2026年

文字数 5,000文字

 断裂は進む一方だ。
『ビジネス以外の交流は控えろ』のお達しがでてから、敵対国(という名称を報道も使いだした)に残る日本人は多くない。危機迫る近辺友好国からの避難民は少なくない。迫害を恐れる者たちはこの国から逃げだしている。いまだ残る人もいるに決まっている。
 海峡封鎖。核保有宣言。空母打撃群の集結。東アジアは急速にきな臭くなっている。それでもなお、それぞれの政府が望むは経済活動の維持……すでに破綻しているよな。

『じきに断交(渡航禁止)になる。やっていられるか』
 五十代バツイチの女社長が決断した。
 レジンや陶器のインテリア小物を輸入していた小さな会社が消える。スタッフは日本人である俺と梅津さん、社長と同じ国籍の(しょう)くんとナナの四人だった。
 宣告を受けた夕方、俺たちは会社が入居するビルの向かいのカフェに集う。全員がSサイズのホットコーヒー。数年前より倍近く値上がりしている。ミルクも有料。
「十日後なんて、いきなりです」
 はす向かいで紅一点のナナがうつむく。四人で一番年下の二十八歳。本名は林诗涵(リンシーハン)
「ずっと休眠状態だったにしろな」
 彼女の隣に座る三十二歳の梅津さんが言う。俺は三十で卲くんは二十九歳。ほぼ同年代の四人はいずれも独身。
「契約工場と連絡つかなければ手の打ちようがないですよ。出向けば拘束されるかもの状況だし、潰れるまえに解散した」
 俺はそう言ってカップに口をつける。
「田口さんは冷静ですね」
 隣で卲くんが腕を組んだまま言う。北方出身の彼はイングリッシュネームを持っていない。本名を日本語読みされるのを好む系だ。
「退職金が雀の涙でも感謝すべきかな」
 梅津さんが感謝の欠片もない顔で言う。

 倒産は増加している。六年前の無利子無担保融資の返済が、零細中小企業の首を絞めている。景気の

は非常によろしくない。物価と失業率が競り合うように上がっている。
 それでも日本はまだましだ。あちらは経済封鎖の影響が広がって、深刻な品不足とエネルギー不足に陥っている。冬が近づいている。政府のキャパを越えた人口。地方では餓死者が現れるかも。誰もが不満と不安の矛先を探っている。臨界点は近づいている。

「ナナはどうするの?」
 梅津さんが尋ねる。
「どうするって……帰国の意味ですか?」
 彼女がようやく顔を上げて先輩を見つめる。おおきな目。薄いメイク。おでこにかかった髪。
 俺は三十歳にもなって鼓動を感じてしまう。ナナは真面目でかわいい。ナナは一生懸命でかわいい。ナナはたどたどしくてかわいい。きっと梅津さんも卲くんも同じに思っている。卸先も仕入れ先も、彼女に関わる人は国籍に関係なくきっとみんな思っている。
「卲さんはどうします?」ナナは同胞に尋ね返す。
「こうなる前から両親も兄も戻ってこいと言っている。兄の仕事を手伝えるけど、日本語は不要」
「俺や田口より恵まれているじゃん。俺らの外国語だってしばらく不要(プヤウ)だぜ」
 梅津さんが嫌味ぽく笑う。「俺は三十で独立のつもりだった。人生計画が狂いまくりだ」
 ナナはそんな話題に興味を持たない。
「……みなさんはどうします?」また尋ねてくる。
 遠回しに俺へ聞いた。まだ何も考えていない。
「実家には帰らないと思うけど」曖昧なことしか言えない。
「そうですか」
 ナナはまたコーヒーカップに目を落とす。

 ナナは一年前に入社した。祖国で日本語を学び、東京に留学してそのまま就職。ビジネス会話も日常会話も卲くんより上だった。でも英語は使えない。まともに喋れるのは会社で俺だけだったけど。
 この三か月で、俺とナナはプライベートで三回逢っている。ひと月前に俺が日本人の彼女と別れてからは、二人きりで逢ってくれない。
 卲くんもナナと私的に会ったらしい。『ボディガードでした』と本人から聞いている。北生まれらしく体格の良い彼が、大使館へ一緒に向かってあげた。幸いにも建物はデモ隊に取り囲まれず、二人は一緒に夕食を済ました。『広東系の中華でした』だと。

「俺はナナが好きだ。でも結婚は考えられない」
 彼女が外で電話している時に、梅津さんが唐突に言う。俺はまた鼓動を感じる。
「どういう意味ですか?」卲くんも食いつく。
「俺なんかの嫁になるはずないってことだよ」
「ごまかしましたね。ナナが敵国人ですからですか?」
「卲、日本語ちょっとおかしい。顔つきがちょっと怖い。そんで俺はあの国が大好きだから、あの国の言葉を勉強した。敵なんて思ってないよ」
 ナナが戻ってきて、その話題は途切れる。彼女は卲くんへ目を向ける。
「一番仲良しの友だちは帰ろうと言っている。……私も帰国するかもしれないです」
「部屋をシェアしている子だね」
 梅津さんが確認するように言う。

 ***

 仕事は実質なくなった。
『出勤しなくてもよし。最後の日にお別れ会しよう』
 社長も滅多に出社しない。身近な商品が店頭に並ばなくなるとのニュース。世情は暗くなっていく。
 その日は、梅津さんだけが事務所にいた。パソコンを操作していた。
「次の仕事を探しているけど厳しいな。マジで自衛隊だけかも」
「米軍の代わりにあの島へ派遣されるって噂がありますよ」
「でも通訳できるからきっと高待遇だぜ。まだ翻訳機より優秀だし」
「ナナに会いましたか?」
 俺は話題を変える。あの日以来彼女の顔を見ていない。メッセージにも返事をくれない。近況を知るために会社に来たようなものだ。
「ああ。相談されたから二人で会った」
「え?」予想外の返答に動揺してしまった。「やはり帰国するのですか?」
「そう勧めたよ。でもまだ悩んでいた。シェアルーム相手がいなくなると家賃の支払いが厳しいし、こんな情勢じゃ家族の近くにいるべきだよな。……俺と結婚するかと冗談言ったら、不是(プーシー)だとよ」
 梅津さんはモニターを見たままだ。この人は軽いところが、ほかの三人と違った。でも社長みたいに独善でないから、彼女も相談したのだろう。俺にじゃなくて。
(シー)と言われたらどうしました?」
「ホテルに直行さ」
「結婚する気がないならそうしますよね」
 俺の言葉に、画面から顔を上げる。
「カフェでの話を言っているのか? あれは卲をあおっただけだよ」
「あおった?」
「ああ。彼女を守れるのは『違う国にいる同じ国の人』と伝えたかった。予想通りに卲はむきになっただろ?」
 返答に窮してしまう。それこそ何のためだ。
「なのに田口はナナを誘ったよな。デートしたな。平気で抜け駆けしやがって」
 いきなりぶり返しやがった。
「何度も言いましたけど、俺の勝手じゃないですか。関係は同僚のままだし」
 ナナと真剣に付き合いたいから、卑怯な俺は当時の彼女を振った。会社でふたりきりの時に告白して断られた。
“私たちは違う国の人ですよ”
 それが理由らしい。だから同僚のまま。互いに外国人のまま。
「俺だってナナと付き合いたかったよ。日本人(リーベン)より美人で真面目で母国語に堪能。理想のパートナーだ」
 まだ梅津さんは立ったままの俺を見上げていた。この人は、彼女と遂げたい気がありありじゃないか。
「だからふざけた振りしてプロポーズしたのですね?」
 誰もが弱気の状況下を狙ったわけでないにしても。
「そして断られた、ははは。……ナナには、あいつだけはやめておけと言っておいた」
「あいつって?」
「田口に決まっているだろ、感謝しろよ」
 梅津さんがパソコンを終わらせる。「俺は打ち上げに参加しない。ここに顔だすのも今日が最後かな」

 ***

 梅津さんを怒鳴ったりしなかった。『結婚は考えられない』とのカフェでの言葉を、俺にこそ伝えたかったと気づけたから。いきなりミサイルが飛んできそうな状況を悟ってほしかったのだろう。自分はナナに未練があったくせに。プロポーズしやがって。でもこれでおあいこだ。
 そして俺にこそ未練がある。
 だからナナに電話する。なのに出てくれない。
 喧嘩をした訳でもないのに、敵国人(梅津さん)には会っているのに。

『色々と話をしたいです』
 卲くんから連絡があったので会社前のカフェで落ち合う。
 彼はいつもどおり学生みたいな服装だった。彼の大柄な図体を見るのもあと何回だろう。
「僕はこの国が大好きでした。明るくて優しい人がいっぱいでした」
 卲くんはそう言って涙目になる。
「俺だってあの国が大好きだよ」
 俺も社交辞令を口にする。出張中に緊張を覚えさせる国だったけど、日本人より素朴で親切な人が多かった。その真逆もいたけど人口が多いのだから仕方ない。
「僕は仲直りすると信じています」
 卲くんは言うけど、国同士の喧嘩だ。俺にはとても思えない。よくて現状維持だろう。
「いつかきっとね」だからそんな言葉で濁す。「いつ帰るの?」
「六日後が取れました。善は急げです……の言い方で正しいですか?」
 卲くんはそう言ったあとに「ナナと会いました」
 彼がそれを切り出す予感はしていた。
「へえ。俺は何度も連絡したのに返事が戻ってこない」
 予行練習していたとおりに平然と告げる。「嫌われたみたい」
「それはないです」と卲くんは言ったまま黙りこむ。
 俺は店内を見渡す。四人はここで日本語以外でディスカッションの真似事をした。いまはとてもできない。人質を解放しろと殴られるかもしれない。
「僕の町に来ませんかと、彼女に提案しました」
 俺が予想していた言葉を卲くんはようやく口にする。「でもナナは故郷に帰るそうです」
 安堵と失望が同時に押し寄せた。彼女も帰国する。
「卲くんの町が寒いからだよ。ナナの生まれた村に行けばいい」
「あそこには何もないです。仕事もない」
 俺は冗談ぽく言ったのに、彼はまじめすぎるほどに返してくる。
「それでもナナは帰るんだ」
「ここにいられないでしょう。どんどん差別されます」

 その後は思い出話をしたり、卲くんの理想論に相槌を打ったりした。
「ナナと話したい。卲くんからも頼んでほしい」
 店を出てから彼に頼む。
「もちろんです。田口さんにこそ感謝を伝えたいに決まっています」
 彼は微笑みながら言う。俺へと手を突きだす。
「これからは誰と会っても、そのたびにしっかり握手したいです。――再見」
 俺も握りかえす。泣いてしまった。

 ***

 ただでさえ国際結婚を、とりわけアジア人同士の結婚を揶揄する奴がこの国にはいる。俺の親もそれに近い。“違う国の人”とは、日本人でないという意味。しかも世界はどんどん不寛容になっていく。誰もが自分の身さえ保障できない。祖国に逃げ帰るのが正解だろう。
 でも、もし俺たちが同じ国の人だったら――そんな必要なく、もし俺やナナやみんなに平和な瞬間がもう少し続いていたら、俺は笑われるほど何度も告白していた。

 彼女のマンションはオートロック。エントランスに数時間張りついただけで管理人に通報された。
 彼女がいつ旅立つのか知らない。もうこの島にいないのかもしれない。
「もう一度だけ会いたい」
「こんなで終わりたくない」
「電話だけでもいいから」
 返事は帰ってこない。ナナは意固地でかわいい。俺と会うのを恐れている。会えたならば抱き締めて二度と離さない。

 卲くんが去った翌日、大陸への直行便のほとんどがいきなり休止となった。香港への数便かシンガポールなど経由だけ。一気に遠くなってしまった。
『社長が連行された。誤解に決まっているけど俺たちも聴取されるかも』
 梅津さんから連絡が来た。
「ナナは?」俺はそれだけを聞く。
『連絡取れねえ。もう過去の人かな』

 最終交渉。超大国はどちらも譲らなかった。

「心配過ぎるんだよ! 連絡よこせ!」
 返事は来ない。
「まだいるの? ならば俺が守る」

『どうやって守ってくれるの?』

 十七日ぶりにメッセージが届いた。電話する。つながらない。SNS経由で電話する。
『ニーハオ』
 切れそうに弱い電波。それでも彼女はでてくれた。
「もう母国なの?」
『はい』
 またも安堵と悲しみ。その片方だけを見せる。
「よかった。じゃあ両親と一緒なんだね」
『兄弟ともです。……どうやって守ってくれるのですか?』
 ナナはずるくてかわいい。
「なんで今さら聞くの?」
 ナナは沈黙する。雑音がひどくて、はるか向こうですすり泣こうが気づけるはずない。本来ならば、かける言葉は幾通りもあるはずだ。でも分断された両端にいる二人。それはずっと前からだった。
「再見」俺が言う。
『さようなら』ナナが言う。
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