤を他所にワーグナーは先程までと同じように淡々とカードを配っていて、彼らのテーブルはいつの間にか物見高い人々に囲まれていた。そういう状況でも老紳士は少しも気後れすることないようで、自分のペースでカードを配する泰然とした様子は既にこの場を支配しているようでもあった。
 ルカは配られた手札にペアが二つある事を確認するとこれまでの流れをよく吟味することもなくその場の額、つまり彼の今の手持ちほぼ全額、実質的に彼の殆ど全財産を賭けることに決めた。ルカの素早い決断を目にしても老紳士は動じることなく頷いただけで、ただ急くばかりのルカとは対照的でもあった。捨て鉢になったわけでもないがなんとも言えない気分のルカはカードを場に投げ出すように放った。
「ツーペア」
 言ったルカは老人を見つめ彼の瞳から彼の胸の内を読み取ろうとするがそのかいはなく、無表情な老人の瞳に吸い込まれそうな気分になっただけで、ルカには老人のどんな意図も読み取れそうにはなかった。
「これで10連勝ですね」
 見つめ合ったまま一息ついてから老紳士はそう言い、手札のスリーカードを翻した。
 ルカは深く目を閉じながら無意識に舌打ちをし、取り繕うような咳払いもした。ただただ後悔するルカは周囲にどよめきと失笑が溢れていることに遅れて気が付いたが、恥を感じるほど彼らに関心を持つことは出来そうに無かった。
「いかさまだ」
 漏れるようにこぼれたルカの一言は力なくその場に漂ったが老紳士どころか周囲の誰にもその言葉が届いた様子はなく、ダメを押すかのようにしてもう一度、今度は少し声を大きくして同じ言葉を繰り返した。
「俺とワーグナーさんとの勝ち負けだけを考えれば負けは3分の1の確率だろ。それが10回も続いたなら3の10乗分の1の確率だ。そんなことが起きるはずがないよ。あなたはイカサマをしている。俺はあなたのイカサマを確信している」
「信じようと信じまいとにかかわらず実際に結果は出ているんです。それにそもそも引き分けを考慮しての3分の1という確率なのでしょうが引き分けの可能性は殆ど考慮しなくて良いほどに低いので、あなたの負ける確立は3分の1よりは2分の1に近いはずです」
 老紳士の凛とした態度と理路整然とした物言いを聞いで周りの人々は同意するような反応を示した。かと思えばそこここで敗者をあざ笑う姑息な失笑も溢れている。
 老紳士の異常な勝ちぶりについておかしいと思っていない人はいないはずだが、負けたのは彼らではなく場違いな向こう見ずの少年だ。証拠もなく老人に因縁をつけるような真似をする人間は誰もいなかった。
「そんなことはどっちでもいい。どちらにせよありえない確立なんだ。これはイカサマだ」
「イカサマだというのなら」
 老紳士は先程までよりやや高いバリトンでそこまで言って、ルカを見据えて微笑んだ。ルカは老紳士の視線のねちっこさに思わず身震いし、かっとなっり昂ぶっていた神経が急速に冷めるのを感じた。
 周囲で見守る人々もやや張り詰めたような空気を漂わせて彼らを囲む。
「イカサマを証明できる何かがあるんですよね。そうでなければそれは、私への侮辱です」
 侮辱ですよ、と繰り返した老紳士の捕食者のような恐ろしい眼光を見続けてはいられず視線を下げたルカはただ首を振り、駄々っ子のように不満の意思を示しただけで結局何も言い返せなかった。
「弱い者いじめの趣味もないのでね、まぁいいでしょう。キリもいいところですし、今までのあなたの負け分を支払って下さい」
 とうとう来たか、とルカは身構え懐の財布をゆっくりとズボンのポケットから取り出した。財布に入っている叔父の仕事を手伝って得た賃金と賭場で儲けたあぶく銭を全て足した金額では負け分の半分にしかならないことを彼はよく理解していたため、財布の中身を確認しながら口を開きつ閉じつを繰り返していた。こちらの持ち金など理解していないはずなのに、丁度金を払えなくなった折にタイミングよく支払いを迫った老紳士に対して、得体の知れないものに抱くような不快感をルカは強めていた。
「悪魔かよ」
 自然と口をついた一言はルカの中で驚くほどしっくりくるものだった。
「鋭いじゃないですか」
 そうワーグナーが言ったのをルカは確かに耳にした。
 ルカは今賭け事をしてはいるが元来信心深いタチである。地元の人間からは迷信深いとも陰口されるルカのそういう性質を差し置いたとしても、かの老人が本当に悪魔であることを疑う余地はないだろうとルカは根拠もなく確信した。
 最近はお祈りもサボりがちでミサにも参加せず賭場に出入りしている自分に天罰が下ろうとしているのだと思うと、ルカの心はなぜだか晴れ晴れしくなっていった。天罰だとするならば、それは神がおわし彼を見守っていたことの証明に他ならないのだからルカはむしろ僅かな嬉しさすら感じていた。
「私が悪魔であるなら次は魂を賭けるなんてどうでしょうか?」
「え?」
「もうお金がないんでしょう? お遊びみたいなものですよ、もう一勝負やってくださるなら今日のところは負け分の取り立てを猶予しますよ。それから、もしこの勝負にあなたが勝てば今日あなたがお持ちのお金を支払ってもらうだけで良しとしましょう。どうです? やりますか?」
 彼が悪魔だというルカの確信は根拠があるものでもなかったので、老人を悪魔と見做したからという理由だけでなく、なんとなく得体の知れない恐ろしさを老人の言葉に感じてルカは躊躇った。
「気乗りしない、です。誰か俺に」
 そこまで言ってから周りを見渡し、自分に金を貸してくれる奇特な人間がいないことを悟ったルカは口を噤み腕を組んで考え込む。
「これだから冗談の通じないクリスチャンは困る」
「信心深いぼっちゃんだから悪魔が怖いんだろうさ」
「しょせんは移民の子だな。奴らは根性がねーんだよ」
 考えあぐねているルカに冷ややかな言葉がぶつけられる。
 耳障りな言葉に心を乱されまともな思考を保つだけの集中が出来ないと悟ったルカは、大きくため息を吐き移民の子と言っていた男を睨みつけ、それから老人にカードを切るよう促した。
「それでは先程の条件に合意されたということでいいんですね?」
「いいですよ」
「そうですか。近代的な悪魔らしく契約書の締結といきたいところですが、この場には少々無粋ですからね。それに口約束でも契約は契約です。それにここには約束を証明する人たちが沢山います。であれば紙などなくとも、まぁいいでしょう」
 言いながら手際よく手札を配るワーグナーの手先を、ルカは射抜くほどの熱意でじっと見つめていた。
 今のところワーグナーに不審な素振りは見られない。
 そもそもこの場はイカサマを何より憎む生粋の博打打ち達によって360度から見張られている。そんな中で妙な細工など出来るはずがないとルカ自身も理解はしていた。
 ある一つの仮定、彼が本当に悪魔であるという荒唐無稽な仮定を除けばそれは間違いのないことだった。
 彼を悪魔と見做しているのであれば魂を賭けることは破滅につながるが、ルカはその点については非常に楽観的に構えていた。天罰を連想したルカだったがよく考えれば考える程に、今はともかく以前はお祈りを欠かさなかった自分は、少なくとも悪魔よりは神に愛されているはずなのでなんとかなるだろうという期待があった。
 その事を考えると、余りの子供じみた考えに自嘲的に自然と溢れかける笑みを抑え、配られた手札を手繰り寄せそっと見やった。
 またもツーペア。それもクラブのエースを含むツーペアだった。
 続けてこの役であれば負けはないとルカは安堵するも、老人とは目を合わせず祈るようにしたまま、ただ「賭ける」とだけ口走った。周りからのヤジの類はもう気にならなかった。
 なんとなく嫌な気がしたので老人と視線が交わる事だけは避けようと、ルカは顔をやや伏せて瞼を閉じていたものの、どうしても彼の方を見てみたいという欲求が沸々と湧いていた。
 少しだけならと思ったルカは、いたずらをして怒られている子供が親を窺うように、瞼を薄く開いてチラリと彼を見やった。
 視界の先にはルカの反応などとっくに承知していたのかのように、口元をゆるく開いて薄笑いを浮かべた総白髪の悪魔じみた男が何もかもを見通すような視線でこちらを睥睨していて、つい驚きで頭をもたげはっきりと彼を見てしまったルカは自分の臆病さが遣る瀬無くなって、祈るように手のひらで挟んでいた手札を表面を見せて無造作に卓上に置き無言のまままた俯いた。
「金星が姿を消した日にまた伺います」
 老人はそう言って手札を裏返したまま立ち上がり何事もなかったように立ち去ろうとしたが、おせっかいな周囲の者に引き止められた。
 ずるそうなにやけ顔をした面長の男が老人の手札を裏返す。ダイヤのフラッシュが出来ていた。
 俯いたまま上目遣いに手札を見たルカは、正義感の強そうな顔をした背の高い知らない誰かに腕を捕まれ引き止められていた老人の方を伺うようにそっと見ると、老人はルカを見据えて微笑みを見せずに頷いた。
「正常性バイアスです」
「え?」
「あなたは自分だけは大丈夫だと慢心して何度負けても賭けを続けました。自分には神のご加護がついているとで思ったのかもしれません。ついには何よりも大切なものまで賭けの対象として、そしてこれ以上負けるはずがないと根拠もなく思いながら負け、そうして大事なものを失うこととなった今もまだなんとかなると信じています」
 言いながら悪魔じみた老人は彼の腕を掴んでいたノッポの男の腕を優しくほどき、ゆっくりとこちらに背を向けて入り口の、この店に二つある入口のうち南の海岸へと続く道が広がる、彼がこの店にやってくる時にくぐった扉へと歩いてゆく。
「悪魔が付け入るそういう人間の隙の一つを、正常性バイアスというんです」
 悪魔という言葉に賭場にいた人間は皆笑った。笑っていないのは老人とルカくらいのようにルカには思われた。
「それでは次回も金星の隠れる日に会いましょう」
 そう言って悪魔は姿を消した。入ってきたのと同じ扉から外へと出ていった。
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