Ripper-4
文字数 1,599文字
「人間どもは、人肉は柘榴の味だと言うらしいが、女の肉はそんなものより格別に甘い」
化け物の漆黒の瞳がニールを横目に見る。
「子どもの肉なんぞは柔らかくて噛む必要もない」
ニールは固く口を閉ざし、俯くばかりだ。
もはやニールにとって、記憶のない夜に人を襲って食べたかどうかは問題ではない。自分がどれだけ否定しようと、その身は永劫の命を生き続ける化け物と同じもので、人と交わって人として生きていくのは難しい。大きな街に出たのは失敗だった。大通りを歩く紳士淑女だけでなく、スラムで身売りする娼婦たちの血肉の潮騒が絶えず誘惑する。どうぞ噛んでご覧なさい、糖蜜のように甘いのよと、ニールの耳元で幻聴が囁く程度には正気でいられないと実感してしまった。
「やけにおとなしいな、同胞」
ヘレンが一方的に喋ることは間々あるけれど、彼もさすがに、ニールの沈黙が長い理由が気になったようだった。顔を真っ直ぐ愛し子に向けて、ニールの気を引く言葉を選ぶ。
「……例えば、だ」
ニールは視線を交わさないまま、そっと口を開き、
「今、ここに居る全ての人間を喰らい尽くしたいと思ったことはあるか」
ニールは気怠げな眼差しをヘレンに向けて、
「だから、私は疲れている」
固く閉ざしていた唇を開いた。
シュヴァルツヴァルトに囲まれた廃墟の屋敷で、ひっそりと狩りを愉しんでいれば良かった。森にやって来た人間を月に一人、或いは半年に二人、殺して喰らう戯れのような生を飽きるまで続けていれば良かったのだ。飽きたところで終わらないから、その後のことはヘレンに託す選択もできた。クロノスとウラノスを飼う彼は、無限の化け物の息を止める術も持ち得るだろう。
にやりと左の口角を上げたヘレンは目を細めると、
「それが獣だ、ニール」
諭すように告げる。
「お前が上品に行儀よく振る舞いたくとも、獣は本能で生きる、人間のように衝動を律するようにはできていない」
ニールの倦み疲れた漆黒の瞳と、本能を飼い慣らすヘレンの漆黒の瞳はしばし交わり、やがて、ニールのほうが顔を逸らし、俯く。
「……私は、獣になりたくてなったのではない」
魂は此処にあるけれど、ニールの肉体は何百年も前に終わりを迎えている。傍らのヘレンが身勝手にも繋ぎ止めたから、果てのない生涯を生きていかざるを得ない。父に斧で打ち据えられたとき、ようやく地獄が終わると安堵したのに、だ。ヘレンに告げた別れは、受け容れられることがなかった。
ニールの言い分を聞きながら、ヘレンは真新しいシガレットを口の端に咥え、マッチで火を点けた。美丈夫な容姿と相俟って、その所作の優雅さといったらない。人の姿に化ける獣が人間の嗜好品に手を出すのかと聞いてみたかったものの、それもまた衝動ゆえだと、この化け物は不敵に笑うだろう。
「そうだとも、俺がこの手で生かした」
紫煙を吐きながら、ヘレンは悪びれることなく答える。そうして、家庭教師だったいつかの面影を──ニールが好きだった慈愛に似ている感情を湛えて、微笑む。
「だから、人であることなぞ辞めてしまえ」
此処はもう、地獄の底ではない。ヘレンが言わんとしていることは汲んでいるつもりだ。けれど、それでも、人を喰らえば罪悪感を覚えるし、欲望や欲求の赴くままには生きられない。人か化け物かではなく、ニールはそういう生き物なのだ。きっと、この煩悶も未来永劫、続くのだろう。
尚も俯くニールに、
「娼婦のあとにもう一人、男も喰った」
そう言えば、とでも言うように、ヘレンが呟く。
「此処のような店で知り合ったんだが、母親が娼婦だったとかで、ああいう女は嫌いだとほざいていた」
味や食感を思い出しでもしたのだろうか。恍惚と目を細めて感嘆の息をつくと、
「人間の男にしては旨かったな」
舌舐めずりでもしそうな気色でニールを見る。
「人を喰らうのも悪いことばかりじゃない」
と、意味ありげに言った。
【了】
化け物の漆黒の瞳がニールを横目に見る。
「子どもの肉なんぞは柔らかくて噛む必要もない」
ニールは固く口を閉ざし、俯くばかりだ。
もはやニールにとって、記憶のない夜に人を襲って食べたかどうかは問題ではない。自分がどれだけ否定しようと、その身は永劫の命を生き続ける化け物と同じもので、人と交わって人として生きていくのは難しい。大きな街に出たのは失敗だった。大通りを歩く紳士淑女だけでなく、スラムで身売りする娼婦たちの血肉の潮騒が絶えず誘惑する。どうぞ噛んでご覧なさい、糖蜜のように甘いのよと、ニールの耳元で幻聴が囁く程度には正気でいられないと実感してしまった。
「やけにおとなしいな、同胞」
ヘレンが一方的に喋ることは間々あるけれど、彼もさすがに、ニールの沈黙が長い理由が気になったようだった。顔を真っ直ぐ愛し子に向けて、ニールの気を引く言葉を選ぶ。
「……例えば、だ」
ニールは視線を交わさないまま、そっと口を開き、
「今、ここに居る全ての人間を喰らい尽くしたいと思ったことはあるか」
ニールは気怠げな眼差しをヘレンに向けて、
「だから、私は疲れている」
固く閉ざしていた唇を開いた。
シュヴァルツヴァルトに囲まれた廃墟の屋敷で、ひっそりと狩りを愉しんでいれば良かった。森にやって来た人間を月に一人、或いは半年に二人、殺して喰らう戯れのような生を飽きるまで続けていれば良かったのだ。飽きたところで終わらないから、その後のことはヘレンに託す選択もできた。クロノスとウラノスを飼う彼は、無限の化け物の息を止める術も持ち得るだろう。
にやりと左の口角を上げたヘレンは目を細めると、
「それが獣だ、ニール」
諭すように告げる。
「お前が上品に行儀よく振る舞いたくとも、獣は本能で生きる、人間のように衝動を律するようにはできていない」
ニールの倦み疲れた漆黒の瞳と、本能を飼い慣らすヘレンの漆黒の瞳はしばし交わり、やがて、ニールのほうが顔を逸らし、俯く。
「……私は、獣になりたくてなったのではない」
魂は此処にあるけれど、ニールの肉体は何百年も前に終わりを迎えている。傍らのヘレンが身勝手にも繋ぎ止めたから、果てのない生涯を生きていかざるを得ない。父に斧で打ち据えられたとき、ようやく地獄が終わると安堵したのに、だ。ヘレンに告げた別れは、受け容れられることがなかった。
ニールの言い分を聞きながら、ヘレンは真新しいシガレットを口の端に咥え、マッチで火を点けた。美丈夫な容姿と相俟って、その所作の優雅さといったらない。人の姿に化ける獣が人間の嗜好品に手を出すのかと聞いてみたかったものの、それもまた衝動ゆえだと、この化け物は不敵に笑うだろう。
「そうだとも、俺がこの手で生かした」
紫煙を吐きながら、ヘレンは悪びれることなく答える。そうして、家庭教師だったいつかの面影を──ニールが好きだった慈愛に似ている感情を湛えて、微笑む。
「だから、人であることなぞ辞めてしまえ」
此処はもう、地獄の底ではない。ヘレンが言わんとしていることは汲んでいるつもりだ。けれど、それでも、人を喰らえば罪悪感を覚えるし、欲望や欲求の赴くままには生きられない。人か化け物かではなく、ニールはそういう生き物なのだ。きっと、この煩悶も未来永劫、続くのだろう。
尚も俯くニールに、
「娼婦のあとにもう一人、男も喰った」
そう言えば、とでも言うように、ヘレンが呟く。
「此処のような店で知り合ったんだが、母親が娼婦だったとかで、ああいう女は嫌いだとほざいていた」
味や食感を思い出しでもしたのだろうか。恍惚と目を細めて感嘆の息をつくと、
「人間の男にしては旨かったな」
舌舐めずりでもしそうな気色でニールを見る。
「人を喰らうのも悪いことばかりじゃない」
と、意味ありげに言った。
【了】
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