Ripper-1

文字数 2,538文字

 鴉が啼いた。
 今にも雨が降り出しそうな暗雲が、上空に低く垂れ込めている。雲間を縫って僅かに差し込む日差しはさながら、神の御使いが降臨する光の梯子で、それらは荒野に広がる戦場跡から非業の死を遂げた魂を救い出さんと、横たわる骸の数々を撫でている。
 白地に赤のラテン十字が彼らの旗章だ。聖地奪還と銘打った領土紛争の痕跡を素足で踏んで、白髪の男は、腐敗する遺骸の数々を睥睨する。
 鴉が啼いて飛び交った。頭蓋が剥き出しのハゲタカでも飛来したのだろう。
 奴らは悪魔の使いだ。二千年紀に起こるとされる、聖霊との終末戦争に備えて軍事拡大しようと躍起なのだ。
 死の匂いがする。彼が好む不浄の汚臭だ。聖なる大義を抱えて散った連中さえ、地獄の底と同じ臭気を放ちながら朽ち果てていく。神も悪魔もあったものじゃない。天国の門は開かれない。何故なら、此処が地獄の只中だからだ。
 祈りの言葉を声もなく口ずさむ。『Amen』と唱えて結ぶ。男の薄い唇の端が耳まで裂けた。白い毛並みの巨狼が、荒野の空に高く哭いた。

 

Ripper



 それが一〇四X年のことだと、目の前の男が嘯いた。腰に届く白髪を頭の高い位置で結い上げ、野性味溢れる美貌でシガレットを嗜みながら、没落貴族風のスリーピースに身を包む細身の男だ。
 革命から数十年が経ったパブだった。
 瓦解した帝国から海を渡り、ブリティッシュに来たのだと実しやかに語る男の眼差しは、遠い昔を思い出すように宙空を彷徨っている。
 客に酒を供するウェイトレスたちの視線が時折、妖しい色香を放つ男に向けられることは感じていた。古代彫刻を体現したような美丈夫。成程、女の視線の理由はわかりやすい。
「彼女ら、君が気に入ったらしい」
 男の話の腰を折り、女どもの視線に目配せをする。白髪の男は夜より昏い漆黒の瞳を意味ありげに細めてこちらを見ると、
「生憎、女に興味はなくてね」
 街角に立つ、どんな娼婦より艶然と笑うのだ。

 この街は霧の街だ。今夜も夜霧が深い。
 逗留する宿の窓から石造りの街並みを見下ろして、銀髪の青年は静かに佇んでいる。
 日中に限らず、明暗が分かたれたこの街は好きだ。移民が多いせいか、良くも悪くも、他人の出自に興味がない。ブリティッシュに渡る前は銀色の髪が老人のようだと言われたこともあったけれど、そういった些細な接触もほとんどないのは居心地がいい。
 さて、何処に行こうか。ブリティッシュの田舎のほうは閉鎖的だと言うけれど、霧の街の人々よりも詮索が好きだろうか。或いは、余所者を警戒して爪弾きにするだろうか。
 それはそれで有難い、と青年が思うと同時、宿の部屋のドアが重たく軋りながら開けられる。
「……人を喰ったな」
 通路に佇む長身の男の姿を認めて、青年は腥い臭気に眉を寄せると、唸るように呟いた。
 部屋を出る時に綺麗に結い上げた髪が解けている。透けるように白い髪の端々には赤黒い血痕が散り、薄い唇は顎まで血で濡れている。実体を持ちながら神出鬼没の叶う混沌だから、その猟奇的な姿を人に見られるような失態はなかっただろうが、これが傍らにいることで、青年の旅は終わりを見ない。
 顔にかかる白髪を掻き上げて、男は陶然と口角を釣り上げた。
「腹が満ちたらヤりたくなった」
 長身の男の姿は一瞬で崩れ落ち、次の瞬きのあとには肉感的な女が裸で青年に絡みつきながら、誘うように瞳を濡らしている。
「ね、中で出して……?」
 青年の美しい顔に浮かぶのは嫌悪ばかりだ。舌打ちさえしそうな気色に、白髪の女は怖気がするほどの美貌でうっとり笑うと、
「出されるほうが好みか?」
 血痕のない長身の男に戻って、青年の顎を掬う。
「人を喰うなと言っただろう」
 男の満月色の双眸を見上げて、青年は淡々と言った。
「お前の味だけじゃ飽きる」
 青年の小ぶりな耳に息を吹きかけ、男の舌が縁を辿る。耳たぶを噛んで宣う男の、興奮に荒ぶる呼吸を近くに感じながら、青年は素っ気なく嘆息して、
「大人しくする、と言うから連れて来たのに、また一からやり直しだ」
 白い男に身を任せた。
 白髪の美丈夫の本性は混沌だ。本来は実体も性別もない。かつて、一度だけ本性を見たことがあるが、あれは人間に理解できるものではなかった。夥しい数の目、鼻、口、耳、手、足。過去と未来が一緒くたに現存し、時空間の概念がなく、声や音といった様々な情報が混在する。時間を駆り、死を使う。筆舌に尽くし難い(あなぐら)──あれは、そういうものだ。そして、人が神と呼んで崇める何かに近い。始まりがなく、終わりもない。だから老いず、死なない。
 名をヘレンという化け物は、便宜的に幾つかの実体を持つ。青年期の男性の姿を常態とするものの、時に妖艶でグラマラスな女性の姿を取り、極稀に両性を保つ不思議な身体で現われる。また、場合によっては、伝説上の巨大な狼の姿を取ることもある。
 銀髪の青年、ニールは、そんな男に化け物に作り替えられた被害者だ。紆余曲折あったものの、今は白い化け物が傍らに侍るのを仕方なく許し、旧帝国以外の安住地を探す旅に同行させてもいる。ニール自身の実体は二十代の美貌の青年のみだったけれど、人狼に噛まれて混沌の種を植え付けられたために不死となり、同時に銀の毛並みの巨狼の姿も得た。
 白い化け物が魔女の子である自分に執着する理由は、ニールには終ぞわからないままだったが、現世での寄る辺は他にないので、ヘレンの暴虐を許すしかない。
 彼がニールの家庭教師だった頃からキス止まりだった関係は、帝国解体後、同胞として文字通り喰らわれる以外に、ヘレンの気まぐれを赦し、受け入れている。
 そのひと時ばかりは、ニールは家庭教師を慕っていた頃の少年に戻れる。終わりのない地獄の底で息をするしかなかった境涯だったけれど、あの日々はニールにとって、今でも唯一の光だ。
 ガリ、と項の辺りに遠慮なく歯を立てられて、(おこり)のように震える。食い破られた肌から滲む赤黒い体液がぽたりと滴って敷布を汚し、鉄錆のような匂いで嗅覚を刺激する。
「……満足したんじゃなかったのか」
 重く吐息しながら尋ねると、
「動いたら腹が減った」
 白い化け物は体内を占めた楔を抜き去りながら、奔放な答えを寄越す。
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