今への帰り道

文字数 7,067文字

「バンドやろうぜ」
 老人会に駆け込んでくるなりシゲが言った。公民館の談話室がざわついた。
 おれとヤスは対局をやめ、肩をすくめる。
「なんだ急に」
「これだよこれ」
 碁盤の横に広げられたのは「ミュージックフェス」と書かれたビラだった。
「参加条件ねえからよ、みんなで出ようぜ」
 鼻息の荒いシゲに、ヤスはため息をつく。
「お前は本当にいっつも思いつきで言いやがる。七十超えて今からバンドとか正気かよ」
「何かやるのに歳は関係ないだろ。楽しそうだと思わんか?」
「思わんね。若い頃とは違うんだ」
 二人が問答してる間に、おれはビラを見てみた。一般参加のみのイベントで、開催は約一ヶ月後。規模は小さいようだが、今から練習してまともな形にするのは難しいだろうな。
 そう思った時だ。優勝賞品が目に入ってきて、おれに一つの考えが浮かんだ。
「出よう」
 二人はパッとこちらを見た。目を輝かせるシゲをさえぎってヤスが問う。
「どうしたキヨシ。この馬鹿につられたのか」
「いや、賞品だよ。江ノ島へのペア宿泊券」
「江ノ島だ? 奥さんと行こうってか」
「おれじゃなくて、タッちゃんのとこだ」
「タッちゃん……」
 ぽつりと呟き、ヤスは神妙な顔になった。
「覚えてるか、江ノ島はタッちゃんがケイコにプロポーズした場所なんだ。再来月にはタッちゃん行っちまうだろ。だからその前に、餞別を送るってのはどうだろう」
「しかしな、タッちゃんに伝わるか」
 ヤスとは反対に、シゲはすぐ乗ってきた。
「いいな、賛成だ。なあにヤス、高校の文化祭でもやったんだから、なんとかなるって」
「あんなの五十年も前だ」
 嘆息して白髪頭を掻き、ヤスはじろりとおれたちを見た。
「楽器のアテはあるのか」
 これはつまりやるってことだ。シゲが喜んで身を乗り出した。
「さすがにみんなもう処分しちまったよな。でも安心しろ。うちの店に来てくれ」
 シゲの車で五分ほど揺られ、店に着いた。ランプが吊り下げられた店内には、陶器や絵画などの骨董品が所狭しと並べられている。
「うちの息子が継いでからは、骨董品だけじゃなく、珍しい代物はなんでも扱ってるよ」
 おれとヤスが客間で待っていると、次々と楽器らしきものが運ばれてきた。というのも、およそ見たことのない形をしていたからだ。
「これが馬頭琴(ばとうきん)、隣りがディジュリドゥで、最後がウドゥドラム。つまりギターベースドラムが揃ってる。問題なくバンドできるな」
「ちょっと待て」
 ヤスと同時に抗議を入れ、説明を求めた。
 馬頭琴というのはモンゴルの楽器だ。手に持った弓を弦にこすって弾くのだが、ギターと違い、弦が二本しかない。
 ディジュリドゥは筒状の吹奏楽器だ。長さは一メートル以上もあり、摩訶不思議な低音が出る。これをベース代わりにしようってか。
 ウドゥドラムは見た目がほぼ壺だ。手のひらでぽんぽこ叩くことで多様な音が鳴る。しかしこんなの叩いてる人を見たことがない。
「さすがに特殊すぎるだろ。これで年寄りがバンドやろうってのは、イロモノがすぎる」
「楽しそうじゃないか」
「そう言うと思った。なあヤス、変だよな」
「ああ。こりゃ耄碌(もうろく)してると思われる」
「だろ、今からでも普通の」
「でもな」とヤスは腕を組んだ。
「その変なのがかえって良いかもしれん。考えてもみろ。他のバンドとまともにやり合って勝てると思うか? イロモノだろうがインパクトがなけりゃ、優勝なんて出来ないぞ」
 賛同してくれると思っていたおれは面食らった。しかしヤスの言うことも一理ある。口は悪いが物事を見る目はある奴だ。
「わかったよ」
 おれが観念すると、がははとシゲが笑った。
「よし。ドラムは俺、ベースはヤスでギターがキヨシ。文化祭の時と同じ布陣でいこう」
「ボーカルは?」とヤス。
「もちろんタッちゃんだろ。文化祭の時のパワーといったらなかった」
「今のタッちゃんには厳しいんじゃないか」
「気持ちはわかるが、まずは本人に聞いてみよう。家にこもりっきりじゃ気が滅入るしな」
 そう言いながらおれも不安ではあった。かといって会わない選択も違うはずだ。
 再び車に乗り、タッちゃんの家へ向かった。

 インターホンを鳴らすとケイコが出てきた。歳をとっても美人だが、少し痩せた気がする。
「みんな揃ってどうしたの」
「タッちゃんに用があってな。どこにいる?」
 シゲが明るいので、ケイコは安心したようだった。
「今は縁側ね。庭の方から回って」
 花壇の間を抜けると、縁側にタッちゃんが座っていた。大工をしていたからガタイは良いが、今はずいぶん背中が丸い。
「よう、お邪魔してるぜ」
 ぼうっと座っていたタッちゃんは、誰ともなく見て「ああ……」と呟いた。おれとヤスが手を上げたが、目に力が宿っていない。するとシゲがタッちゃんの横に行って座った。
「ちょっとお願いがあってよ。タッちゃんさ、俺らのバンドのボーカルやってくれねえか?」
「バ、バン……」
「そうだよバンドだ。前にやったんだ俺たち四人でよ。あれ、またやろうってなってな」
「おお、ああ」
「でもボーカルがいなくちゃできねえ。歌だよ、歌う奴だ。そこで、その役をタッちゃんにやってもらいてえってわけだ」
「お、うん、ああ」
「おーそうなんだよ。やるなタッちゃん」
 こういう時シゲがいてくれてよかったと思う。おれとヤスじゃ、しんみりしてしまう。
 タッちゃんは認知症だ。一年ほど前から少しずつ症状が進行していて、ぼんやりしていることも増えたし物忘れもひどくなった。もうすぐ空きが出るらしく、再来月には介護施設に行くことになっている。
「悪いなケイちゃん。急な話で」
 ヤスの言葉にケイコは微笑んだ。
「いいのよ、どうせシゲくんでしょ。昔から変わらないわね」
 あなたたちがちょっとうらやましい、と言うケイコの横顔は寂しそうに見えた。子どもはもう家を出て、二人で暮らしているのだ。
「あの人のこと、お願いね」
「任せてくれ」
 おれが言うとヤスも同調した。
「おおい、タッちゃんやるってよ」
 シゲがうれしそうに両手を振った。

 相談の結果、曲は前回と同じく「ディープパープル」の「スモークオンザウォーター」に決まった。音源と楽器をそれぞれ持ち帰って練習し、一週間後に再び集まったおれたちは、近所の音楽スタジオに入った。
 馬頭琴に壺にでかい筒と、あらためて妙な絵面だ。さしずめ異民族バンドってとこか。
「じゃあ、やってみようぜ」
 シゲの壺によるカウントから合わせてみた。異国情緒のある音色が混ざりあい、感じたことのない空間がそこにはあった。
 と言えば格好はつくが、実際は楽器初心者の老人のセッションである。音程もリズムも噛み合わず、ろくに聴けたもんじゃなかった。
「おいシゲ、どんどん速くなってるぞ」
「ヤスこそ、もっとしっかり鳴らしやがれ」
「二人とも落ち着けって」
「キヨシも音がコマ切れみたいになってるぞ」
 そんな具合でうまく進まない。言ってることはわかるが、身体がついていかないのだ。ただ一番の問題はタッちゃんだった。
 まず歌詞が覚えられない。まあこれは、洋楽だから多少のごまかしは利くのかもしれん。深刻なのは発声の方だ。どうにも弱々しく、頼りない。覇気が感じられないのである。
 タッちゃんは元々口数は多くなかったが、やる時はやる男だった。おれたちの中で男気は一番だったと思う。しかし認知症ってのは、自信をなくすものらしい。自分の記憶が正しいのか、今やってることが合ってるのか、いつも不安にまみれているせいで、思い切った声が出せないのだろう。だったらせめておれたちが、演奏でサポートしていかねばならん。
 結局、基礎的な力が足りていないということで個人練習に戻り、また一週間後に集まってみると、演奏に関してはかなりマシになっていた。シゲもヤスも相当練習したと見える。
 ところが肝心のタッちゃんは、やはり精彩を欠いていた。ケイコに聞いたが、タッちゃんは毎日音源を聴き込み、発声練習しているらしい。他の何を忘れても、それだけは忘れずにやっているそうだ。そのことを思うと、かえって居たたまれなくなる。しかしおれたちがそんな考えでは駄目だ。
 ひとまず休憩しようと、おれたちは部屋を出て、共用のスペースへ腰かけた。重い空気が流れている。本番まで十日を切っていた。
 その時、楽器を背負った若者のグループが入ってきた。十代だと思うが、派手な髪色に、何人かピアスも開けている。彼ら四人は自販機でジュースを買い、横のテーブルについた。
「あっつ、だる」
 大股を広げ、だらだら喋りだした。我々が黙る中、馬鹿笑いが響く。とっとと部屋に入ればいいのに、それどころか一人が耳打ちをし出すと、他の者も我々をちらちら見てきた。
「ひょっとしてフェス出る感じなんすか?」
 ニヤニヤ笑いを抑えきれない様子で、茶髪の少年が話しかけてきた。彼の指さす先、シゲの尻ポケットには例のビラが入っていた。
「……そうだが」
 仕方なくおれが答えると、彼らは明らかに噴き出すのを堪えているようだった。
「うっわ、マジすか草。おれらも出るんすよ」
「手加減よろしくっす、人生の先パイ」
「あ、じゃあおれら練習あるんで」
 げらげらと、彼らは部屋に入っていった。
「なんだあのクソガキども」
 ヤスが悪態をつき、シゲが「ほっとけ」となだめた。ところがおれの横にいたタッちゃんは、すっと立ち上がったかと思うとフロントに向かった。受付の人と話し、戻ってくるなりおれたちを見まわして言う。
「明日も予約をとった。朝一番からだ」
 険のある顔つきに、どきりとした。
「あれだけコケにされて黙ってられるか。目に物見せてやる。そうだろ、おまえら」
 おれたちは驚きのあまり顔を見合わせた。若い頃のタッちゃんだ。普段は寡黙なくせに、いざとなれば誰より血気盛んで、皆を引っ張っていく。あの頃のタッちゃんがそこにいた。
「もちろんだ。やってやろうぜ」
 身体中に力がみなぎってきていた。ほかの二人も同じだったと思う。
 翌日からのタッちゃんときたら、別人のようだった。歌詞は多少あいまいでも、そのパワフルな歌声には気圧されそうになる。負けじとおれたちも特訓を重ねた。あちこち湿布だらけで節々が痛い。毎日くたくたになりながら、それでもスタジオに通い続けた。
 いくら皆が年金暮らしといっても、江ノ島に行かせるだけなら、お金を出しあえば済むことだ。シゲもヤスもそれはわかってる。なのに言わないのは、このバンドが今しかできないことだからだ。いくつになっても、おれたちには今しかないのだ。
「いよいよ明日だな」
 タッちゃんを送った帰り、シゲが言った。
「ああ。しかしあの覚醒はびっくりした」
「したなあ。そういやこんな奴だったなって」
「俺、タッちゃんには借りがあるんだよ」
 珍しくしみじみとヤスが言った。
「事業に失敗してこっちに戻ってきた頃だ。全然金がなくてな、生きるのに必死だった。でもタッちゃんが、しょっちゅう飯おごってくれたんだ。あれがなきゃ、野垂れ死んでた」
「俺とキヨシが県外にいる時期か……でもそれなら俺も、立派な店を建ててもらったぜ。骨董品屋なんてニッチな商売だけどよ、門構えがいいから息子にまでなんとか継げたんだ」
「そうだな。おれはやっぱり、女房と付き合えたことだ。告白するのに二の足踏んでた時、背中たたかれて大丈夫だって言われてよ。理屈も何もないんだが、いける気がしたんだよ」
「あったあった」
 なつかしい話がわんさと出てくる。ずいぶん遠回りの運転だった。
「明日はやるぞ」
 三人で意気込み、その日は別れた。
 しかし翌朝になって、ケイコから電話がかかってきた。
「あの人がいないの」

 手分けしてタッちゃんを探した。昼過ぎにはフェスの出番がある。老人の足では遠くまで行けないはずだが、それはこちらも同じだ。
 行きそうな所をいくつか巡るも見つからない。悪い想像が頭をよぎる。いくら気迫が戻ったといっても、認知症には違いないのだ。
 今のタッちゃんはどういう状態なのか……ふと心当たりを思いついたおれは方向を変えた。かつて通い慣れた道はずいぶん様変わりしている。それでも街路樹や古い喫茶店の横を通る度、まざまざと思い出がよみがえってきた。
 おれたちの高校だ。裏門の前にはタッちゃんが立っていた。
「キヨシ、わざわざ悪いな」
 五十年前と同じ、口を曲げて不器用に笑う姿がそこにはあった。
「今日のライブ、ケイコに言ってくれたか?」
「あ、ああ。来るってさ」
「助かるよ。こないだお前には大丈夫と言ったくせに、自分のことになると照れ臭くてな」
 そうだ、あの文化祭の時、おれはタッちゃんに頼まれて彼女を呼んだのだ。
「でも、さすがに腹は括ったぜ。今日の演奏を成功させて、俺はケイコに告白する」
 自分は口下手だから、せめてライブで良いところを見せたいと言ってたっけ。
「大丈夫だ。おれたちも精一杯やる」
「ありがとうな」
 記憶が混濁して、あの文化祭と今日のフェスが重なっているんだろう。目の前にいるタッちゃんと同じところを見ていない寂しさに胸が詰まりそうだったが、おれの気持ちもあの時と同じだ。なんとしても今日のライブを成功させたいという気持ちが募っていた。
「ステージだけど、野外になったんだ。案内するからついてきてくれ」
「おお、そうだったか」
 シゲたちに連絡をとり、会場に集合した。皆で安堵し、ケイコを観客席に送ってから出番を待った。
 袖で待機していると、ステージから一際大きい歓声が上がった。演奏を終えて出てきたのは、あの若者たちだ。
「うっわなんすかその楽器。部族系?」
「まあ頑張ってくださいよ」
 へらへらと彼らは去っていった。最後の言葉には「せいぜい」が言外にあったが、もはや瑣末なことだった。後は懸命にやるだけだ。
「よし、行くぞ」
 タッちゃんの言葉に呼応し、おれたちはステージに出た。妙な楽器を持っているせいか、観客席がざわついている。二百人以上はいそうだ。なのに不思議と緊張はしていない。
 パイプ椅子に腰かけ、皆に頷きかけると、おれは弓を構えた。
「スモークオンザウォーター」は歪んだギターの音から始まる。つまりおれの担当だ。馬頭琴の音色は草原の爽やかさを思わせるが、よく聞けばノイズが含まれている。おれはしっかりと音符の長さを守り、テンポをキープすることに専念した。次に入るシゲの感覚が狂わないようにだ。
 狙い通りシゲはテンポを引き継いで叩きはじめた。手で鳴らす陶器の音は普通のドラムと違い、どうにも温かみがあり軽い。それでも壺の叩く位置とアクセントを細かに変えることで、気持ちのいいリズムが生まれている。
 次いでベース。ディジなんとかは低音には違いないが、ゴムのようなビヨンとした音が鳴る。しかしギターとドラムが優しい音色なので、かえってアクセントになっていた。
 ただおれたちの演奏はメインじゃない。やや歪な空間に、タッちゃんの歌声が放たれた。
 低音で少し掠れた声が、爆発的な声量によって迫力を増幅させている。びりびりと空気が震動し、観客が圧倒されているのがわかる。自然と笑みがこぼれたが、横を向くとヤスもしたり顔だった。後ろのシゲも同じだろう。
 加熱するタッちゃんの声と共に、おれたちの演奏も熱を帯びる。そうしてその熱気は最高潮のまま、曲はラストを迎えたのだった。
 一瞬静まりかえった後、観客席から万雷の歓声があがった。指笛を鳴らしている者もいる。信じられない心地だ。おれたちは立ち上がり、手をあげて声援に応えた。

 結果から言って、優勝は四十絡みのジャズバンドだった。無理もない、おれたちは荒削りすぎた。あの若者たちは、結果発表の時に我々を遠巻きに見ていたが、優勝がわかるとだるそうに帰っていった。
「くそっ」
 おれたちの中でひときわ悔しそうにしていたのはヤスだ。最初は乗り気じゃなかったが、ヤスが一番練習していたと思う。シゲはそれより楽しさが勝っているようだった。負けたには違いないが、持てる力を出し尽くしてのことだ。おれも妙に清々しい気分だった。
 片付けをしていると、タッちゃんがふらふらと歩いていった。ケイコがこちらに駆け寄ってきている。
「すごかった、本当にすごい」
 興奮さめやらぬケイコに「あのよ」とタッちゃんは声をかけた。
「幸せにする。俺と結婚してくれ」
 ケイコは一瞬目を見開き、それから「うん」と言った。ふるえる声で「お願いします」と答えた。
「本当か。いいのか」
「うん、うん」
 涙を拭いながら、ケイコは何度も頷いた。

 タッちゃんとケイコを乗せた車が遠ざかっていく。運転しているのは娘さんだ。
「行っちまったな」
 フェスの日からまた徐々に症状は現れ、良くなることはなかった。今日からタッちゃんは介護施設に入る。ケイコも受け入れていて、今後は娘に頼りながら、施設に通うらしい。
 どうしてあのバンドの時だけ、タッちゃんが昔に戻ったのか。たぶん理屈じゃないんだろう。ただ、かけがえのない時間を過ごしたのは確かだ。
 でもこれで終わりじゃない。
「また顔見に行こうぜ」とシゲが言った。
「タッちゃん、俺らのこと忘れねえかな」
「忘れちまっても、これ見たら思い出すだろ」
 おれが胸ポケットから取り出した写真を見ると、二人は「そうだな」と笑った。
 ライブ終わりの集合写真だ。おれたちと肩を組むタッちゃんは、少しも昔と変わらない。
 たとえ今を見失っても、思い出があれば帰ってこられる。
 今を生きていく限り、青春に終わりはないのだ。
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