第九章 秩父に暮らした縄文の民 

文字数 1,107文字

 埼玉県最西部に、秩父という土地がある。荒川の上流部であり、秩父盆地が広がっている。秩父連山に四方を囲まれており、山梨県、長野県、群馬県、東京都に接している。

 この秩父には、かつて「古秩父湾」という海が広がっていた。それから1700万年の時が流れ、秩父の古(いにしえ)の民の痕跡は古く縄文時代までさかのぼれる。浅瀬の続く古秩父湾の豊穣な海辺に沿っていくつもの集団が暮らしていたと想像できる。縄文時代の貝塚や住居跡が群馬から秩父まで点在して発見されている。約1万6000年前の旧石器時代後期に秩父で人々が暮らしていた痕跡は、下蒔田遺跡で確認されている。また、約1万2000年前の縄文時代草創期の石器類および土器が、神庭洞窟(三峰)や橋立岩蔭遺跡(上影森)から出土している。
 また、一万年にもおよぶ縄文時代の土器や土偶の研究から、文字を持たなかった縄文人の社会性とコミュニケーションツールが研究されている。前期から後期までの土器・土偶を他の地域、地方との類似性を比較することで、縄文時代の情報の流れがみえてくるという。文様の変化や土器・土偶の形状比較によると、概ね西から東へ作り方が伝達されたようだ。今の中央道に沿った流れと、諏訪方面から峠を越えて、秩父や群馬に続く二つの流れがあったと想像されている。

オサキの首傾げ
 縄文時代には諏訪との地域交流があった痕跡がある。特に十文字峠は縄文時代から開かれていて、信州で産出される黒曜石が秩父では狩猟用の鏃となって遺跡から発見されている。諏訪からは秩父にない黒曜石を、秩父からは諏訪にない古秩父湾の海産物と塩を交換したのではないか。その時使われた縄文土器が文字を持たない縄文人同士のコミュニケーションツールの役割を果たしたようだ。

 縄文時代前期から中期にかけて、諏訪にはヤマト民族による東方侵略があったのではないか。縄文時代の諏訪は豊かな土壌と進んだ技術を持っていたので侵略の対象になったと思われる。古事記によると出雲の神(タケミカヅチ)との国譲りの戦に敗れた神(タケミナカタ)が、逃げ延びた諏訪から出ないと約束して許された神話は、実は東方侵略の物語だったのではないか、と言われている。諏訪に伝わる伝承ではタケミナカタは現地の神々(洩矢の神)を征服する神として登場する。その時諏訪から追われた先住民の縄文人たちが、養蚕と米作のノウハウを手に峠を越えて秩父や群馬南部にきたのではないだろうか。
 諏訪を追われた縄文人がいたことは、秩父に諏訪神社がある理由にも通じるのではないか。諏訪の地を追われた民が秩父で暮らし始めたら、以前の信仰を復活させたいと思うのは当然のなりゆきであろう。
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